■美人は多いか少ないか           西村 徹

       ―春さきのざれごと―

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 柳父章さんという人のホームページにはたのしいコラムがあって、その中で美
人というのは「美しいのではない、多数派の典型、代表なのだ」と書いている。
この人のコラムは超然というか飄然というか、油断も隙もないというのとちがっ
て、柳父さんのお好きなワインでいうとライトボディー。癖がなくてさっぱりし
ていて誰もが安心していただける。私もときどきいただく。いただくと、ごきげ
んになって、ちょっとおしゃべりしたくもなるわけで・・
 
 「女の人の顔をたくさん重ねていくと、標準的な顔かたち、つまり美人の顔に
なる」からだという。写真で実験しても同じ結論になるともいうから、それにち
がいはないだろう。たしかに「美人」は多くなった。先年95歳で世を去った大
先輩が、東海大病院で死ぬ数日前に書いてきた手紙に「女のひとはきれいになっ
た。看護婦さんはみなきれいだ。まるで極楽浄土にいるようだ」とあった。
 
 「だから、顔に生まれつき、あるいは事故で傷や変形があって、差別や偏見に
悩まされている『ユニーク・フェイス』のグループの人たちが差別されるのは
『少数派』だからだ」ともいう。これも概ねそれにちがいなかろう。
 「およそ差別の本質は、要するに『少数派』である、と言うことができるよう
に思う。部落差別も、在日外国人差別も。」と結んでいるのも概ねそれにちがい
なかろう。
 
 その結びに加えて「日本人は、伝統的に、多数派、少数派について、とくに敏
感なようで、それだけに、少数派差別が厳しいようである」と言っているのは、
少しためらうが自戒としてひとまず承ることとする。
 このように言ってもらうと「美人には申し訳ないけれど」美人でない少数派は
気持ちがやすらぐだろう。貧相に老醜が降りつもって「ユニーク・フェイス」の
グループに入る貫禄十分の私としても不愉快ではない。認知度も主観的にはコン
マ5、客観的にはもっと進んでいそうな私としてはなおさらである。
 
 しかし、一方では、それで一丁上がるだろうかという気にもなる。
 「女の人の顔をたくさん重ねていくと、標準的な顔かたち」になることはなる
が、それはソフトフォーカスの、輪郭の薄らぼんやりした「十人並み」ではあっ
ても美人とまでいえるのであろうか。美人といってもいいが、言わなければなら
ぬわけでもない。いくらたくさん重ねても、けっしてミロのヴィーナスのような
顔にはなるまいと思う。この国にも衣通姫(ソトオシヒメ)なる美女、書紀には
「容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃」とある。「におえる色、衣をとおして照れ」
るがゆえに和歌浦の玉津島神社に神として祭られている。

その名で呼ばれる桜もある。こういう顔を美人だとするならば、美人は逆の方向
での「ユニーク・フェイス」であって絶対的に少数派になるだろう。これを美人
でないとする自由は誰にもあるが、かなり無理だろう。とすると少数派の美人も
あるとしなければならぬであろう。

  573年教皇グレゴリウス一世がまだローマ都督の頃、奴隷市場に引き出された
金髪のイギリス人少年を見てNon Angli sed Angeli(アングルでなくてエンジェ
ルだ)と言ったとか、唐の長安では詩人たちが胡酒を酌みながら酒楼のイラン女
性にうつつを抜かしたとか、開国のころ横浜の日本人は白人を見て美しさにのけ
ぞったとか、シャリアピンはニューヨークの女に悩殺されて腑が抜けてしまった
とか、数だけの話で片付くわけでもないが、それは棚に上げて、ひとまずこれら
は少数であるがゆえに貴重とされたものでもあろう。差別という言葉を広く取れ
ば少数差別に違いないが狭い意味での差別とは逆になるであろう。
 
 何を美とするかを決める物差しは様々だが、やはり稀なる美人というのはある
わけで、容貌や体格だけでなくて頭のよしあしというのもある。だから神さまは
不公平で、だから差別しているとかいうことになるのかならないのか。頭のよし
あしだけについて言うと、ホリエモン氏などは、うんと頭のよいひとであろう。

しかし格別羨むほどのことではなく、その浮薄と転落いずれについても、いささ
か憐れでもあり、いたましくさえある。美貌は所詮skin deepとオルダス・ハッ
クスリーは言った。俗にイケメンといわれる政治家などが、ある局面で、醜い素
顔を見せることもある。ジャニーズ系だったりすると一層際立つようだ。美人に
ついても、まったく同じとは言わないが、高転びに仰のけに転ぶようなことがあ
りはしまいか。卒塔婆小町のこともある。美女は転じて鬼女ともなる。はなのい
のちは短い。
 
 誰一人として自分の顔だけは見ることが出来ない。鏡像のほか実像は見ること
が出来ない。人は死ぬことが出来ない。「生きている時には死は存せず、死が現
存するときには、われわれは存しないからである」というようなことをエピキュ
ロスは言った。「死ぬのはいつも他人」とマルセル・デュシャンは墓碑銘に書い
た。「美人はいつも他人」ではなかろうか。鏡に映る姿は、あくまで自分の外な
る、つまり他人だ。また美人を見ることの出来るのは本人を除くすべての他人だ。
頭がよいのも美人であるのも他人がいなければ成り立たない。他人なればこそ
「凡俗の眼を開きあえて見る」までもなく、観音さまであれ生身であれ美しいも
のを拝むのは目の法楽。
 
 これは屁理屈かもしれないし、それは阿Qだと言われるかもしれない。しかし
見てくれも脳みそもけっして上等でない人間が八十歳に達して、さんざん気にし
てきた挙句ながらに辿り着いた、私としては気に入っている屁理屈である。さて、
もう少し多数少数の話に戻る。
 
 「左利きの人は差別され、いじめられることがある。左利きは、右利きに対す
る『少数派』だからだ。『右』のことを英語で right (正しい)というのは、そ
のことを表している。多数派は『正しい』、『美しい』というわけだ。」と柳父さ
んはおっしゃる。確かに「左」はラテン語ではsinister(まがまがしい)で、ヨ
ーロッパでは右上位であるらしい。しかし日本が律令体制を輸入した頃の唐では
左上位だったから左大臣の方が右大臣より上だった。左遷などという言葉もある
からどちらともいえないが、ヨーロッパの場合がそのまま当てはまるともいえま
い。序に言うと、内裏雛の並べ方は、昔は男雛の左手に女雛だった。大正の時代
から逆になった。どっちつかずの、いい加減な話だ。エスカレーターで立ってい
るのは東京が左で大阪は右だ。東京都知事が総理になって君が代といっしょに法
律で「強制」するまではこのままだろう。
 
 そこで多数少数と数量化すると間違うのではないかという気がしてくる。多数
少数に対応する英語はmajorとminorで、それぞれ大と小との比較級ではある
が、その後は数量の上だけでなく意味が膨らんで優劣強弱を含むようになってい
る。少数が多数を支配圧迫している例は数多い。

 

 2001年現在で、先進地域の人口は11億9千万人で,世界の人口の19.5%に
しかならぬ。開発途上地域の人口 は49億4千万人,80.5%と圧倒的に多数だ。
地域別では,アジア地域に37億2千万人と,世界 人口の60.7%が住んでおり,
以下,アフリカ地域が8億1千万人(世界人口の13.2%)というのを見ても、
差別の構造は多数少数にはよらぬらしいことがわかる。金持ちより貧乏人のほう
が圧倒的に多数だが少数派の金持ちが差別されるわけではない。

少数による多数派支配と差別は、弱肉強食の新自由主義が登場してから加速度的
に進んでいる。 少数派が差別されることがないというのではないが、数だけで
すませていると、論旨は明快で理路整然としているのに、むしろそれゆえに、こ
のような齟齬が生じる。マジョリティー、マイノリティーを訳さないで使ってい
ればそれですむが、訳すとなると何か新しい訳語を考えないと、このままでは立
ち行かない。
優勝派劣敗派ですむかというと数が関係してくることもないわけではないから十
分でない。さらに、比較級の持っている運動性というか方向性というか、その弾
力性をも具える言葉を見つけるのは容易でない。
いい知恵が浮かぶまではカタカナで済ますほかないかもしれない。
 「日本人は、伝統的に、多数派、少数派について、とくに敏感なようで、それ
だけに、少数派差別が厳しい」というのも「伝統的に」「とくに」そうであろう
かとためらってしまう。 
 
 アメリカ合衆国では1964年まで黒人は法的にも差別されていた。「すべて
の人間は平等につくられている」という独立宣言に矛盾する状態が二百年近く放
置されていた。名目上に限るが日本の解放令の出された1871年より百年遅れ
た。ヴァルナとかジャーティとか、カーストと一般に言われるものに今もインド
は苦しんでいる。白人社会にはユダヤ人問題とかモスレム差別とかがある。有色
人種差別もある。ニューオーリーンズのカトリーナで被災した黒人は意図的にい
まだにほったらかしだ。その他、その他いっぱいある。
 
 確かに移民や難民の受け入れに、はなはだ日本は臆病だ。それは是正されねば
ならない。在日の外国人についても是正されねばならぬところは多い。しかし障
害者に対する社会の態度は戦後の60年を振り返ると実感的によくなっている。
1960年代ではまだ遅れていたが、その後どうやら先進国レベルに、まだ十分
でないかもしれぬが追いついてきている。よくなっている点も考慮に入れると、
差別に関して日本人はとくに鈍感ではないが、「とくに敏感」とまではいえない
ように思う。
 
 「伝統的に」はいくらか頷けるところもある。江戸幕藩体制で260年余の間、
身分制が冷凍冷蔵でもしたように動かなかった。それを解凍剥離するのに、まだ
半分の130年余を経ただけでは道半ばではあるだろう。それはそれとして江戸
時代以前に遡っての伝統とは言いかねるのではないか。絶望して投げ出してしま
わないためにも、伝統に「江戸時代以降」を付け加えて相対化しておいた方がよ
いように思う。

 はなしは横にすべって少しはみ出るが、伝統といえば気になることが別にある。
スポーツなどで、たとえばオリンピックのスケートなどで、スルツカヤの転倒に
躍り上がったりして手放しで敵失をよろこぶ。武道であるはずの柔道でもガッツ
ポーズをする。あの露骨さはいつからのものであろうか。あれは武士道にはなか
ったはずだ。恥を知ることを重んずる日本の文化伝統のなかでは、こういうこと
は「はしたない」としてきびしく戒められた。

それが消えたのは中国に侵略した昭和軍閥以来のものだろうか。それともアメリ
カの属国になって以来のものだろうか。日本人が日本人でなくなってゆくのを見
るような気がしていやなものだ。
一身独立を欠いたままのナショナリズムが、むきだしで鼻先に突きつけられる気
がしてやりきれない。この無神経ぶりは、中韓の「心の問題」をも含む異議申し
立てを無視して、というより、それを逆撫でするかのようにして、頑なに靖国参
拝を言い立てる政治家にもある。どうしてこのようにデリカシーを欠くようにな
ったのか。こういうことには、日本人は「伝統的に」「敏感」であったはずだと
私は思う。
                   (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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