【コラム】『論語』のわき道(26)

謀られた(一)

竹本 泰則

 孔子には弟子が何人いたのかははっきりとしない。かなりの数にのぼっただろうと思えるが『論語』に名前が残る弟子は精々三十人程度である。その登場回数をみると、子路(しろ)という人が文句なしのトップで五十回くらい出てくる。二番目が子貢(しこう)という人、三番目には顔淵(がんえん)のほか二人が並ぶ。言動の記録が多いこれらの人たちは、読んでいくうちにその人となりが浮かんでくる。もちろん当たっているかどうかは分からないが……。

 たとえば子路という人は粗削りながらにくめない好漢といった人柄に感じる。そして、いささか単細胞的な印象もある。一方、顔淵という人はまさに優等生といった感じだ。孔子もその将来に期待していたと思われるが、夭逝してしまい孔子をえらく悲しませている。

 孔子があるとき顔淵に向かって「出処進退のタイミングを間違えないのは私とお前と二人くらいだね」と漏らす。顔淵の資質を大いに持ち上げた評だ。傍で聞いていた子路は心中穏やかなはずはない。自分のことも認めてもらいたい一心からであろうか、みずからのセールスポイントである勇敢さをアピールする作戦に出る。いわく、「先生がもし大軍を率いるという段になれば誰と組んで行動しますか」と。自分しか選ぶべき人はいないはずだと、自信満々であったことだろう。
 これに対しての孔子の答え。

  暴虎馮河(ぼうこひょうが)し、死して悔い無き者は、吾与(とも)にせざるなり。
  必らずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり。

 虎に素手で立ち向かったり、舟などなくても黄河を渡ろうと企てるなど、死んでも構わないというような男とは一緒に行動しないよ。組むとすれば、ことに当たって臆病なほど慎重に考え抜き、周到な計画をもって実行するような人だね。

 まるで子供のような子路の発想とそれをいなす孔子のやりとりが面白い。
 この章句は多くの人の心に残ったか、文頭の「暴虎馮河」は無謀な勇気をたとえる成句として、日本でも使われてきた。

 文中の「謀を好む」という言い方に少々引っかかる。謀という字を辞書で引くと、相談する、計画する、考慮するといった意味が並ぶ。大昔の漢字辞書である『説文解字』(できたのは世紀100年頃)でも、この字は「むずかしい事情を考慮することをいう」と解説されているようだ。

 漢字がもつ元々の意味はそうであったかもしれないが、現代の日本語では少し違ったニュアンスが加わっているように思う。「陰謀」、「謀略」あるいは「謀叛(むほん)」といった熟語のイメージが影響してか、よからぬことを計画したり相談したりするというにおいが強い。この字の訓読みは「はかる」だが、これを受身の形で「はかられた」とすれば、他人の悪だくみに「してやられた」というような語感になる。

 しばらく前のことだが「うまく謀られたものだなぁ」と憮然たる気持ちになる事例に行き当たった。

 先の大戦で、わが国は主にアメリカ軍の空襲によって国宝を含む多くの貴重な文化財を失った。東京の増上寺、浅草寺、大阪の四天王寺など古い寺社の堂宇や宝物のほか、仙台城の大手門遺構や名古屋城、和歌山城も焼け落ちてしまった。沖縄の首里城や守礼門も破壊された。そのほか貴重な図書やすぐれた絵や書などかけがいのない品々が灰燼に帰した。

 本土各地が連日のように爆撃を受けて焼け野原になっていくなか、文化財が多く集中する京都や奈良は大規模な空襲にあっていない。このことは当時から多くの人々が感づいていたようだ。大した軍事施設や軍需工場がないという理由のほかに、アメリカ側に文化財保護という配慮があるからではないかという臆測もあったらしい。「日本美術に通じた学者が大統領に対して、これらの都市を爆撃しないよう進言した」といううわさまでが流布したらしく、志賀直哉は知人宛のはがきの中で、その学者とはウォナーだろうと推測している。

 志賀がいうウォナーとは現在ではラングドン・ウォーナーと表記される人物である。この人は、1881(明治十四)年生まれで、ハーバード大学を卒業したのちボストン美術館に所属し、当時の東洋美術部長であった岡倉天心の助手をつとめた。明治三十年代の終わりころから四十年代にかけて何度か来日し、天心の指導を受けたり、まる一年間ほど奈良に滞在して、仏像彫刻を学ぶかたわら寺院めぐりを楽しんだりしている。
 こうした訪日の折に、志賀直哉や柳宗悦などとの交流をもったらしい。因みに、ウォーナーは志賀直哉より二歳、柳宗悦より六歳ほど年上である。著名な東洋美術研究家で、日本の美術を愛好した人でもあった。さらにつけ加えると、名家の出身でセオドア・ルーズべルトの姪を妻とした人である。

 この人は戦時中に日本全国百三十七か所に点在する文化財あるいは文化財所蔵施設のリストを作成している。歴史的な城郭、社寺などの建造物・宝物などのほか、大学の図書館、岩崎久彌、根津嘉一郎などの私設コレクションも列記されている。
 1943(昭和十八)年、アメリカはヨーロッパの遺跡・美術品の保護、管理(枢軸国が略奪した美術品を正当な所有者へ返還すること)などを検討する委員会を設立していた。委員会は昭和十九年以降、対象地域をアジアにまで拡大することになった。この際に当時ハーバード大学の附属美術館で東洋部長の職にあったウォーナーが委員として参加し、日本の文化財のリスト(「ウォーナー・リスト」などと呼ばれる)をまとめたという。

 終戦から三か月後の昭和二十年十一月十一日、朝日新聞に衝撃的な記事が載った。「なぜ京都や奈良は大規模な空襲を逃れたか、誰もが抱いていたこの疑問が解けた……」というのである。そこには「美術と歴史を尊重するアメリカの意志が、京都と奈良を『人類の宝』として世界のため、日本のために救ったのである」との解説が加えられている。その上で、日本に空爆が開始されるときに、京都、奈良を作戦目標から除外しようとウォーナー氏が献身的な努力を尽くした、ということをGHQの文教部長であるヘンダーソン中佐という人が日本に伝えた、とある。

 この話は大きな反響を呼び、各新聞社、雑誌社も競ってこれを追いかけ、多くの国民が知るところとなった。
 「文化財を戦禍から守ってくれた恩人」のウォーナーは戦後二度ほど来日しているが、その都度国賓並みの歓迎を受け、昭和二十七年の来日のときには当時の吉田茂首相が箱根の別荘(私邸)にまで招待したという。

 昭和三十年、彼が死去すると鎌倉・円覚寺で追悼式が行われた。その世話人には吉田茂前首相のほか、国立近代美術館館長、日本芸術院院長、東京芸術大学学長、さらには横山大観、前田青邨、安田靫彦、柳宗悦などが名を連ねており、当日の出席者としては前田多門元文相、長与善郎、谷川徹三ら芸術・文化関係者をはじめ各界の著名人の記録が残っているそうだ。加えて日本国政府は文化勲章(勲二等瑞宝章)を追贈している。
 その後、奈良・法隆寺は境内にウォーナーの記念碑と五輪塔を立てた。これに続き京都市、鎌倉市など全国六か所に記念碑が建てられ今も残っている。

 実は、ウォーナー自身は日本の文化財のリストを作成したことは認めているが、その目的がなんであるかは明かしていない。そして自身が日本の古都を空襲から守った恩人であるということについては、その都度否定し続けていたようである。彼がいくら否定しても、それはかえって謙虚、謙遜と受け取られ、日本人の間での評判はますます高まったという。
 これは「ウォーナー伝説」とも呼ばれて有名な話らしい。その後、これに異をとなえる人も出たが、伝説を覆すに足る強力なものはなかったようだ。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2021.08.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧