【沖縄・侃々諤々】

誇りある豊かさとは--わたしの生活から思うこと--

新里 春子


■豊かさとは
 1938年暮れから1940年にかけて、宗教哲学者柳宗悦は「民芸」一行とともに4回来沖している。彼は著書の中で「沖縄は人文的にみるならば驚くべき富をもつ国」と驚嘆し、「日本の京都に匹敵するほどの文化を持っている」と絶賛した。当時、那覇の東町には沖縄で織られた布の市場があり、壺屋には逗子甕、保存用のカメなどが造られる多くの窯元があった。彼らが撮った写真を見ると、町並みは石畳と瓦屋根で実に見事な美しい風物であった。

 彼は「貧しい一面を見るよりも、富める一面をよく理解することが沖縄を救う道ではないか」と述べている。何をもって貧しい、豊かというのだろうか。資本主義の原理では、相手から搾取して富を蓄積し、再投資して富を膨らます。その欲望は行き着くところがない。したがって金の亡者になる。これだけの富があるのになぜそれを生かさないのかと、彼を含めて県外から来た人は、沖縄の人間を知恵がなく、怠け者のごとくに誤解する。

 沖縄は島ゆえにみなで助け合って一緒に伸びようとする。富は共有財産であり、独り占めしようとはしない。たとえば、平和通りでA店の店番が席を外していたとする。客がA店の商品を手に取ると、隣のB店の店番がそれを売ってあげる。隣より1円でも多く利潤を得ようとする競争原理ではない。また趣味で魚を捕ってきた人は、海からの贈り物として隣近所に配り富を共有する。

 柳宗悦の見た世界と現代では時代が違う。しかし彼が言うように、沖縄の富は計り知れないと私は思う。亜熱帯の気候、生物多様性、サンゴに群れなす魚、ジュゴン、海亀、干瀬(ヒシ=引き潮のとき現れるサンゴ礁)、干潟、コーラル、山、海、薬草、島野菜、料理、言語、工芸、音楽、芝居、空手、棒術などなど。地元の人にとってこれらは共有財産だから、その富をあるがままに見守り、金銭を得る手段にはしない。

 県外から来た人は、沖縄の富に魅せられた人間と、それをむさぼるためにやってきた人間の二つのタイプがいる。資本の原理で来た人は、穏やかな沖縄社会でその共有財産を骨まで奪いつくす。アメリカも、軍事活動のために沖縄の富を奪ってきた。競争原理の世界は、相手の利害とぶつかり、自国の利益を守るために用心棒の軍隊が要る。しかし譲り合い分かち合う世界の沖縄はそれを必要としない。
 沖縄は小さな島ゆえにもろい。ゆえにヤマトの競争の原理と中央思考の発想は通用しない。これまで、基地の建設、ヤマトや外国の資本、政府の振興資金によって環境は破壊されてきた。沖縄の富を考えるのなら、今残されている豊かな自然環境を共有財産として守るということに尽きる。

■文化(ことば)
 復帰前、ヤマトに行くためにパスポートを携帯し乗船した。甲板では沖縄の青年たちが沖縄口(ウチナー口=琉球語)でしゃべっていた。隣にいた女子大生が顔をしかめてつぶやいた。「方言を使っている」。私は母から「その土地の言葉を棄てることは、その土地の人間の魂をなくすことだ」と教えられ、家庭ではすべてウチナー口で話していたので、女子大生が迷惑顔をすることが理解できなかったし、とっさのことに反論できなかった自分を恥じた。

 数年後、私は柳宗悦の本に出会う。彼が1940年沖縄訪問中に、新聞紙上で、県学務課と彼との間に標準語の奨励をめぐって論争が起きた。彼は著書で「沖縄に生れて標準語しか使えないような沖縄県人を私たちは尊重しない」「言葉を棄てることは、文学を失い音楽を失うことである」。つまり、母の教えと同じことをヤマトの人間が言ったのだ。論争は論争のままで終わり、15年戦争はエスカレートしていく。県の名目は学力向上だが、戦争遂行のためにはウチナー口は徹底して排除されなければならなかった。当時、ウチナー口の使用者はスパイ扱いされ、歌三線や沖縄芝居で使うことも禁じられた。罰=悪とされるようになって文化は卑しめられ、自らも卑下した。船上の女子大生は外からも内からもつぶされた沖縄そのものだったのである。

 その後、私は父の遺した三線を弾きこなしたいと20年前から師匠の指導を受け、八・八・八・六の琉歌を三線で弾いている。三線は伴奏楽器ではない。弾きながら自ら歌うので、言葉との関係が大きい。琉球の三線(古典音楽)には琉球語のイントネーションが生きていて海の波のような抑揚があり、古謡(おもろ草紙=琉球王国成立以前の歌)や琉歌には琉球語の美しさを見ることができる。たとえば、暁の空を太陽が染めていくさまを古謡では「あけもどろの花」や「火の鳥」と表現し、夕暮れどきを琉歌では「夕墨(ゆしずみ)」と墨を流したような表現をする。また浪の白さは「波の花」とか「潮花(すばな)」である。その感性の豊かさには感動させられる。

 人間の情感で大切な「心」には、肝心要の肝(ちむ)を使う。肝苦(ちむくりさ)、肝心(ちむくくる)、肝病(ちむやむ)、肝美(ちむちゅらさ)、肝(ちむ)ドンドン(ドキドキまたはワクワク)など。ヤマト口に訳すと感情が微妙にずれてしまう。このように言葉の綾を知れば知るほど、魅力的である。
 私は地域で、家庭で、ウチナー口で日常的に会話してきたので、不自由しない。先人たちが琉球の言葉を使い、音楽や芸能で時代を乗り切ったように、その歌に込められた思いに共鳴しながら歌三線を弾き、地域でウチナー口=琉球語を使い続けていくつもりである。

■土のある暮らし
 最近、私は庭の菜園に精を出している。私が生まれたころ沖縄は戦争ですべてを失い、経済的に大変な状況が続いていた。1950年代、朝鮮戦争が勃発、米軍は農地や集落を銃とブルドーザーで盗りあげ、米軍基地に依存せざるをえない状況をつくった。太平洋戦争の残骸の鉄くずを売り、飢えをしのぐ状況だった。土地を奪われずに済んだ人々は、食糧確保のため自給自足の生活を余儀なくされた。この自給自足が私の原点である。

 父が漁を母が野菜とキビ作をし、どの家も正月用に豚を飼っていた。子供は労働力であり、私も小学生で母から魚をさばく方法を仕込まれた。中学生になると、夕食作りを担当した。高校の家庭科の授業で、ご飯の炊き方の実習があり、学校でなぜそれを習うのか疑問だった。クラスの夏休みのキャンプでは、中学の給食室で50人分の飯を大きな釜で女生徒2人で薪で炊いたものである。行事のたびに餅や豆腐作りをし、また1年分のみそ作りを手伝った。作業を通して母との会話を楽しんだ。金銭的には貧しかったから、店で買うものはわずかだった。海から魚や貝を取り、畑の作物の出来具合で献立を決め、有機農法の野菜で料理した。いま思うと、なんと贅沢な食生活だったことか。

 現代では、農薬や化学肥料を使うことによって野菜の繊維質が溶けてしまうことがある。身体をつくる作物の状態が悪くては、本当の豊かさとはいえない。農業の先輩はいろいろアドバイスをしてくれる。マリーゴールドは虫よけに良い。潮水とEM菌を混ぜ、散布すると虫がつかない。ニンニクを植えるとメロンは病気にならない。豆やヒマワリを植えると根粒菌が増える。畑にミミズが育つ土作りをすると虫にやられない等々。まだまだわからないことが一杯ある。

 「ラダック懐かしい未来」(ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ著)によると、「自給自足はGNPに加算されず、流通過程や遠距離で運送が多いほどGNPに加算され、経済成長の数字は上がる。環境への負荷は考慮されない。環境への負荷が小さく地域に根ざした自給自足の価値を、経済学者は覆い隠してきた」と、経済学者を批判している。GNPでは、その生活の質が見えない。

 結論として、東京の豊かさと地域の豊かさとは比較できない。自給自足の有機農法は、ミミズや微生物をはじめ昆虫など、あらゆる生き物と宇宙とのつながりを自覚させる。沖縄に適した野菜を植え、身体も心も豊かに、GNPの数字に惑わされない生き方こそ、豊さではないかと思う。

(しんさとはるこ:ヤンバル自然保護の市民運動に参加、60代、読谷村)


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