■ 【アーカイブ】藤村恒雄自分史(2)  我が海軍予科練の話

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●〔3〕峯山航空隊の特攻隊(飛神隊)


(1)特攻隊の編成
  特攻隊に選抜された私は、前田中隊に所属になった。前田中尉は予備学生出身
であった。中隊は8機で構成したが、事実上は4機ごとの編隊で行動して、その編
隊長は教官か教員が充てられた。そして25ケ編隊、100機の部隊とされた。後に
「峯山飛神隊」と命名された。

 93中練ながら大部隊である。2番機、3番機、4番機(列機と呼ぶ)はすべて39
期生が充てられた。教官として、教員として、練習生として昨年8月からずっと
一緒に教え、教えられてきた間柄だからうまい編成だ。ただ編隊の組み合わせが
お互いに慣れるまで相当訓練しないと心配だ。そして当面の訓練は大型の編隊飛
行と薄暮飛行による定着訓練だ。飛行作業の段取りはみんなで準備し片付ける。
大勢だが一日2回くらいも飛ぶ毎日であった。マリヤナで沢山の飛行機を失い、
サイパンなどの基地も米軍にとられた。

 比島・レイテ作戦も全滅し、特攻隊による攻撃が普通となった。台湾沖の航空
戦も失敗して次は沖縄だと言われた。九州各基地も空襲が多くなり、艦載機が飛
び交う。これは空母による機動部隊の挑梁だ。わが飛行隊も出撃命令が来るか。
とにかく、峯山の飛行場へ帰ることになり、長距離の移動飛行となった。ここは
暖かいが、峯山の飛行場はまだ雪に埋まっていると言う。特攻隊以外の飛行兵は
ただちに帰って飛行場の雪かきをせよとの命令だ。

(2)長駆 峯山への帰投
  3月20日、大編隊を組んで福岡基地を発ち、岩国に向かった。低気圧を避けて
超低空をしながら関門海峡を越えた。そして無事岩国基地に着いた。大きな飛行
場に驚く。沢山のそしていろいろな飛行機にも驚いた。峯山の37期の先輩が元山
の戦闘機教程を卒業してここで実戦配備についていた。羨ましい限り。我々は中
練だよ。宿舎の兵舎へ行ったらなんと兵学校の生徒が沢山いるではないか。もう、
卒業前にここで飛行機に乗る準備らしい。勉強どころではない。

 翌日は姫路航空隊に向けて飛んだ。岩国で機上用にすし弁当を用意してくれた。
編隊を組みながら瀬戸内海上空で弁当を食った味が忘れられない。瀬戸内海は
箱庭のようでとても美しかった。飛行機では何も情報は入らない。戦争なんてど
こでやっているのかと思った。姫路についたらここの飛行隊が特攻隊となって出
撃する場面に出くわした。背中が凍りついたようになった。我々はただちに燃料
補給して出発。離陸して北上、福知山あたりで雪の雲に遭遇する。ぐんぐん上昇
して雲の上に出た。1500メートルを越すと寒い。
 
我が編隊が飛行場に帰ったときは雪はやんでいたが、滑走路は羊羹を切り取っ
たように両脇が雪の壁だった。恐ろしい着陸だった。
  しかし後になった奥山隊は雪の雲から抜け出せず琵琶湖のほとりまで流されて
4機とも不時着した。雪が幸いして福井県との境に落ちたが怪我はなかった。1
機は米原の海岸に落ちた。翌日無事が伝わるまで夜も寝られなかった。同期の後
田君たちも元気で帰ってきた。旨い人達だのに、この事故は中練という飛行機の
力の弱さを知らされた。通信手段のないことも思い知った。

(3)この特攻隊の任務
  米軍の艦隊防衛策は、第一陣の飛行隊が前方哨戒するが高層、中層、低層と三
段階にシフトする。第二陣は艦隊近辺でシフト。それに輪形陣で空母を囲み、駆
逐隊や巡洋艦がずらりと対空砲火を構える。アイスキャンデーというくらい猛烈
な速度で束になって打ち上げる。1分間10,000発という。特攻隊であろうとなか
ろうと、そんな所へ飛び込んで行くのだ。弾が当たらないほうが不思議なくらい。
沖縄への特攻隊も始めは援護の戦闘機や戦果確認機を飛ばしたりしたが、そん
な余裕もなくなった。それでも到着率は、15%という。そこへ天候や飛行機の調
子が加わって成功率は下がる。奄美島、喜界島などに緊急用の基地が置かれてい
た。

 特攻隊は爆弾を抱いて体当たりするので、上空から落とすよりは命中率は高い
とされていた。しかし実際は、速くて足の長い最新鋭の飛行機でもやっとという
次第。とても練習機では届かない。それでも中練以外の練習機や訓練用の古い飛
行機が特攻隊として飛び立った。中練は足も短く、とても無理とあって沖縄攻撃
では使用が見合わせられた。しかし台湾から出撃した隊は成功して駆逐隊を沈没
したと言う事が戦後確認された。

(4)特攻隊の訓練
  4月に入り、我々39期生は二等飛行兵曹に進級した。予科練に入隊して1年半で
下士官に任官したのだ。給料は30円、手当を含めて70円となる。もう練習生とは
呼ばず隊員として○○兵曹と呼ぶ。つまり実施部隊なのだ。元教員も同じ呼び方
だ。

 訓練は厳しい編隊飛行、夜や雲の中でも飛べるよう計器飛行、そして実際の
250kgを積んで飛行体験に集中した。飛行場の上空から奄体壕に向けて急降下する
とか、海で漁船に急降下するとか。特に夜間の定着訓練に力が入った。誘導灯に
沿って降りて来て、指定の場所にピタリと着ける。どんな気象条件でもミスは許
されない。

 5月6月は夜間飛行専門になった。宮津湾に浮かぶ駆逐艦を標的にして降爆の訓
練をする。月のあるなしや、風の違いや、方角の違いなどあるが、艦上では命中
の度合いを採点する。この訓練で2組4名の搭乗員が殉職した。この艦は戦艦大和
とともに出撃して生き残った初霜という駆逐艦だった。こんな標的艦で訓練でき
た事は幸運だった。戦後我々の会に来賓で見えた艦長は「戦争は終ったと言う実
感」だった我々も君ら特攻隊員に刺激されて感動の日々だった、と語られた。ひ
とりひとりの操縦員が20回以上も初霜に降爆を実施した。100名の操縦員が全員
訓練したから初霜は2000回も付き合ったのだ。

 そのほか夜間の編隊飛行での事故。夜間の洋上飛行で編隊ぐるみ機位不明にな
った事故、夜間の基地移動の途次、山に当たった事故などで10名が殉職した。そ
の都度、格納庫で海軍葬を実施した。元教官も、元教員も、元訓練生も殉職した。

 訓練は操縦員ひとり100時間に達し、自信たっぷりになった。他の航空隊から
も視察に来て驚いた。そして鈴鹿、大井、岡崎、大和などの飛行隊が峯山基地へ
訓練にやって来た。7月1日、初霜の浮かぶ宮津湾へ訪れて軍艦にのせてもらった。
狭い艦内には針鼠のように高射機関銃がすえてあった。そしてその日我々39期
生は高等科終了の「八重桜」を貰った。海軍ではこのマークは一人前と言うお墨
付きなのだ。早速写真屋へ走った。

(5)特攻隊発進 鹿屋基地での体験と終戦
  250kgを抱いて突撃する舞台は本土決戦と思われた。そしてその舞台を予想し
て前線基地に進撃することになった。我々は鹿屋基地だった。飛神隊は100機編
成だが事故で減って95機となった。そのうち40機を忠部隊と称してかの基地にむ
かった。20年7月岩国、福岡を経由して22日に鹿屋に全機そろって到着した。そ
れらの基地には峯山の本隊から整備科が先回りして受入れしてくれた。お陰で全
機が事故もなく、敵機に遭遇することもなく無事に入ったことは僥幸とさえ言え
た。他の部隊でグラマンに撃墜されたこともあったのだ。

 そして約1ケ月待機する。本土上陸となれば出撃する事となっていた。最前線
に配属された精鋭部隊だ。こんな飛行隊が各地に2000機用意されていたと言う。
米軍が上陸する予定は10月とされていたらしい。実際に「その時」無事に出撃で
きたかどうか怪しいが意気盛んだった。米軍の艦載機がぶんぶん飛んでいて際ど
い危機も体験した。蛸壺に飛び込んだこともあった。その時は小山君と一緒に命
拾いした。
  その日々はシラス台地に素掘りした穴倉の防空壕で暮らした。
  特攻隊の記録や体験は「青春の軌跡」続編として本にしたので是非読んでほし
い。
  戦地の暮らしはいろいろと体験談があるが、話は終戦に移る。

 終戦の詔勅は聞いていない。ポツダム宣言も何も知らなかった。8月20日だっ
たか「戦争は終わったらしい。各自帰郷せよ」という命令が降りて、一斉に鹿屋
を脱出した。中隊長も先任下士官もだれも情報を聞いていないが帰れと言うので
現地解散となった。汽車で帰る者は大変な苦労であった。私は隊長が手配してく
れた飛行機ただ1機で福岡、博多と各基地を経由して、美保基地に無事着陸した。
後ろに2人の隊員を乗せての安全飛行に成功した。

 22日、峯山航空隊に到着したら、岩国基地から帰った隊が解散式をやっていて
合流した。同期達や親しい先輩が鹿屋の話を聞いてびっくりしていた。その時は
全員が無事自宅へ帰ったかどうか判然としなかった。とてつもない混乱の中だっ
た。峯山で長らえたという実感を味わった。

(6)特攻隊について
  特攻隊と言う捨て身の作戦を考えるに至った事は、もう太刀打ちできなくなっ
たからだ。敵はレーダーで捕捉してくる。まる見えなのにこちらはさっぱり敵の
位置が分からない。戦闘機でも敵は2000馬力のエンジンだがこちらは1000馬力。
航空母艦も30隻以上が走り回る。昭和19年のマリアナの諸戦争、レイテと比島の
戦争などで質量ともに圧倒された。軍艦も飛行機も搭乗員もほとんど主力が全滅
した。玉砕したのは島嶼の基地だけでなく海の上でも空の上でもそうだった。戦
局のわかる立場の人々はそれでやむなく体当たりの特攻隊という戦法、というよ
り、日本人の心根の昇華方法を考えたのだ。

 当時の日本の青年たちはその命令を快く受け入れて死んでいった。統率の外道
と呼ばれている。戦にもならない戦法を承知で死ねと命令する最高指揮官は天皇
だ。天皇に内緒で命令したのなら逆臣ではないか。余りにも沢山の人が無駄死を
した。心ではない肉体がである。私も死ぬことについて何の疑問も持っていなか
った。恨みもなかった。しかし戦後すべてが明らかになった以上、そんな命令を
した者は許せない。死んでいった戦士が可愛そうではないか。私はそう思う。日
本の大本営は狂っていたのであろう。

 ここに有名な特攻隊の2例を挙げよう。
  一つは、20年3月「銀河」という最新鋭の爆撃機20機で長駆パラオ近海のウル
シー泊地にいる空母艦隊を攻撃に行ったことだ。この部隊は「梓特攻隊」と呼ば
れている。12時間も1人の操縦員で飛び続けて到着し、それから戦争すると言う
無茶な命令だ。敵はレーダーで掌握して戦闘機隊を待機させ万全の対策を打って
いた。ものの見事に全機が撃墜された。成功の可能性があったとすれば、戦闘機
による援護であるが、それはなかった。800キロの爆弾を持って死にに行っただ
けだった。司令官の功名心だけの作戦だった。

 もう一つは、3月沖縄へ向けて出掛けた「神雷特攻隊」だ。これはロケット爆
弾に人間が乗る「桜花」という機体を、大型の陸上攻撃機に積んで飛んでいくの
だ。新兵器だと上層部は功名心を駆られていた。この場合も護衛戦闘機が付いて
行くという条件付きの作戦であった。結局戦闘機がないことが分かって、指揮官
の野中少佐は渋った。なにしろ7人もの搭乗員を乗せて、20機もの多数の攻撃機
を飛ばす大作戦だった。野中少佐はやくざの親分のような剛毅な男だった。さし
もの音に聞こえた勇者も異を唱えたらしい。優秀な150名もの搭乗員を一気に殺
してしまうのだ。

 司令長官の宇垣中将は「万に一つの実験だからやりたい」と言って命令した。
野中少佐は「湊川だよ」と言い残して出撃した。よほど悔しかったのだろう。最
後まで一言の無電を打たずに待ち構えた戦闘機によって全機が撃墜された。「無
言の抗議」であったと言う。空の玉砕だ。悲しい最高司令部だった。
  この二つの戦闘には峯山で教えていた2人の教官が含まれている。


●〔4〕海軍の話 余話


(1)「学徒兵」という不埒な言葉
  戦後の言葉として我々に不愉快なのが幾つかある。それは学徒兵というアメリ
カから入った言葉である。海軍にも陸軍にもなかったものだ。私に言わせるなら
「甘ったれるな」ということだ。この言葉は大学・高専出身者にのみ使われる。
彼等は最初から士官としての待遇が保証されていた。士官には従兵がつき、身の
回りの事、洗濯から靴磨きから食事の世話をする。食事の時箸を落としても自分
で拾うなという。兵が拾って洗って拭いて持ってくる。第一手紙の検閲はない。
面会は自由。営門の出入りも自由。これはヨーロッパで貴族という階級に与えた
栄誉である。下士官・兵は奴隷だ。殴る、叩くのも自由だ。これもイギリスのオ
フィサーにある特権だ。

 米軍ではパイロットはほとんど士官にした。秘密事項も多いからだ。それに「
兵」という言葉は「軍人一般」に使うこともある。階級として「兵」という用語
もあるが。しかし日本では「学徒兵」は尊称のような使い方だ。何度もいう。「
士官」と「兵」とは階級、身分が違うのだ。「学徒兵」と言うときは「士官」を
指して使っている。

 同じ特攻隊員でありながら、鹿屋基地では全く戦地同様での暮らしだが、数少
ない整備兵から従兵を選んで差し出して世話をさせた。食堂も烹炊所も別々だ。
士官と兵とは全く違う存在だ。海軍のすべての部隊、軍艦でもそうだ。この言葉
は学業半ばにして軍隊に入った人に半ば同情的に使われたが、大学・高専出身す
べてをそう呼んでいることが多い。

 18年に入隊した飛行13期予備学生(兵科3期)はほとんど繰上げ卒業となって
いる。つまりもう学生ではないのだ。海軍でも教育中でも「学生」と呼ばれて、
士官扱いだ。「練習生」とは呼ばない。学生への徴兵猶予が無くなり、18年末い
わゆる学徒出陣となってから新兵となって入隊または入営した者もすぐに学生の
試験があり、「学生の教育」の方へ回っている。13期より遅れたが少尉に任官し
ている。彼等の中には在学中の者もいた。しかし「兵」ではなくあくまで士官で
あり、将校であった。学徒「兵」とは呼ばない。

 兵学校の生徒は生徒であり、軍人には扱われていない。在学中の期間は恩給の
対象にはならない。しかし予備学生は職業軍人なので恩給の対象になる。戦後公
務員になった人は恩給期間が通算されている。れっきとした職業人なのだ。学徒
というような中途半端な存在ではない。
  学業半ばで軍隊に入った者を学徒兵と言うなら、中学校の途中から海軍に入っ
た者も学徒兵ではないか。しかしそういう使われ方はしない。
  士官は、先輩の下士官にたいしても「馴々しくするな」と言われている。部下
の兵士の悩みごとを聞いてやるというようなことは、ご法度である。

 大量採用で沢山の士官が登場した。しかし戦闘場面ですぐには役立たない。そ
れでも特別待遇だ。そういう事に屈辱を感じた古参の下士官は、戦後子供達をみ
んな大学へ入れた。世の中では実力とは別に学歴がものを言う。海軍で嫌と言う
ほど思い知らされた。搭乗員の神様のような人を、平気で呼び捨てる。私はこの
用語がテレビや映画で登場するのに耐えられない思いだ。

(2)「娑婆」と「地方」
  陸軍とNHKではさかんに地方という言葉を使う。地方の対句は中央である。
陸軍では天皇の軍隊は中央であり、それ以外一般や民間、市井のことを地方と呼
ぶ。「外出先で地方人と馴れ馴れしくするな」という使い方をする。この「地方」
という呼び方に屈辱を感じた人は多い。

 海軍では「地方」は全く使わない。あえて言えば「娑婆」だ。新兵には「娑婆
気が抜けていない」という使い方だ。殴る材料に使われるがなんとなくユーモア
があると思う。これは本来監獄と対比して使う言葉らしい。
  その陸軍の「地方」が今NHKでさかんに使われる。おおむね、東京では地方
差別して「地方」と呼ぶことが多い。地方の対句は中央だから天皇の皇居がある
と言う自負が強い。皇太子には自分の子供のような思い入れがある。それは愛嬌
だが東京都も地方自

 治体のひとつだ。東京に対比して地方と呼ぶ。昔の陸軍と同じ感覚だ。私は東
京で合計3年暮したからよくわかる。東京の人は差別用語としてつかってはいな
いし、気が付かないが、明らかに差別用語である。本来差別は、している者は気
付かないものだ。これをNHKがさかんに使う。NHKが中央でそれ以外は「地
方」という。首都は中央とは別の物なのだが、これは将来が恐ろしい。
  二・二六事件以後、この地方と言う言い方が蔓延したからだ。陸軍に代わって
NHKが情報機関のトップになって君臨するのだろうか。

(3)食い物の話
  海軍には「麦飯の数」という言葉がある。古参の序列を言う時に使う。日露戦
争でビタミン不足で脚気に悩んだ海軍は麦飯にした。陸軍は白米にこだわったか
らか死者が増えた。軍医総監の森鴎外のミスとされる。彼は何のためにドイツに
留学したのか。
  麦は大麦ではないので蒸気で炊く。冷めたら食べにくい。飛練ではゆっくり噛
んで食べる時間がないので消化不良になる。その点士官は士官食堂で白米の飯を
食う。

 さて米は俵に詰めるものだが、鹿屋基地でみた米は黒いゴムの袋に入っていた。
潜水艦らしいが艦船だけでなく戦地ではそういう袋に入っていたらしい。水を
被っても構わないように運べるからだ。海軍は米にこだわって餓死した者が何万
人も出た。なぜパン食を導入しなかったのか。これも日露戦争の名残りか。携帯
用として乾麺包はあったが搭乗員用にまたは非常食としての存在だった。このよ
うな便利な主食を使ったらと思う。戦闘中でも飯を炊いて握り飯にしてでないと
いけないと言うのは現実的ではない。終戦時鹿屋基地から脱出の時そう思った。
戦地でもそう思った人は多いと聞く。

 機上で食うのは、片手で操縦桿を握っているので、握り飯でもぎこちない。い
なり寿司はよかった。乾パンかサンドイッチのようなものがよい。宇宙食はチュ
ーブ入りらしい。
  海軍では一般に缶詰が普及していたから便利だった。「ミカンの缶詰」「パイ
ナップルの缶詰」はよくあるが、副食の魚類、肉類が沢山あったのに鹿屋では当
たらなかった。「茹で小豆の缶詰」「ぜんざいの缶詰」や湯を掛けると餅になる
餅の粉末などに出くわして驚いた。海軍には菓子の類いが多かった。甘い物は必
需品だった。

 航空用のビタミンの食べ物、睡眠防止の緑茶シロップ、携帯用のチョコレート、
羊羹。そういう航空糧食は、森永とかの食品会社で開発されていたらしい。ず
いぶん鹿屋基地の穴倉倉庫には貯蔵されていたと言う。士官用には酒も、ウィス
キーなどもあったと言う話。峯山では毎日漁港から魚が入るが少しずつだから兵
隊には回らない。肉も毎日のように食ったらしいが兵隊には回らない。来る日も
来る日も続くイカの煮付けにうんざりした事もある。「肉ジャガ」は食った覚え
がない。肉が見えないカレーライスはふた口で終わるので頼り無い。食い物のう
らみは恐ろしい。
                  (筆者は京都市在住)

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