【コラム】中国単信(33)

良い大学教師とは?

趙 慶春


 “良い授業一つと良い論文一篇、どちらが重要か”これは中国の西南地域にある某大学講師の周鼎という人物が出した問いである。
 周鼎先生の授業は受講者の間では人気授業となっていたらしいのだが、彼の論文本数が少ないことを理由に昇格できず、社会に向けてこの問いかけをおこない、大学を去ったというのである。
 以下は彼が辞職する際に公表した「意思表明書」の一部である。

 「・・・一つの授業に対して高い評価を得るために費やされるエネルギーは、論文何篇に換算できるか? 学部も、教育支援課も、そして学長もわからないとのこと。そしてこの講座は一コマしかない、というのが教育支援課の回答だった。要するに代替科目がないということだ。

 私はこの一コマの授業のために、授業時間の10倍の時間数をかけて準備し、100倍、1000倍の知識の積み重ねを必要とした。それにもかかわらず、この大学の質はなにゆえに下がり続けるのか?
 その答えは簡単である。教師に対する評価は、授業の善し悪しではなく、その教師の研究成果と論文本数だけが対象となっているからである。

 授業そのものの仕事量の計測はどうするのか、と訊けば、教育支援課の回答は授業のコマ数とのこと。それなら私はテープレコーダーになりたいものだ・・・。
 大学では学生の数は学生の質より重く見られる傾向が強い。なぜなら大学の「収入」は学生数と大いに関係するが、質とは関係ないからである・・・。
 研究費がいちばん多い教師がいちばん偉い人で、学生からいちばん愛されている教師ではない。
 それなら辞書にある「教師」の解釈を修正すべきだろう。

 私のように、授業の直前まで授業内容を修正し続ける者は愚かな「完璧主義者」なのだろうか?・・・。
 論文も数こそがものを言い、論文の質が問われることはない。まるで一羽の鶏で、何品もの料理を作り出すように・・・。
 業績作りと研究は自分の家で、教えることは大学の共有スペースで・・・。
 結局、高い評価を得る授業をすることは、優れた論文を書くより重要だと信じる人は、大学を去るしかないのかもしれない!」

 周鼎先生の「主張」がすべて正しいとは思わない。少なくとも「授業」と「研究・論文」は大学教師としては二本の柱だろう。研究上の「柱」を持たずに、人気のある授業として学生から評価される授業が、本当に素晴らしい授業と言えるか疑問が残るからである。

 しかし、周先生が指摘した問題はなにも中国に限られたことではない。
 論文が思うように書けないと「鬱」になる大学教師は少なくないと聞く。だが授業がうまく教えられないからと「鬱」になったとはあまり聞かない。授業は教室という閉ざされた空間でおこなわれ、学生によるその教師の授業評価はどこの大学でも学期ごとにおこなわれている。しかし、学生が教師におもねる傾向が強く、その一方で教師は学生から悪く評価されないように甘い成績評価を出す傾向があり、厳密に授業の質をチェックするに至っていないのが現状である。
 ただはっきりしているのは授業は教え方の巧拙ではなく、その教師の学生への目線の確かさと、情熱の傾け方・持ち方にこそ求められているのである。もちろんこれに教え方の巧さが加われば、この教師の評価は格段に高くなるはずである。

 残念ながらこうした教師は大学で多数派を占めるとは言えない状況にある。たとえば、
 ・同じ授業用ノートで、同じ授業内容を20年間も講義を続ける教師。
 ・クラスが異なり、学生が異なるからと異なる科目名称でも同じ内容の授業で押し通す教師。
 ・学会や出張を優先し、もちろんご自分の健康を最優先にして、ちょっとした風邪でもあっさりと授業を休講にする教師。
 ・授業中の学生の反応などまったく眼中になく、用意した資料やテキストを棒読みするだけの教師
 等々である。つまり周鼎先生がもっとも主張したかったのは、「先生の良心」にほかならない。

 またこんな例もある。
 ある大学での社会人向け語学授業でのこと、その大学の有名語学教授と小学校教諭経験のある非常勤講師が同じレベルのクラスを持つことになった。申し込んだ履修者数は教授の担当クラスが制限人数上限の20名。非常勤講師のクラスは12名だった。ところが授業開始から2ヵ月ほどすると、教授の担当クラスから脱けていく受講生が続出し、3ヵ月目には4人、さらにその2週間後には、とうとう2人になってしまった。一方、非常勤講師のクラスは人数が増加し続け、そのクラスはキャンセル待ちの状態となった。では「偉い」教授はどうしたか。キャンセル待ちの受講生に内々に「私のクラスに来てください」と懇請しなければならない羽目になった。

 この笑い話のような本当の話は、大学の教師に警鐘を鳴らしていると言えるだろう。
 輝かしい研究業績、長年の教師歴、教授という肩書き、これらがイコール巧みな教授法の持ち主とはならないということである。理由は簡単である。

 小、中、高校の教諭となるためにはそれなりの育成過程を経なければならないし、「教学法」を学び、実践訓練もおこなわなければならない。だが大学教師にはそれらは求められていない。大学での教員採用では、何よりも問われるのは研究業績と学位であって、教学面ではずぶの素人であっても構わないからである。
 つまり現在の大学では「教師力」が軽視されていると言わざるを得ない。大学の教学面での質の保証は、まさにこの「教師力」にかかっているにもかかわらずである。学生が求めているのは授業そっちのけで、ひたすら業績作りに励む教師ではない。つまり周鼎先生が問題にしたかったのは「大学の方針」に対してでもあったのである。

 今や日本では少子化のために、大学の学生獲得競争は激しさを増すなか、さまざまな学生獲得方法が採られているが、見落とされがちなのが「教師力」向上への努力ではないだろうか。授業の質の向上には、学生に魅力を感じさせる授業への努力の有無が大いに関係してくる。学生たちは授業選択に際して、教師の研究業績などほとんど問題にしない。何よりも授業の「面白さ」や「中身の濃さ」で選ぶ方が圧倒的に多い。
 
授業の質の向上には教師個人の努力や情熱もさることながら、大学側の努力も必要である。授業評価方法や授業内容や教授法のチェック機能をどう活かすか。業績のみではなく「教師力」も人事評価の対象とし、報酬に反映させるなどかなり思い切った改革案を出さないと実現は難しいだろう。また修士、博士課程に在学する院生には「教学実践の場」を義務化する制度的を設けることも必要だろう。

 「一つの授業に対して高い評価を得るために費やされるエネルギーは、論文何篇に換算できるか?という周鼎先生のこの問いに、答えられる大学は中国は無論、日本にもないだろう。
 そのためには明確な「評価基準」が必要であり、誰もが納得する基準でなければならないからである。「高い評価」という項目一つをとっても、その基準をどこに定めるのかによって大きな違いが生まれそうである。また学生による授業評価も質問の仕方や回答方法を少し変えただけでも大きな差が生まれる。

 そして、どのような評価であれ、ある基準を定めるということは、すでに型にはめ込んで、それに該当するか否かを物差しにしてしまっているということである。つまり「誰もが納得する」という基準作成ほど難物はない。いわば「誰もが納得する」ためにすべてマニュアル化し、素人でも判断できるような仕組みを作ろうとしているのが、一連の授業評価、教員評価、大学評価といわれるものだろう。

 こうした評価方法はすでに曲がり角に来ている。これは大学だけの問題ではない。
 周鼎先生の問いに、明るい展望を見出すには、まず何よりも大学の評価制度の根本的な改革を実現しなければならない。それは平準化ではなく、個別化の視点である。
 言い換えれば、個性の輝きに目を向ける評価基準を定めることだ。「職人芸の領域に達しているか」を中心視点にした新たな評価基準を作り出してみたらどうか。
 大学としての個性が一気に輝きを増すに違いない。

 (筆者は女子大学教員)


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