【コラム】風と土のカルテ(52)

若い医療者が公衆衛生の歴史を熱心に学ぶ理由

色平 哲郎

 今夏も、東大本郷の医学研究科公衆衛生大学院(SPH)で集中講義をさせていただいた。SPHは、地域住民、患者も含めた広範な人々の健康維持、増進、回復および生活の質(quality of life)改善に向けた最先端の研究を進めていて、公衆衛生領域の指導の実践について学ぼうとする医師、看護師、保健師、理学療法士、栄養士、行政職など、実に多彩な人財が集まっている。

 集中講義では毎回、一方的な「語り」は少なく、受講生から合計100以上の質問を受け、それらに答える形で進める。今はやりの英語の講義ではなく日本語の対応ではあるが、真剣勝負の対話が求められ、なかなかハードだ。

 今回の講義では、若い世代が公衆衛生の基本である「プライマリヘルスケア」(PHC)を歴史的に学ぼうとする熱意をひしひしと感じた。PHCについて、1978年の国際会議で採択された「アルマアタ宣言」では、「すべての人にとって健康を基本的な人権として認め、その達成の過程において、住民の主体的な参加や自己決定権を保障する理念であり、方法・アプローチでもある」と定義している。
 では、若い医療者はなぜ、PHCの歴史に関心を持つのか。

 現代的概念の公衆衛生は、上・下水道や住宅、トイレ、浴場などの整備を通して衛生状態を良化させるところから始まった。人々の健康に社会病因論的手法でアプローチし、ニーズをつかみとり、環境を整備することが感染症の予防につながった。

 その後、極論を承知でいえば、ロベルト・コッホが様々な細菌を発見し、医療は自然科学系の技術論へと大きく傾いた。
 病原体を死滅させて病気を治すことが「勝利」とされる。死は「敗北」ととらえられ、医学は徹底的に細分化され、高度化された。社会的要因などは後景に押しやられる。現在の医師教育も基本的にはこの延長線上にある。

 しかし、100%死を迎える運命にある人間にとって、老・病・死は敗北でもなんでもない。また、地球規模で格差が拡大するにつれ、経済力や周囲の仲間とのつながり、生活習慣といった「健康の社会的決定要因」(SDH)の大切さが見直されてきた。人間は社会的動物であり、理系の技術論だけでは公衆の健康を保ち得ないと再認識したのであろう。

 いま、若い医療者は、その地点に立っている。だから、もう一度、原点を知る意味でPHCの来し方に関心を示しているのではないかと推察する。

●一般的なとらえ方とのギャップ

 戦後、日本では医師不足、医療品不足の窮状からGHQ主導の保健所再編が行われ、公衆衛生活動が活発化された。結核対策と母子保健対策に医療資源を集中、1961年に「国民」皆保険が実現し、無医地区の解消がようやく進む。1970年代後半には一応の保健医療環境は整った。

 ちょうどそのころ、アルマアタ宣言が採択される。「すべての人々に健康を」とうたった同宣言は、日本の歩みを「外」からの視点で相対化してくれたといえるだろう。

 一方で、実際にPHCを実践してきた佐久総合病院に勤めていて、一般的なPHCのとらえ方とは、ややギャップがあると感じることもある。
 たとえば、誰もが気楽に使う「地域医療」という言葉。地域医療の定義はない。こう述べておきさえすれば正しく、だれにも批判はされない、といった感さえある。

 ぼんやりとした「地域」があって、そこで行われている医療のことを表しているようだが、佐久病院の院長だった故・若月俊一医師は、地域医療と呼ばず、「第一線医療」と言っていた。具体的な○○市△△町、あるいは××村に所在する、具体的な地域共同社会の保健・医療・介護福祉をトータルにとらえる概念として「第一線医療」と表現したのである。

 一例を挙げれば、私が診療所長を10年余り続けた長野県南佐久郡の南相木(みなみあいき)村は、山村であって過疎化が進み、地縁や血縁が極端に強く、タテ割りで保健医療福祉を行うのは不可能だった。「支えあいの連携」こそ最重要で、「おたがいさま」「おかげさま」からなる当事者の住民自治こそが地域の主役であり、彼ら主人公たちに支えられる形の第一線医療となった。

 PHCについて、次回、もう少し考究してみたい。

 (長野県・佐久総合病院・医師・オルタ編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2018年8月29日号から転載したものですが文責は「オルタ広場」編集部にあります。
  https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201808/557583.html
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