脱原発—反原発運動の展望

三上 治


◆◆(1)

 「3・11」から早くも4年が過ぎた。何の因果が今年の3月11日は病院のベッドであった。病室のテレビに映りだされる当時の記録はやはり衝撃的ではあったが、僕らの日常意識とはどんどんと隔てられて行ってしまっていることを否定できなかった。震災にちなんだドラマは胸に迫るものがあったが、それでも自分の意識の中で隔てられて行くところは強くなっているのは否定できなかった。震災の被災地の人々は違っているのだろうが、非被災地の人々はよく似た感想を持ったのではないだろうか。

 「3・11」には原発震災が含まれてあることが、これまでの震災とは違う点だが、このことはどうなのだろうか。政府や官僚筋は福島第一原発の情報をなるべく隠し、人々の原発への関心が風化するのを期待し、裏では停止中の原発の再稼働を準備している。選挙の争点などになることを用心深く避けて、ひたすら再稼働のための工作をやっている。そのことは微妙であるが人々の意識の中に原発震災の事は震災一般とは違う形で存続しているように思える。福島の現状については情報が閉ざされているが、ここには政権側の力が働いているように思える。

 「3・11」の報道でも原発震災関係は抑え気味であると思ったが、これは実際そうなのだと推察できる。テレビ朝日の「報道ステーション」のなかでの元通産官僚の古賀氏の発言が話題になった。古賀氏と古舘氏のバトルが取りざたされたのだが、彼は官邸筋からの圧力を暴露した。抗弁する古舘やテレビ朝日側の発言など誰も信用をしていない。その後の自民党のテレビ朝日とNHKに対する事情聴取の動きを見れば事態は明瞭なのである。

 むかしから、衣も下の何とかとはよく言われたことだが、自民党の強権的、あるいは専制的な体質は露呈してきているのだ。戦前から比べればいくらかの装いをしているが、そういう地金は見え始めているのである。彼らが原発の報道をいろいろな方法を使って規制し、裏側で再稼働→原発保持の画策をしていることは、「3・11」の報道の中でもよく見えたことだった。テレビ番組はなかなかよくできていて、そこに権力側の規制がどのように働いているかは見えにくいことだが、それでもそれは分かるところがあり、想像力を働かせれば、見えてくることはある。

◆◆(2)

 「3・11」から4年を経た今ということは、同時に原発震災から4年を経たということでもあるが、原発問題はどういう事態にあるのだろうか。誰もが確認しえることだが、現在の自民党は原発再稼働→原発保持という考えを基調にしており、それに反対する声は小さい。かつての自民党総裁であり、内閣総理大臣でもあった小泉純一郎が原発保持、再稼働に反対しているのはよく知られてはいるが、その影響力はそれほど及んではいないように推察される。

 原発再稼働→原発保持のシナリオを早く(震災直後)から準備してきたのは経産官僚と原子力ムラと言われた部分である。彼らの既得権益の擁護と電力業界の独占保持とが結びあった原発保持の力は自民党や与党に強い支配力を持っているのである。この事は電力労連の政治的力で民主党の一部が原発保持に回っているのをみれば、およそのことは想像できるだろう。自民党は選挙の度に原発問題が政治争点になることを避けつつ、経産官僚や原子力ムラのシナリオにそった道を歩もうとしている。

 自民党や官僚がこれだけ原発保持の固執する理由は何か。彼らはそれを表立って説明することを避けている。原発は科学技術の産物であり、存続が不可欠だという根拠で固執しているのではあるまい。要するに彼らの口から表立って原発存続の理由をきけないことは不思議なことである。

 表だって議論はさけ、裏で原発保持を推進することのなかに、僕らは日本の政治の独善的で専制的なところをみている。口を開けば「法治国家」なる言辞を弄するが、この民主的で独善的なあり方は伝統的なアジア型政治を密かに踏襲しているのだ。これについての分析や批判は詳しくやらないが、彼らの方法は功を奏しているのだろうか(?)、という疑問はある。

 確かに川内原発や高浜原発の再稼働を突破口に停止中の原発を再稼働に導くという構想は進んでいるように見える。電源構成(エネルギーミックス)の中に原発を保持して行く構想を決定して行こうともしている。(この比率における再生エネルギーの割合をめぐって経産省と環境省の対立が伝えられるが、原発保持の点は変わりがない。)だが、再稼働が進展しないように彼らははだかる諸問題を抱えてもいる。そのことは見ておくべきことだと思う。

 経産省前のテントには商業用原発停止(580日、4月18日現在)という告示が出ているが、現在、国内の原発は稼働してはいない。580日間も国内の原発は稼働していない。これは政府や官僚、あるいは電力業界側には震災の直後でも想像してはいなかったことなのである。電力業界の一部には点検で停止した原発の再稼働を危ぶむ人もいたと伝えられるし、僕もその話を聞いたことはるが、再稼働がこれほど困難を伴うことを彼らも想像していなかった。

 これが事実である。この事実は国民の原発に対する意識が大きく変わったことを象徴するのであるが、これは大変なことである。一部の人たちから原発の危険性が指摘されていたにせよ、安全神話が通ってきた原発の歴史から見れば、これは極めて重大なことである。この事態に対して政府や官僚、原子力ムラなどは対応する方針を持っていない。国民を納得させる理念というか、原発の存在を人々に認めさせる論拠を持っていないのである。政治は国家意志の実現であり、それを国民の意志に反して行う面もあるが、基本的には国民の意志にしなければならない。それが現在の政治である。

 原発の存続を国民に納得させ、彼らの意思として合意させる、根拠を持ってはいないのである。この点での政府や官僚たちの弱さは存在するのである。国民の大多数が原発の存続に疑念を持っていることは、それを保持せんとする部分の最大の問題であり、立ちはだかる壁なのだ。既得権利害や独占の利害がいかに強力なものとはいえその存続に立ちはだかるものがあるのだ。

 原発再稼働→原発保存を進める部分にとっては時代が脱原発の方向に向かっていることは様々な矛盾をもたらす。例えば、再生エネルギーの開発が進むことは原発の存続と矛盾する。電力は現在でも足りているのであり、原発の保持と再生エネルギーの開発を進めれば電力は供給過剰になる。これまで電力は需要に対して供給が不足しているという前提に立ってきた。

 原発事故を通して明瞭になってきたことは供給不足といわれてきたことの実際を人々に認識させたことだ。電力の需要は無限であり、供給は絶えず不足しているというのは神話であり、事態はむしろ供給過剰といえる面もあるのだ。ここにある、エネルギー問題を本当のところ原発推進派は解決する構想を持ってはいないのである。エネルギー比率の議論はこの問題に触れられない、其れゆえの架空の議論という側面を持っている。経済の高度成長に疑問をいだかないで済んだ時代とは異なる環境の中にある原発についての視座がおよばない。原発が人類と共生できないものであることは、いうまでもないことだが、現実のエネルギー産業として持つ矛盾に対して、推進派は無視しているが、それは現実には明らかになっていくのである。

 また、原発の存在ということを無現に展開して行くためには核のゴミの処理ということもあるが、原発の存続期限が40年を前後してあり、その無限展開は不可能であり、それを前提にした展開はありえない。思いつくだけでもいろいろと指摘できるのであるが、原発存続の持つ矛盾は大きいのであり、僕らはそれを見ていなければならない。安全性のための原子力規制委員会が「安全」を宣言できないこともその一つである。規制委員会に安全基準を作らせるというが、それが空中楼閣のごときものであり、それは隠しようがないのである。

◆◆(3)

 それならば僕らの脱原発—反原発の運動はどうなのだろうか。原発推進派というか、それとの闘いの条件という意味では僕らは決して不利なところにあるわけではない。だが、僕らの運動が有利に進んでいるのか、というと、また、そうであるとも言えない。ここに、脱原発—反原発運動の現状があるといえる。

 政府や官僚たちの原発再稼働の動きが簡単には進まないことは、確かであるが、それを阻止しえるかというなら、それも簡単には言えないのが現状だからである。再稼働を安倍政権は裏で準備をしながら進めるだろうが、これに反対する政治的な力の結集が容易でない点があげられる。原発存続の是非を政治的な争点にできていないとは選挙の度に言われてきたことだが、この事態が当面のところ改善される余地はない。

 今度の統一地方選挙でもそれを危惧する。政治的力という場合に政治の舞台でのという意味と、大衆的な政治的意思表示という面がある。政治の舞台が政党活動を主要にした面での状態が弱いのだ。大衆的—市民的な運動という側面では、脱原発—反原発の運動は持久力を持っている。経産省前テントや官邸前抗議行動、あるいは国会包囲行動などとしてそれはある。これに比べれば国会等の政治舞台での政治的力は弱いという他ない。

 これは原発問題というよりは現在の政治運動の問題というべきなのかもしれないが、原発問題の政治的性格についての理解ということがそこに横たわっているのだと思う。原発問題は政治的問題であるのだが、それはどういう意味で政治的であるかといえば、従来の政治的というのはとは違っている。この点はあまり詳しくふれないが、かつての都知事選挙の時に現象した事態を想起するといいのかもしれない。原発問題は左右の問題ではない。科学技術の社会化の問題である。既得権と独占とに対する闘いであるなどと言われてきたことにそれは示されている。今はこの問題の理解の重要性は表立ってはいないが、政党側での原発問題の理解や認識にはこれが影響していると思える。

 原発推進は既得権益と独占の問題になる。官僚や産業界の構造の問題を通して、政治的な性格を帯びるが、これは日本の権力構造の非民主的で、独善的な性格との闘いということになる。一時期、課題とされた官僚と独善的支配との闘いということになるが、これとの有効な闘いという面で僕らは難しさに直面しているところがある。原発が推進されてきた歴史をみると、原子力ムラなどの官僚機構が母体になり、政府はそれに盲目的に追随してきたといわれる。この構造は現在もあるわけで、これとの闘いは難しいところがある。

 脱原発や反原発運動を構想しイメージするときに忘れてはならないのが、それは政治的な運動であると同時に社会運動という側面があり、これが重層的に存在していることである。脱原発—反原発運動が再稼働の動きを政治的に止めて行くことは政治的な運動であり、闘いである。原発の存続する地域住民の問題も含めてそれはあるが、同時にエネルギ—産業の転換を進めて行くという社会的な運動の側面がある。これは、既得権と独占とが結びついた電力業界と闘う道として、どういう道があるかを問えば明瞭になることだ。

 例えば、再生エネルギーを作り、それを事業化し、産業化する道は直接的には脱原発—反原発と関係ないように見えても、既存の電力業界の産業基盤を崩して行く道としてそれは関係する。あるいは、原発を推進する電力会社の電力は使わない、そこからは供給を受けないことを社会的な運動としてやれば、これは大きな力になるかもしれない。

 現実的な動きとして、再生エネルギーを作りだそうという部分にとっては政府や官僚の政策は直ちに響いてくることとしてある。社会的な場面で動き出した再生エネルギー創出、地産地消も含めたエネルギ—産業の転換は原発推進側にとっての大きな問題であり、彼らはこれを抑制しようとする。電力供給の独占に、そのために原発を不可欠とする電力業界が一番気にしているのは、電力の買取り自由化の問題であるかもしれない。ここから、原発を推進する電力業界との大衆的な闘いの道が開けてくるかもしれない。

 再稼働に反対する政治的な運動とこうした社会運動は、形態としては違うものだが、重層的には結び付いた脱原発—反原発の運動としてイメージできるであろう。こうした重層的な形で脱原発の運動を構想しえるなら、この運動は長い射程とともに多様な展開という広がりを持てる。原発推進—存続と闘う道は政治的であると同時に社会的であるほかない。僕らの運動の構想というか、ビジョンを豊富に持てればいいのだろうと思う。

 経産省前テントの保持(川内原発地でのテントも含めて)や首相官邸前抗議行動などの再稼働阻止を当面の目標にした運動は、再生エネルギーを創出し事業化すること、あるいは電気を独占体から買わないこととは直接的には結び付かない。けれども、それは相互に関係しあっているし、連帯して行きたいと思っている。ここを意識、自覚的に結びつけていければ、脱原発—反原発の運動は持久戦に耐えられるものになって行くと思う。政治的な運動が必然のようにたどる孤立はこうした中で防げると思える。

 (筆者は経産省前テント座り込み闘争中の政治評論家)


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