【日中・侃々諤々】''''

自治体間の交流

早川 勝


 地方都市といっても豊橋市は人口38万人で、政令都市に次ぐ中核都市、しかも愛知県という豊かで開かれた地域にある。1996年から2008年までの12年間、市長を務めたなかでの中国との友好都市交流の実態を紹介したい。
 1978年の日中平和友好条約の締結を機に、日中両国の自治体間の友好交流も大きな流れとなっていった。愛知県は江蘇省と、名古屋市は南京市と、県下第2の都市であった豊橋市は江蘇省第2の都市の南通市との間に、87年に友好姉妹都市提携を結んだ。

 南通市は、核となるいわばスモールシティの人口は70万人、その他の市を含むラージシティの人口は700万人、市長はスモール、ラージは同一人だからいってみれば南通市長は愛知県知事をも兼ねているようなもの。その上に市書記がいるのはいうまでもない。日中間の都市交流の特徴の一つは人口と土地の広さに格段の差のあることで、2倍3倍の比ではなく10倍以上という2桁ちがいである。ひとの数の重さに「負担」を覚えさせられる。

 第2の特徴は中国の経済発展の速さである。揚子江を挟んで南が上海市、北が南通市で、経済の改革開放政策による経済開放区に指定されて急速に発展してきている。私は友好10周年の97年、15周年の2002年、20周年の2007年と3回、公式に訪問したが、その度毎に変貌は顕著で驚かされた。1〜2回の時には土産物は相手に要望を聞いて電気機器、IT機器を持参したが、3回目には望むもの特になしで指定されなかった。国内で自由に入手できるということだった。つくづく中国の発展を身近に知らされた。道路の舗装から高速道路に移り、建物も高層ビルに建てかえられ、フェリーで渡った揚子江にはいまは橋が架かっている。水で分断されていた上海市と一体化した巨大な経済圏を形成している。

 豊橋市と南通市との交流の歩みも、いわば初期つまり戦争で閉ざされていた扉が開かれて友好のつき合い、とにかく、会って、見て、仲良くしようの段階からつぎへの段階に進めなければと考えて、2002年に新たな方向をめざした「覚書き」を交わした。体温で見れば低熱、低温の関係から平熱、常温の関係に脱皮の時期を迎えているとの判断をして「専門分野の相互の協力」を始めた。

 スポーツ交流として太極拳と柔道の指導者、環境担当の行政職員、農業の行政職員と農協職員、病院の医師と職員、博物館員等々である。環境・農業・医療のレベルは日本が高い。しかし、南通市は経済開放区であって企業進出を求めてきたが、豊橋市の地元企業でそれに応えられる能力はなかった(2014年に自動車部品企業が子会社を設立)。

 第3の特徴としてこうした交流も中国の政治によって影響をうけること、また「民」といっても中国の場合は官主導で官の下にあって、日本のような官から離れた民はありえないということ。したがって中国の発展が進んでいけば官官交流の意義も薄まっていくと思われる。とくに経済交流では日本は官なしの企業だから官官交流は不要。文化交流も中国の開放が高まれば自治体の仲介役も終えるだろう。

 以上のような経験からいえるのは行政の直接的交流と市民間の交流との関係をどうするか、が課題になる。“知るに如かず”のための新しい方途をみつけなければならないと思う。

 (筆者は元豊橋市長)


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