【コラム】中国単信(35)

舛添東京都知事辞任から思うこと

趙 慶春


 今回の舛添東京都知事の辞任は、中国人的発想からすると驚きに値する。というのも、いわば一般都民の怒り、不信感のうねりが首長を辞任に追い込み、中国ではまず起こりえないことが起きたからである。
 一方、中国では現在、習近平指導部は公務員に対する清廉運動をこれまでの指導部とは比較にならないほど厳しい姿勢で臨んでいる。

 中国ではこれまで新年などの祭日には、雇用者側が従業員への福祉の一環として、主に食品などを現物支給する習慣があった。その一方で、下位の者が上司や組織の権力者に高価な物品を贈ることもごく当たり前のようにおこなわれてきた。したがって権力を握る立場の家には、こうした時期になると物で溢れかえっていたものである。ところが習近平指導部は高級官僚に対して習慣として行なわれてきた「福祉」も「献上」もすべて厳禁としたため、役人の口からは、「何が廉潔運動だ! 果物も肉もなぜ自分で買うのだ?」というぼやきがあちらこちらで囁かれるようになってきているという。

 自分が食べる物は自分の金で買うのは一般庶民からすればごく当たり前のこと。しかしこの一般庶民ですら、いったん特権意識に染まると、たちまち一般庶民だったことを忘れてしまうのも人間である。
 舛添前知事も例外ではなかった。もし彼が真に自浄能力を持っていたら、公費で数百円のクレヨン新ちゃん漫画も、数千円の中国服も買わなかっただろう。私的な飲食、宿泊費も公費払いとはしなかったはずである。

 それにしても筆者の気分は「スカッ」としない。理由は簡単である。東京都知事であろうが、政治家や官僚であろうが、権力を握り、私利を貪る人間が途絶えることがないようだからである。政治と金の問題は、資本主義や社会主義といった政治体制ではなく、人間性の問題である。そして特権意識が膨らむ怖さは、「国のため、人のため」という大志がいつしか向こうに追いやられ、庶民に寄り添う政治ができなくなることだろう。おそらく豆腐一丁が十円値上がりしたときの生活への影響や、少しでも安い玉子を手にするために長い行列に並び、遠くのスーパーマーケットにわざわざ買い物に行く主婦たちの気持ちに理解が及ばなくなっていくのである。

 人間の清廉性や自浄能力とは何だろうか。
 いささか私事になるが、過日、海外へ公務出張した際、初めて航空会社の「専用ラウンジ」なるものへ入った。いつもエコノミークラスで、航空会社の会員でもない筆者にとっては、一人では入れない場所である。多種多様な飲み物、沢山のおいしい食べ物、充分に寛げるソファー・・・これなら待ち時間も苦にならない。だがこのような贅沢な気分を味わってしまうと・・・、ラウンジを見渡すと、意外に若者が多いのには驚かされた。

 これらの若者がルール違反をしているとは思わない。でも今からこうした贅沢を味わい、それが当たり前になっていくと、いわば特権意識が醸成され、知らぬ間に選民意識が生まれてくることはないのだろうか。常に清廉性を心がけ、自浄能力が衰えないようにしない限り、われわれは常に「舛添候補軍」であることを忘れてはならないだろう。

 今回の舛添知事の辞任に伴う知事選には50億円の選挙費用が必要だとか。しかも4年間で3度目の選挙となるため、無駄に増加した選挙費用は139億円にも上ると言われている。これらがすべて税金で賄われるのだから中途辞任した知事たちの責任は、犯罪的に重い。かくして出直し選挙はルールに従って50億円が消えていくことになるのである。

 こうなると疑いたくもなる。本当に選挙は50億円もかかるのだろうか。この50億円に無駄遣いはないのだろうか。公私混同はないのだろうか。「親しい」関連会社への「優遇」はないのだろうか・・・と。
 筆者は昨年末、個人的に必要あって、かなり多めの石を購入することになった。どのようにしたら多量の石を手にできるのかわからず、インターネットを頼りにある建築石販売会社に連絡を入れてみた。するとその会社の返事は、驚きに値するものだった。

 「うちの会社は、政府関係のインフラ事業に対して主に石材を提供していまして、個人向けをやらないわけではありませんが、同じ品物でも小口向けを取り扱う業者より、価格がかなり高めに設定されています。ですので、他の業者に連絡された方がよいと思いますよ」

 筆者が選挙費用50億円に強い疑いを持ち始めたのは、この「石」からだった。
 この石材販売会社は、なんとも正直に答えてくれて、その点は意外といえば意外だったが、その一方で、やはりそうだったのかと納得せざるを得なかった。なぜなら官公庁発注の仕事は「おいしい」とは、業界を問わず「周知」の事実だったからである。

 舛添前知事の金の使い方に対して“第三者の目”となった弁護士たちの「結論」にも不信感を抱かざるを得なかった。その「結論」とは「不適切だが、違法性はない」だった。

 これほど庶民(都民)を馬鹿にした言い方もないだろう。結果的にはこの弁護士たちの結論に庶民は納得しなかったのである。舛添氏の辞職後、この騒動を「大衆リンチ」と呼び、こうした結果に疑念を抱く人びともいたようである。

 筆者に言わせるならば、これは大衆リンチではなく、「民衆による監督の目」が厳しく、適切に働いた結果である。「合法的な不適切」行為で国や自治体を蝕む権力者に対して、庶民が戦う手段はこれしかないのではないだろうか。
 庶民は無力ではない。
 「自分」が声を上げることは無駄ではない。
 「自分」とは無縁だと思ってはいけない。
 以上が今回の舛添事件が教えた教訓ではないだろうか。

 政府が定めたルールや、新たなルールにわれわれはもっと疑いの目を持たないといけない。
 確かに「合法的」かもしれないが、「不適切」まで「合法的」の中に呑み込ませて容認してしまうなら、舛添候補軍はこれからも消えることはないだろう。そしてその責任は誰でもない、われわれ都民(国民)にある。
 7月31日、出直し都知事選挙の投票日である。

 (筆者は女子大学教員)


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