■ 絞首刑について、可視化について       西村 徹

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■ジョージ・オーウェルの『絞首刑』


  『絞首刑』という2000語に足りない短編がある。ジョージ・オーウェルが1931
年に書いた。オーウェルは1903年生れだから28歳で書いたことになる。オーウェ
ルは王室奨学生(king's scholar)としてイートン校を卒業したのち、大学に行か
ずにインド警察に就職した。そしてインドが間接統治していたビルマで警察官の
勤務に就いた。この作品はその当時絞首刑に立ち会ったときの経験に基づいて書
いたものである。

 英語話者民のあいだで死刑反対を唱える人ならば、ほとんど誰もが知る基礎文
献になっている。千葉景子氏は英語話者民ではなくても死刑に反対する弁護士で
あって代議士であって、しかも法務大臣だったから、当然読んでいるものと思っ
ていた。しかし今回のあんなことがあって、まさかとも思うが、ひょっとすると
読んでいないのかも知れないとも思った。これを読んで、なお死刑を肯定する、
ましてや執行する気には普通なら到底なれないはずだからだ。

 もう遅いかもしれないけれども、これからのこともあるから、やはり是非読ん
でもらいたいと思う。処刑に立ち会って、すでに現状を目撃しているとしても、
あらためてこの不朽の小編を読むことは何ら意義を失わないと思うからである。
原文A Hangingはネット上でも読める。オーウェルの透きとおった、「窓ガラス
のような」散文を読むことができる。

 日本語でなら岩波文庫に小野寺健編訳『オーウェル評論集』というのがあっ
て、その2番目に『絞首刑』として出ている。当節流行の速読で読めば数十秒だ
ろうが、それでは、その数十秒を失うだけのことになるだろう。むしろ役者が台
本を覚えるときのように声を出すぐらいにして読むのがいいだろう。それでも大
した時間はかからない。短編の速読は意味がない。詩集や歌集を速読しても意味
がないように。


■あらまし


 小野寺訳にしたがってあらましを抜書きする。

 雨季のビルマの雨上がり、ひとりの死刑囚が監房から出されて刑場に連行され
るところから描写は始まる。どこからともなく野良犬が飛び出してきて「人間が
大勢かたまっているのに大喜びで、全身を震わせながらまわりを跳びまわった。
・・・われわれのまわりをパッとひとまわりしたと思うと、こんどは止める暇も
なく囚人に駆け寄ってきて跳び上がり、その顔を舐めようとした」。
  (中略)
  囚人は「腕を縛られているので歩きかたはぎこちないが、よろけもせず、あの、
インド人特有の、決して膝をまっすぐ伸ばさない足どりで跳ねるように進んで
ゆく。ひと足ごとに、筋肉がきれいに動き、一掴みの頭髪が踊り、濡れた小石の
上に彼の足跡がついた。そして一度、衛兵に両肩をつかまれているというのに、
彼は途中の水たまりをかるく脇へよけたのだ。

 妙なことだがその瞬間まで、わたしは意識のある一人の健康な人間を殺すとい
うのがどういうことなのか、わかっていなかったのだ。だが、その囚人が水たま
りを脇へよけたとき、私はまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言
葉では言いつくせない誤りに気がついたのだった・・・彼の体の器官はみんな動
いている・・・。

 爪は彼が絞首台の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、いや宙を落ちて
行くさいごの十分の一秒のあいだも。・・・彼とわれわれはいっしょに歩きなが
ら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解している。それがあと二分で、とつぜん
フッと、一人が消えてしまうのだ―一つの精神が、一つの世界が。

 (中略)  やがて縄を首に巻かれた囚人は、自分の神に向って大声で叫びはじ
めた。「ラーム、ラーム、ラーム、ラーム!」甲高くくりかえされるその声に
は、祈りとか助けを求める叫びのような切迫した怯えはなく、むしろ葬式の鐘の
音のようにおちついたてリズミカルだった。この声を聞くと犬はクーンと鼻をな
らした。・・・だがあの声は布袋をかぶされても、まだくりかえしくりかえし続
いていた。「ラーム、ラーム、ラーム、ラーム!」・・・囚人のこもったような
声は、一瞬もやむことなくしつこくつづいている。・・・一声でまた一秒、命が
伸びるのだ。
だれもが同じことを考えていた―えい、ころしちまえ、すませろ、あの忌まわし
い声を止めるんだ!
 (中略)  ガタンと音がして、それきりしんとなった。囚人の姿は消え、ロー
プが勝手にねじれつづけていた。私が手を放すと、犬はまっすぐ絞首台の裏側へ
駆けて行ったが、それきりそこに立ちどまって吠え、こんどは庭の隅までさがっ
て雑草の中にひそんだまま、おそるおそる首をのばしてわれわれの方を眺め
た。・・・彼は爪先をまっすぐ下に向けて石のように息たえたまま、ひどくゆっ
くりと回転していた。
 
(中略)  仕事を終えたわれわれは、すっかりほっとしていた。歌いたいよう
な、駆け出したいような気分で、思わず笑いがこみあげてきた。とつぜん、みん
なが陽気に喋り出した。
  ・・・「あの男はね(死んだ男のことである)、上告が棄却されたと聞いたら
独房の床に小便もらしちゃったんですよ。おびえちゃって」・・・いく人かが笑
った―何を笑ったのか、誰もわかっているとは思えなかった。
 
(中略)  「キレイにすんだ―ピシッとね。いつでもこう行くとはかぎらない―と
てもとても。医者が絞首台の下までもぐりこんで囚人の脚を引っぱって死なせて
やらなくちゃならなかったことだって、いくらもあったんですからな」。
 (中略)  「脚を引っぱったのか!」ビルマ人の判事がとつぜん大声で言う
と、たまらず笑い出した。これでまたみんなが大笑いした。・・・みんなで仲良
く飲んだ。死んだ男とは、百ヤードしか離れていなかった。


■ちょっと一言(鑑賞的に)


  脇役として犬が決定的な役割をはたしていることは誰しもが気付くだろう。脇
役といっても神様が人間世界の脇役として決定的であるのとおなじくらいに、こ
の犬はこの作品を決定しているであろう。期せずしてDogはGodのアナグラムにな
っている。オーウェルの意図とはかかわりなく結果としてそうなっている。ある
種の異化効果が生じて、これでひとつ、人の目からウロコが落ちる。目からウロ
コが落ちたところで、囚人の筋肉の動きや「途中の水たまりをかるく脇へよけた
」ことへの驚きが、死の寸前まで人間の日常は続いていることへの驚きが浮かび
あがる。

 自分の神に向って大声で叫びはじめた「ラーム、ラーム、ラーム、ラーム!」
というのも、さまざまな想いを呼ぶだろう。受けとる人によってちがうだろう
が、われわれの耳には、おのずから、まず「ナムアミダブツ」の「ナム」に類似
の音声が聞きとれるだろう。「自分の神にむかって大声で叫び」といえばそれだ
けで濃厚に聖書的で、十字架上のイエスの最後のことばのひとつ「エリ・エリ・
ラマ・サバクタニ」が、連想の束のひとつとして浮かぶこともあるだろう。つま
るところ主客の関係は逆転していて、囚人はまわりの刑吏たちより高い次元に高
められていると感じられてくるだろう。

 最後に人々は笑う。なぜ笑うのであろうか。キマリが悪いときに人は笑う。尻
餅を撞いたときに人は笑う。当選した政治家は泣いたりするが落選した政治家は
泣いたりしないで笑うことが多い。最後に人々が笑うことで空しさはいっそう深
まる。しかし端的には厄介な重荷が降りて身が軽くなったことが笑いの原因とし
て大きいだろう。そして首吊り役だけでなく「みんなで仲良く飲んだ」のはこん
なところにも仕事の連帯感はあって、責任を特定の者にしわよせしないで共有す
る意識のゆえであると同時に共有するわが浅ましさを意識から消そうとして笑う
のであろう。


■絞首刑は残虐刑


 
  ちょっと一言がちょっと多くなったが、現実に大事なのは、絞首刑は絞首刑だ
ということである。先般法務大臣の指示によって刑場が公開されたが、やはり「
ピシッときれいにすんだ」かどうか、5分後に医者が下に降りて確かめることに
なっているらしい。その場合も足を引っぱるのかどうかは明らかにされていない
が、大分昔(たぶん80年ごろ)読んだ加賀乙彦氏の著書によると、「ピシッとき
れいにすむ」率は特捜が起訴して有罪になる確率ほど高いものではなかったよう
に記憶している。

 そしてぶら下がってからもしばらく筋肉の痙攣があって身悶えるように捩じれ
たりすると記されていたのも記憶している。今はぶら下がってからどうなるか、
すぐには誰にも見えない仕掛けになっているのは苦悶のさまが見えては困るから
のことだろう。

 アメリカの電気椅子による処刑でも通電をよくして即死できるように頭に巻く
スポンジを濡らしておくらしいが、それをわざと怠って乾いたままにして苦痛を
増幅させ、いわば焼き殺す場面を、そして頭が焦げて煙の上がる場面を、1996年
「グリーンマイル」という映画で見た。そういう例外を除いて絞首刑は電気椅子
以上に残虐だろう気がする。

 千葉景子法相(当時)は7月28日に自ら立ち会って2人の死刑を執行したが、8月2
7日午前、東京拘置所内に設けられている「刑場」を報道機関に公開した。各紙
は写真入で大きな記事にした。しかし、やはり、執行室の下の、つまり死刑囚が
吊るされた状態で落下する部屋は公開されなかった。見たくない、見られたくな
い、見せたくないからだろう。

 執行室の首を吊るす直径3センチ長さ11メートルの絞縄も外されて見ることが
できなかった。写真は新築マンションのモデルルームかパーティー会場のように
明るくてピカピカしていた。いよいよの時には照明を落とすのだろうか。踏み板
が開いて発する大きな音を(たぶん)厚いガラスで隔てられた立会い室でも聞こ
えるのであろうか。。それともサイレント映画のようなのだろうか。執行室と立
会い室を隔てるガラスにカーテンがあるの執行の時にだけ芝居の幕のように開く
のだろうか。


■充満する欺瞞性


 
  ともかく写真を見た途端、よくもまあこれほどウソ臭いセットを拵えたものだ
と感心した。教誨室には仏壇があり、前室には仏画があり、抹香の匂い、クレゾ
ールの臭いが漂っていたという。どこの新聞だったか、たぶん前室だったかには
絨毯が敷いてあって「厳粛な」気分とか書いていた。真相を隠蔽するには「厳
粛」を演出するのがもっとも有効だ。人間を神に仕立てる演出には奉安殿がいち
ばんであった。

 なぜ仏壇なのか。仏画なのか。他の宗教はいざ知らず、殺生を禁じる仏教は基
本的に死刑には反対のはずだ。もっとも独房で刑の執行を待つ間に何らかの宗教
に入信することはありうる。しかし仏教とはかぎるまい。政教分離はいったいど
うなるのか。教誨師資格は仏教の僧侶以外を排除するものではなかろう。葬儀屋
であっても客の注文次第で無宗教にもキリスト教にも、いろんな風に演出を変え
る。けばけばしい仏壇とかぎったわけでなかろう。

 欺瞞の最たるものは執行室横の壁を隔てたボタン室。ボタンが三つあって三人
の刑務官がまるで早や押しクイズのようにヨーイドンで押すことになっている。
同時に一斉にということだから誰がいちばんに押したかはわからない。つまりは
「みんなで渡ればこわくない」で、誰も先に押したのではないと思えば思えるよ
うになっている。オ-ウェル作品ではもっと素朴に「首吊り役が下に降りてきて
レバーを握り、待機した。・・・ガタンと音がして、それきりしんとなった。

 囚人の姿は消え、ロープが勝手にねじれつづけていた」とあって、まだしも人
の血のかよった温もりが残る。しかし、こっちは、機械化され非人間化されて、
誰が押したのでもないという責任解除の虚構がつくられ、誰も手を下していない
のに、突如として囚人は落下して、姿は消える建前になっている。そして五分の
あいだは誰も見ない空白になるのだから、囚人の最後を見届ける者は誰もいない
ということになる。絞首刑の残酷は両者に共通であっても、はたしていずれが冷
酷であるだろうか。


■虚飾と隠蔽


 
  誰が押したのでもないようでいて、誰もが押したようでもあるのだから、三人
の刑務官は三人ながら下手人は「自分じゃない」と思うと同時に「自分だ」とも
思うだろう。そしてそれは十分トラウマになりうる程度に心を苛むことだろう。
その夜の食事は喉を通らないだろう。その夜はたぶん眠れないだろう。それにし
ても7月28日、二名が処刑されたという事実にあらためて驚く。同じ日に同じと
ころで二度も処刑されたという事実に驚く。
 
  生身の人間が一人死んで,その怨霊も立ち去りかねる、すぐあとに、消毒液が
散布されて臭いもなまなましいところで、くりかえし処刑が行われ、(おそら
く)あらたに別な三人の刑務官がボタンを押し、そして夜には六人が(おそら
く)うなされたのである。自ら処刑に立ち会った法務大臣は、そのとき刑務官の
心の負担と葛藤に思い及んでいただろうか。

 たしかに従来と異なり法務大臣が処刑に立ち会ったのは責任の所在を明確にす
るために一歩踏み出したものということができる。何事も先例を踏襲する世界だ
から、この例に従って今後の法務大臣は例外なく立ち会うことになるはずであ
る。しかしそれならば、なぜ更に一歩踏み込んで大臣自らが単独でボタンを押さ
ないのか。東京拘置所だけでなく、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡にも
刑場はあるから無理というのは通らないだろう。たまたま今回が東京だっただけ
で、いったん立ち会ったのだから今後も立ち会うと決まればどこの刑場にも行く
ということだろう。それとも見せかけの今回きりのパーフォーマンスだったのか。

 このように、いかにもそれは死刑廃止への一里塚ででもあるかのように千葉法
務大臣(当時)を説き伏せ誘い出して、刑場を公開した法務官僚の意図はなんで
あったか。日ごろ司法記者クラブで飼いならされた大手メディアの記者が書く記
事はすでに想定内である。指定にしたがって撮影される写真は人影のない、がら
んどうの静止画像で、そのもたらす効果もまた想定内である。

 予想通り各紙とも「清潔」とか「厳粛」とかの常套句で綴られていて、絞首刑
そのものの臨場感もなく、嫌悪感を喚起するような記事もなかった。すべては官
僚たちの計算どおりで、死刑制度を維持する地盤は固まったと彼らは考えている
ことだろう。死刑こそ彼らの権威を保持する砦であって、密室の取り調べと対に
なった、まさにshock and aweの舞台装置なのである。


■もう一つの装置―密室の取調べ


 
  死刑が彼らの権威を保証する装置の一つだとすると、対のもう一つの装置であ
る密室の取調べについても言及しておかなければなるまい。

 虚構によって真実を隠蔽するだけでなく、虚構によって事件を捏造することも
また、いまや警察・検察の常套手段になっているかにみえる。もちろん検事にと
って守秘は大切だが、守秘と隠蔽は混同されてはなるまい。隠蔽体質が逆に守秘
義務を忘れて、リークによってマスメディアを操作しさえしている。

 また捜査には作業仮設が必要であろうが、これと虚構とは混同されてはなるま
い。いまや作業仮設ならぬ虚構が横行し、守秘ならぬ隠蔽と、隠蔽とセットの漏
洩が常態化しているように見える。最近相次いで報じられる冤罪事件から推測す
ると冤罪による死刑も相当件数にのぼることであろう。
 
  特捜検察による証拠のFDかいざんを新聞がすっぱ抜いて即日主任検事を最高検
が逮捕し、その逮捕翌日その検事の上司の部長と副部長が、その必要ありとも思
えないのに、間髪を入れず逮捕された。早く火をもみ消そうとする最高検の狼狽
ぶりも尋常ではなかった。両人ともに容疑を否認、部長は「検察のストーリーに
乗らないよう争う」と言い、副部長は「最高検の取調べを全面可視化せよ」と要
求している。期せずして前者はわが「虚構」の実績を、後者はわが「隠蔽」の実
績を、それぞれおのが前科として自白証言している。

 更に興味深いのは、この両名について接見禁止処分を求めた最高検の準抗告を
大阪地裁は棄却している。裁判所は従来おおむね検察の追認機関であった。警察
・検察の乱発する逮捕状や捜索令状は裁判所が適正かどうかを判断することにな
ってはいるが、めったに却下することはない。裁判所が最高検の要求に楯突くこ
となど前代未聞である。世間に疎い鈍感な裁判所もすこしは世間の風あたりを感
じたのであろうか。


■昔はこうでなかったか?


 
  悪い冗談といおうか、ウロボロスの蛇は自分の尻尾を銜えてついには無にむか
って自己完決するが、それどころではない、検察は、敢えて言うが、わが口でわ
が一物を噛むような、淫靡というには滑稽にすぎるグロテスクな醜態をさらして
いる。往年の特捜検事出身者は口をそろえる。昔はこうでなかったと。あるいは
大阪地検は特殊であると。

 しかしジャーナリストの魚住昭氏によると、昔は悪質で巧妙であったが、今は
悪質で杜撰というだけで、リクルート事件の江副氏の場合にとどまらずロッキー
ド事件の際の丸紅の役員の場合も、壁にむかって立たせて耳もとに大声で罵詈雑
言を浴びせるなどの拷問があったという。机の脚を強く蹴ると机上の書類の山が
向い側の人の胸に衝突する。直接暴力でないが間接暴力である。電気的でないが
力学的リモコン操作によって道具を用いた暴力行使である。

 そもそも「取り調べ」などと、取って刻んで料理でもするようなイメージの日
本語をinterrogationに相当する語とするのが間違いで、判決の下るまでは推定
無罪、双方対等で、取調べ中も被疑者は人権を失うわけではない。黙秘権、供述
拒否権は憲法および刑事訴訟法に明記されている。

 立たせたり床に正座させたり、被疑者の肉体に苦痛を加えるのは拷問である。
拷問という暴力によって彼らは黙秘権、供述拒否権というものを定めた法自体を
破壊するものであって、明らかに違法であり越権であり人権侵害である。彼ら検
察・警察が可視化に抵抗するのは彼らの違法行為、法の番人でありながら法の敵
であることが曝露されるのを恐れるからである。


■最近の新聞から


  大阪府警東署刑事課の警部補(34)と巡査部長(31)が、遺失物横領容疑で会
社員男性(34)を任意で取り調べる際、取調室で大声でどなるなどしていたこと
がわかった。男性は近く、特別公務員暴行陵虐容疑で2人を大阪地検に告訴する
方針で、府警も取り調べ適正化規則に違反するとみて調査を始めた。府警や関係
者によると、男性は、9月3日、取り調べを受けた際、持ち込んだICレコーダー
に様子を録音。警部補らが「警察をなめとったらあかんぞ。殴るぞ」「一生を台
無しにするぞ」「家族までいったる」などとどなったり物をたたいたりする音が
記録されていた。(2010年10月7日読売新聞)

 さすがに音声の証拠が残っているので警察は暴言を事実として認めた。暴行も
あったらしいが証拠が残っていないのでシラを切っている。音声のみならず映像
も可視化がいかに必要かを証明する事例である。警察の暴言をテレビ(毎日放
送)が再生した実際の音声で聞くと、これはもはやヤクザの恐喝以外のものでは
ない。

 旧軍のリンチのときに使われる古兵のセリフより下等である。しかし旧軍のリ
ンチのときの口上と同じく、その物慣れた節回しと、淀みない口調から各署各庁
に共通して引き継がれている一定のパターンがうかがわれて、警察や検察では、
これがいまだに日常茶飯事であるらしいことがよくわかる。

 こんな例は前田主任検事事件以来、いや警察ものならば富山冤罪事件、志布志
冤罪事件このかた連日報じられていて、もはや陳腐な新聞記事ではある。しか
し、ここで注目すべきは「取り調べ適正化規則」という異様な文言である。「適
正化」というからは適正でなかったということである。当然なされているべきこ
とがなされていなかったということである。


■被疑者取調べ適正化のための監督に関する規則


 
  被疑者取調べ適正化のための監督に関する規則(平成二十年四月三日国家公安
委員会規則第四号)なるものがあって第2条2項:「被疑者取調べの監督に当たっ
ては、被疑者又は被告人(以下単に「被疑者」という。)その他の関係者の人権
に配慮しなければならない。」と明記されている。

 そして第3条1項には禁止条項として6つの細目が記されている。

 イ)やむを得ない場合を除き、身体に接触すること
  ロ)直接又は間接に有形力を行使すること(上記に掲げるものを除く)  
  ハ)殊更に不安を覚えさせ、又は困惑させるような言動をすること
  ニ)一定の姿勢又は動作をとるよう不当に要求すること
  ホ)便宜を供与し、又は供与することを申し出、若しくは約束すること
  ヘ)人の尊厳を著しく害するような言動をすること
 
  語るに落ちたというべきか。イからヘに至るまで、すべてこれまでやってきた
ことの、なんと具体的な告白であろうか。(注:ホ はカツ丼の出前をとって食
べさせたりすることであろう。)いや、今も盛んにやっていることの告白である。
  現にやっているからこそ大阪地検特捜部副部長は最高検による「取り調べの全
面可視化」を要求しているのである。理不尽な取り調べは大阪地検に特殊でなく
最高検にも一般であることを、これは物語っている。

 密室の取調べは彼らにとって蜜のように甘い既得権益である。可視化されると
既得権益が失われるから必死に反対するのである。したがって死刑制度の維持も
また同じく彼らの権威を誇示しうる一種の既得権益として彼らは理解するのであ
ろう。かくして死刑と密室の取り調べは霞が関の政治主導に対する抵抗の一環で
もあるわけである。


■法務省はガラパゴス島


 
  しかし法務省の場合は政治主導に対する抵抗であるのみならず他の省庁と多分
に異なる独自の側面があるように思われる。死刑制度も密室取り調べも先進国中
にあってきわめて特殊だという点である。ほとんどガラパゴス的に特殊である。
死刑も密室取り調べも両者ともに存続している国は先進国にあってはまったくの
希少品種である。戦後、民法は民主化された。しかし刑法は監獄法をふくめて置
き去りにされた觀がある。

 つまり、治安維持法時代の特高の手法がいまだに生き残っているのである。刑
法にはあまり占領軍政府の関心がなかったのかもしれない。しかし今になってア
メリカが日米地位協定の改訂に応じる姿勢を示さないのは日本の司直の密室の取
調べを忌避しているからである。とりあえず菅政権は09年マニフェストに掲げら
れていた取り調べの可視化を是が非でも実現すべきが急務と考える。それなくし
て死刑廃止に進むことはできまい。                    
             
(2010/10/10 世界死刑廃止デー記 )

                    (筆者は大阪女子大学名誉教授)

                                                    目次へ