【コラム】『論語』のわき道(43)

翻訳

竹本 泰則

”私は何も彼も忘れて了って、握ってゐた手を引寄せると、手は素直に引寄せられる、それに随れて身躰も寄添ふ、シヨールは肩を滑落ちて、首はそつと私の胸元へ、炎えるばかりに熱くなつた唇の先へ來る……
「死んでも可いわ……」とアーシヤは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。
 私はあはやアーシヤを抱うとしたが……ふとガギンの事を憶出すと心がゞらりと渝わる。”

 二葉亭四迷の翻訳になるツルゲーネフの『片戀』の一節。国会図書館デジタルコレクションから引いたものです。明治二十九年に刊行された本で、漢字は旧字体で、すべてにルビがふられています。もとより歴史的仮名遣いです。

 しばらく前のことのようですが、「I love you.」の日本語訳として二葉亭四迷は「死んでもいいわ」と訳し、夏目漱石は「月が綺麗ですね」とした、などという風説がインターネット上で話題になったそうです。
 二葉亭四迷の訳について丁寧に調べた人がいて、その文章が今でも残っており、それを面白く読みました。 『片戀』という小説もこれで知ったものです。
 この人によれば、「死んでも可いわ」は『片戀』の中に見られること(冒頭に引用した文がそれです)、この個所を英語版で参照すると、「I love you.」ではなく「Yours・・・」となっていること、さらに露文の原作も「あなたのものよ……」という意味の言葉(もちろんロシア語)であると解き明かしています。そのうえで、四迷が「死んでも可いわ」という訳をつけたもとの語句は、少なくとも『片戀』においては「I love you.」ではないと結論づけていました。
 「死んでも可いわ」などというセリフが、四迷の他の訳本にそうそう出てくるようには思えませんから、そもそもの風説自体がいい加減なものであったということでしょう。

 漱石の「月が……」の方は、I love youに対するもののようです。なんでも、漱石が英語を教えていた時代に、ある学生がこれを「我、汝を愛す」といった調子の訳をつけた。これに対して漱石は「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言ったというのです。話としては面白いかもしれませんが、眉につばをつけたくなります。
 漱石とloveと言えば、Pity's akin to loveへの訳が妙に印象に残っています。わざわざ俗謡調という縛りをつけた上で「かあいそうだたほれたってことよ」(かあいそうだとはほれたということよ)としています。こんな漱石が「月が……」などというつまらない例示をするとは思えません。
 この話題自体は、取るに足らぬものといえるでしょうが、翻訳ということについて考えるきっかけとなりました。

 翻訳と聞くと、外国語に疎い身には上等な行為に映ります。異国語の翻訳に当たっては、言葉だけではなく、思想、文化、生活様式などいろいろな面での違いが影響してくることでしょう。忠実に、しかも、原文の持ち味を損なわずに翻訳するということの難しさは想像以上のものがありそうです。
 まず言葉の問題ですが、それぞれの言語はそれを使う民族に固有のものですから、単語がもっている意味が他の国の言葉とはぴったりと重ならないケースは珍しくないでしょう。それどころか、ある言葉に相当する語が無いということだってあり得ます。
 まさにloveが一つの例になると思いますが、男女間の愛情までを含んだこの言葉の概念は、近世以前の日本語には無かったようです。
 キリスト教の信者であれば「キリスト教は愛の宗教である」という表現に何の違和感もないでしょうし、 みずからそのようにいうこともあろうと思います。しかし、かつてわが国にやってきたキリスト教の宣教師たちは、その「愛」を説くのに苦労しています。辞書にはキリストの愛(love)を説くときに訳語として多く「ご大切」といったとあります(岩波古語辞典)。
 当時の日本人には仏教が普及していましたが、仏教では、愛は特殊な意味をもちます。仏教が目指す「悟り」(「苦」からの解放)を妨げる主要な原因の一つを愛としています。瀬戸内寂聴さんは「私たちの苦しみのほとんどの原因は、煩悩から生まれる欲望や執着」だといっています。この欲望の充足を求め執着を生むもの、それを仏教では愛(ニュアンス的には、渇愛また愛執)ととらえるようです。

 仏教と並んで、日本人の思想や考え方に影響を及ぼしているものに儒教があると思いますが、儒教における愛の意味合いを『論語』を手掛かりにして見てみます。
『論語』には愛の文字が現れる章が八つあります。その一章では愛は惜しむという意味で使われています。ほかには肉親の間の愛情を指すものがあります。これら以外では、人々に恩恵を施す、思いやるといったニュアンスで理解されるものが多く、そこでは愛人(人を愛す)、愛衆(多くの人々を愛す)という熟語となって現れます。しかし男女間の愛情を表す例は一つもありません。

 少し例を挙げます。

 君子、学べばすなわち人を愛す

 人としてのあり方を学ぶ(修養する)ことによって、他人を思いやる、人を大切にすることができるようになる

 もう一つ、樊遅(はんち)という弟子から仁(孔子が最も高い位置に置く徳目)について尋ねられたときには、孔子は「人を愛す」とこたえています。
 ここは「仁とは人を愛することだ」ともとれますが、樊遅(はんち)の質問は「仁の徳を身につけるにはどうすればいいでしょうか」という趣旨と解することができ、これに対して「周りの人々を思いやる、あるいは大事にするといったことを実践することだね」と教えた、そのように読む方が自然かもしれません、文意としては大差はありませんが……。

 いまでこそloveを愛と訳すことに問題はないのですが、かつては男女間の愛情、国や郷土を愛する気持ち、神の愛などを日本語に翻訳する場合にはそれぞれ別の表現が必要で、一言では済まなかったはずです。
 逆に意味が全く同じ言葉がありさえすれば、翻訳における忠実性が保てるかというと、これも違うような気がします。先の漱石の逸話とされた話のように、辞書から言葉を持ってきて繋げたとしても、その国の人が言わないような表現になってしまっては翻訳以前でしょう。
 あるいは意味が同じような言葉があったにしても、あえて別の言葉で表現することがよい場合も多いような気がします。

 二葉亭四迷は 『余が翻訳の標準』 と題する小文の中で、翻訳における根本的な必要条件として「忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ」といっています。
 四迷は「日本の文章よりはロシアの文章の方がよく分るような気がする」といっているくらいの露文通ですから、『片戀』において「あなたのものよ」と訳せないわけはありません。それをあえて「死んでも可いわ」としたのは工夫であり、彼自身の「翻訳」であったのだろうと思うのです。

(2022.12.20)
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