■【アーカイブ】藤村恒雄自分史(3)

私の大平洋戦争史(1)            藤村 恒雄

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〔1〕序説


  第一 非常にたくさんの犠牲者を出した事。
  第二 支那大陸に足を取られて進退の自由がきかなくなったこと。
  第三 ヒトラーのドイツに幻惑されて思慮を失ったこと。
     三国同盟の反響が読めていなかったこと。
  第四 米国民の愛国心や近代科学と生産力を読み間違えたこと。
  第五 近代戦の準備や勉強が不十分だったこと。

 戦争の目的は何だったか、はっきりしない。領土か、経済か、目当てなくなん
となく戦争に突入した。あえて言えば「戦争する事が目的」であった。或いは明
治の積み残しの「攘夷」のための戦争か。歴史を見て悔しいのは、なんと日本人
は国際政治に疎いかということを痛感する。近衛や松岡を越える人材が、軍人も、
政治家も、天皇もなかった。


〔2〕ヨーロッパの戦争


  三国同盟の失敗は別項で述べるが、ヨーロッパの戦況について見てみよう。ド
イツが14年9月にポーランドに侵入することから、第二次世界大戦は始まる。そ
して西はフランス、オランダを攻略して、次は英本土上陸かと思われた。15年、
ドイツ軍はイギリスへの爆撃を決行した。ヒトラーは制空権を握る事が必須条件
と考えたが、この航空戦は、イギリスのレーダーの開発、戦闘機の奮闘で航空戦
は互角であった。そして遂に8月、ヒトラーはロンドン空襲に限定した。軍事基
地への攻撃はあきらめたのだ。

 それはドイツの爆撃機がイギリスの戦闘機や高射砲で撃墜される数が多く、対
抗できなくなったからだ。当時のドイツの戦闘機は足が短く、爆撃機の援護のた
めに付いて行けないのだ。夜間のロンドン空襲でイギリスは困ったが、周辺の戦
闘基地は一息つけた。そして9月、ヒトラーは英本土上陸を断念する。このニュ
ースは世界中に広がった。ドーバー海峡の50kmが大きな意味を持ったのだ。そし
てイギリスの戦略爆撃隊がアメリカ軍も巻き込んでドイツへの大空襲の準備に入
った。
  こういう情報は中立国の大使館や駐在武官たちの耳に入っていた。しかし日本
の首脳部は聞く耳をもたなかった。思い込みの恐ろしさだ。ドイツは強いと思い
込んでいた。
  翌年イギリス攻略を断念したドイツは反転してソ聨への攻撃に入る。


〔3〕開戦について


  昭和史全体の中での問題点、反省は別の所論で述べるが、ここでは戦争史に限
定して述べる。16年夏、ドイツはソ聨に対して破竹の進撃を続けていた、と見た。
しかし、12月、冬将軍と敵の粘りに屈して、ドイツはモスクワ戦線から撤退し
た。遂に陥とせなかったのだ。50万人の戦死者と捕虜を出していたのだ。中立国
の大使館から情報が入っていたが、東京電報局を押さえていた陸軍は、外務省に
も天皇にもみせなかった。その頃、ドイツが勝ったと思って大東亜戦争(当時の
用語)に突入したことがまず大失態である。

 陸軍は支那大陸に足を引っ張られ動きがとれないが、意地でも大陸から撤退す
るとは言えない。日米交渉でアメリカに言われて一層意地になった。この判断が
大きな過ちである。150万人の陸軍を大陸に張り付けたまま、残る片手で対米戦
争を考える事自体頭がおかしい。もう一つ大きいのは、アメリカの戦力の認識不
足である。アメリカは武器輸出を決定して公然とヨーロッパに事実上参戦してい
るのだ。日本人はアメリカが遊んでばかりいると思っていた。
 
  三国同盟に神経過敏になるのも、仏印進駐にむきになるのも、それだけアメリ
カは真剣になっていた証拠である。その読み違えは決定的だった。国際政治に疎
いのだ。陸軍も海軍も天皇も読み違えた。仏印進駐でアメリカが石油の輸出禁止
など一連の強行措置をとるとは陸軍も海軍も全く予想していなかった。
  支那大陸から撤退することを提案できなかったことが戦う前からの敗因である。
片手であしらえるほどアメリカは弱くなかった。


〔4〕日本軍の準備不足


  あれほど恋焦がれていた日米決戦だが、思うほどには準備がなされていなかっ
た。戦争は航空決戦になろうという予測はヨーロッパの戦況を見れば明らかであ
ったし、だからこそ、ハワイ攻撃を計画したのだった。まず航空機の製造計画、
そしてパイロットの養成計画が準備されていない。航空戦は始まったら勢力の温
存はきかない。つまり消耗戦になる。それが分かっていない。分かっていても対
策が準備されていなかった。職人芸のような人でも交替もさせなければならず、
命も限りがある。

 パイロットは徒弟制度のようにひとりひとり手に手をとって教えて養成してい
た。そういう状況はあるとしても大量養成は可能だった。米軍では成功している
のだ。日本でも2年遅れでやったが遅かった。米国では若者は車の運転ができて
内燃機関の知識が普及している。ある程度時間をかけて訓練すれば使い物にな
る。そいう考えでいるところへ、開戦と同時に、志願兵を募ったら、大学が空っ
ぽになるほど学生が殺到した。

 アメリカには広い国土に各地の訓練基地があり訓練の飛行機もたくさんあり、
燃料もたっぷりあり、義勇兵としてヨーロッパの空で実戦を経験しているパイ
ロットが交替で帰り、教官をしていた。米軍はどの職種でも交替勤務は常識だっ
た。日本では死ぬまで帰してもらえないと言う風潮だった。彼等は1年後にはぞ
くぞく前線に駆け付けてきていた。

 日本では18年になってやっと学生の大量採用を行いパイロットの大量養成を始
めたのだ。1年半後、彼等は前線に出たが、間に合ったのは沖縄の戦争だけだっ
た。若い予科練の場合はもっと時間がかかる。

 戦争の経緯から見て、開戦後7ケ月目の17年6月のミッドウェー海戦で主力空母
4隻を喪失し優秀なパイロットを失った。中には貴重な指揮官クラスも含まれた。
(兵学校出身の士官でも3年経たないと隊長はつとまらない)。しかし航空戦
闘では、実力が上2:1ということはあっても、10:1ということはないので消耗
した分補充しないと対抗できない。ガダルカナル~ラバウル(総称してソロモン
の戦争)の航空戦では米軍は飛行隊を次々に送り出してきたが、日本軍は補充が
なかなか続かない。

 17年から18年いっぱいにかけての数々の戦争で、7000機の飛行機を失った。そ
して失ったパイロットは7000名にのぼる。開戦時4500名とされていたから、かな
り補充しているが、歴戦の優秀な人達の多くが戦死した。海軍も準備が足りなか
ったのだ。この時期に補充されている人達は従来からの組織で養成した開戦前に
入隊したパイロットであって、開戦後採用した学生ではない。開戦後に入隊した
人は一人も参戦できていない。

 日米の差について大事なことがある。それはここで言う航空戦には陸軍の飛行
機は全く参戦していないのだ。陸軍と海軍は同じ予算で同じだけの飛行機を作っ
て来た。そういう協定だった。しかし陸軍の飛行機は海の上は飛べないというの
だ。海の上を飛ぶ訓練はしていない。開戦時比島へ送り込んだ陸軍機は海軍の飛
行機が誘導したという。それに陸軍は支那大陸に派遣しているという。日米決戦
を陸軍と海軍が真剣に協議した証拠はない。

 米軍はハワイ空襲の映画でも陸軍の飛行隊が活躍している。17年4月東京初空
襲のドウリットル隊は全員全機B25という陸軍の中型機で、しかも航空母艦から
発進している。つまり海の戦争に参加するための訓練をしているのだ。ガダルカ
ナルなどソロモンの戦争参加している米軍も陸軍機が相当いるのだ。20年8月ま
での永い太平洋戦争の場面で陸軍の飛行隊と海軍の飛行隊は手分けもしながら共
同して戦争しているのだ。

 日本は海軍という片手で戦っていたと言える。日本軍は海軍と陸軍が別々に戦
争していたのだ。※ブーゲンビルで山本五十六の搭乗機を撃墜したのも陸軍機で
あった。

 戦争の準備ができていないことの例は数限りなく多いが一つだけ挙げよう。

 ガダルカナルに上陸した日本軍は、上陸作戦の失敗もあり、米俵を濡らしてし
まった。しかもひとりひとりに1週間の米しか持たさなかった。補給の部隊は必
要無いと思っていたらしい。米は生では食えない。なぜ乾パンを用意しなかった
のか。聞くと、南洋ではバナナやタロ芋もあり、食料の心配はなかろうと思って
いたらしい。
 
  実情は椰子の木が一本もない島だったのだ。それでほとんどが餓死した。そう
いう事は事前に調べておく。兵要地誌ということを勉強したとは思えない。もと
もとそんな所へ行くとは思わなかったから、陸軍も海軍も地図もなかったとい
う。それならそんな所で作戦することが間違いだったのではないか。山本五十六
元帥が手を広げ過ぎたのだ。彼は戦死して軍神になったが、かれの責任も極めて
重い。


〔5〕兵器と戦術思想の差


  調査不十分という点で致命的だったのは、すでにヨーロッパ戦線で新兵器がぞ
くぞく登場していたのに、その情報と研究、対策がなかったことだ。陸軍も海軍
も兵装の基本は38銃だ。38とは明治38年の日露戦争の時代の銃ということだ。5
発ずつ弾を込めて撃つ。しかし時代は一般兵士も自動小銃だ。ソ聯と戦った14年
のノモンハンでも分かっている筈だ。また、歩兵とは歩く兵隊だが、もう歩いて
移動する兵隊はいない。戦闘場面では車両を使って散開する形式がとられてい
た。だから対応が早い。移動に疲れてしまうことが少ない。

 また、砲の移動でも車両による牽引である。日本軍は馬を使うが、ほとんどは
人力だ。人力では使える砲が限られる。ヨーロッパではすべて車両だ。車両は車
と、燃料と、運転の三つがいる。日本軍には三つともないのだ。近代戦を戦う軍
隊になっていないのだ。燃料が無いと言うことは戦争する事が不可能な国だとい
うことだ。精神力だけで戦うというのが「皇軍」なのだと言う。

 15年、イギリスがドイツ空軍の爆撃を凌ぎ切ったのには、レーダーの開発が大
きい。後に技術が進むので最初は敵の飛行隊がぎりぎりまで分からなかったが、
事前に分かると言う事は重大だ。その情報は、本土防衛の戦闘機隊や高射砲陣地
に連動していた。ノーベル賞をもらったという学者も動員されたらしい。科学の
枠を結集して作り上げた。秘密ではあったがそんな15年時点の話すら伝わってい
ない。

 もう一つ重要なことは潜水艦の技術だ。あの戦争では米軍の潜水艦に嫌という
ほどやられた。軍艦も船舶も根こそぎ沈められた。ドイツでも小型の潜水艦が活
躍して、イギリスは通商路を脅かされた。そんな話は耳にたこができるほど聞か
されている。しかし海軍は電池の研究も水中探知のソナーも、レーダーもそれと
連動する発射する技術も進んでいなかった。戦後の米軍の記録を読むと情けない
かぎりだ。
 
  航空機の電話もひどい。空母の上空警戒に当たっていた戦闘機が、敵の攻撃隊
が接近するのを軍艦に知らせる手段がないのだ。隊内電話といって飛行機相互も
通話する方法がない。レーダーに限らず電気の技術が遅れていた。


〔6〕戦争の転換点 ターニングポイント



◎ミッドウェー海戦のこと


  戦局の転換点としてよく言われるのがミッドウェー海戦である。これは空母4
対4の航空決戦であった。結果は日本軍は全部沈没して全滅、米軍は1隻沈没と
いう完敗であった。そのショックは大変なものだった。海軍は東条首相にも天皇
にもなかなか報告しなかった。部内でもひた隠しに隠していたようだ。

 私はこの時、ただちに失敗の張本人南雲司令長官をクビにすべきだったと思
う。そんな航空戦の素人を長官に任命した山本元帥も更迭すべきだったと思う。
信賞必罰を厳しくしないで戦争に勝てるわけがない。兵学校の成績の序列で専門
家や適役を袖にしていたのだ。軍隊もそういう官僚主義の世界だった。米軍もハ
ワイの後すぐに少将を長官にしたりした。

 米軍は、日本海軍ではこの時戦死した山口少将がもっとも手強いとみていた。
彼は、飛龍の艦橋から南雲長官に「直ちに発進の要あり」「飛龍の飛行隊発進準
備よろしい」「直ちに指示されたい」と意見具申の督促をしたのだが、赤城艦上
の南雲は決断せず時間を浪費して、あっというまに敵の爆撃機の爆弾を食らった。
甲板上で爆弾を積んだまま待機していた飛行機が次々と誘爆して火の海となっ
た。それでも山口の飛行隊は出撃してかろうじて1隻の空母を沈めた。しかし攻
撃に出掛けた飛行隊は全員が戦死した。このころは戦闘力は互角であったのだ。
最強の赤城、加賀、飛龍、蒼龍が沈んだ。空母を守る鱗形陣の組み方も悪かった。
  この4空母の搭乗員も整備員も超ベテランであったし珠玉の師匠たちであっ
た。ほとんどはハワイにもでかけており、まだ交替していなかった。勿論隊長ク
ラスの指揮官たちもかけがいのない人達だった。大きな損害だった。


◎17年から18年にかけて


  その時、瑞鶴、翔鶴の2空母はインド洋作戦から反転し赤道を越えて南下して
いた。これも虎の子の新鋭空母で乗組員もハワイからそのままだった。17年8月
第一次ソロモン海戦が勃発した。これは敵がガダルカナル島に上陸する部隊を連
れて大挙攻撃してきたのだ。日本側は、小手調べと見ていたが、それが間違いの
始まりだった。ここでも山本元帥は大きなミスをしてしまった。

 米軍は反攻の第一段階として米豪連絡体制の確立を目指した。ガダルカナルは
その要石だった。そのため「海兵隊」という新規の編成で本格的な作戦だ。上陸
部隊も含めて何十隻もの艦船を組んで、援護の艦隊、航空部隊、陣地構築部隊、
飛行場建設の部隊、兵器の部隊、補給の部隊と組み合わせてくるのだ。この後、
戦争が終わるまで各地での上陸作戦に見られる上陸占領作戦のマニアルがこのと
き完成した。首脳部の戦術思想の差だ。

 対抗上日本側も、赤道以南の戦争と一括して称していたが、ニューギニアのポ
ートモレスビー、オーストラリアのポートダウィンを叩く。そのためにソロモン
の諸島、赤道のマキン、タラワの島、それにニューギニア北岸のラエ、サラモア
などに急遽航空基地をつくりつつあった。それらを束ねるのが連合艦隊であり、
トラックの基地群であった。

 まだ厚かましく、スタンレー山脈を越えてポートモレスビーに進出しようとし
ていた。
  これらは勇壮ではあるが無理、というより無茶であった。極めて広範囲の作戦
で、地図も無いようなところでもあった。とても双発の一式攻撃機でも足が届か
ない。空母による作戦がとられた。こちらは空母の機動部隊は一つだけだが、数
で言えば米軍は3ケ機動部隊が運用できた。 (つづく)

           (筆者は京都市在住)

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