【コラム】『論語』のわき道(29)

謀られた(三)

竹本 泰則

 奈良が爆撃されなかった理由として、吉田氏は単なる時間の問題であったとする。
 米軍による日本本土への爆撃は、第一段階が「精密爆撃」(軍事施設など特定の目標に絞ったピンポイント的な爆撃)、続いて大都市に対する「ジェノサイド爆撃」(都市全体あるいは主要な地域に対し住宅地、商業地を問わず無差別に行う爆撃。絨毯爆撃などともいわれる)、第三段階は中小都市に対するジェノサイド爆撃という風に展開されていった。爆撃する目標都市は人口(昭和十五年の国勢調査に基づくらしい)を基準にして、東京を筆頭に全国百八十か所がリストアップされていた。奈良はその八十番目に位置している。吉田氏は、攻撃が第三段階の途中、六十四番目くらいまで進んだところで終戦になっただけだと説く。

 そうだろうか。
 攻撃目標の六十四番目といえば長野市である。ここは終戦直前の八月十三日の未明から夕刻にかけて、米国・航空母艦から飛び立った戦闘機によるロケット弾・機銃掃射などによる襲撃を受けている。狙われたのは飛行場、鉄道の駅などである(一般の住宅・商店等は大きな被害が出ていない)。
 ところが翌十四日にも空襲は行われている。被害都市は大阪市(国鉄京橋駅を中心におびただしい犠牲者が出たことから「京橋空襲」とも呼ばれる)、山口県岩国市・光市、群馬県伊勢崎市、埼玉県熊谷市などであり、いずれもまちは破壊され多くの犠牲者が出ている。また日本石油秋田製油所もこの日の空襲によって壊滅している。
 攻撃目標順位は秋田市が五十位、岩国市が九十九位、熊谷市が百五位、伊勢崎市が百二十六位である。

 軍隊という集団は「打ち方、止め!」の号令がかかるまでは攻撃をしまくる。日本の夜が静かになったのは「玉音放送」が行われた日以降のはずである。六十四番目くらいまで進んだところでも戦争は終わったとはいえない。あえてあげつらえば、八月十四日の攻撃時に、例えば大阪市とひとくくりにして、奈良を空襲するという選択肢もあり得ただろう。

 もう一つ、六十四番目などという順位が判断のよりどころになるだろうかという疑問もある。六十四番目より後位にありながら大規模な空襲を被った都市は容易に見出すことができる。先の岩国市、熊谷市、伊勢崎市のほか、たとえば愛知県一宮市(六十八位)、三重県津市(七十位)、新潟県長岡市(七十三位)、さらには兵庫県明石市(百十一位)、神奈川県平塚市(百二十位)などがそうである。
 逆に順位が上にあるが、市街地を焼き尽くすような規模の空襲を免れている都市もある。目につくところでは、二十三位の金沢。県庁や陸軍の師団も置かれていた北陸の代表都市である金沢は空襲を受けていない。また二十一位にあった横須賀市は海軍工廠や軍港停泊中の軍艦などに被害があった昭和十七年の空襲を皮切りとして幾度か攻撃を受けているが、いわゆる「絨毯爆撃」は一切なく、従って被害も小規模にとどまったようである。ここは戦後すぐに軍港および周辺施設がアメリカ軍に接収され横須賀海軍施設として使用された。その経緯から戦後の基地利用の目的のため米国が意図的に温存したととりざたされたこともあったようだ。そのほか奈良市より少し上の七十七位にリストアップされている別府市も無傷である。

 奈良を含めていくつかの都市が空襲などを受けていないことには、何らかの意図が働いているではないかと大いに勘繰りたくなる。しかし空襲を受けなかったことを説明する確固たる理由などはなかなか分からないのが当たり前ではないか。京都のような事例はむしろ例外なのだ。
 奈良市に空襲がほとんどなかったことに対する吉田氏の解説は受け入れにくい。

 「ウォーナー伝説」が虚構であるとした吉田氏は、最後にこの伝説を「創作したのはだれか」について述べる。
 それによれば、「創作者」は先の朝日新聞の記事にもその名が登場するヘンダーソン中佐をはじめとするGHQの一部局である民間情報教育局(CIE)の所属員であるとしながらも、最終的には「この「伝説」を占領軍による一種の計画的な陰謀であると断定しうる決定的な証拠はGHQ/SCAP文書から発見することはできなかった。……当然である。計画的な陰謀であったとすれば〝これ見よがし〟に資料など残したりしないであろうから」としている。

 CIEはGHQの諸機構の中で最初に組織された部局の一つ。そこには総務部門のほか、教育・宗教、新聞、放送、映画、企画、調査・分析の六つの部門があり、その使命は占領下の日本の教育政策の方向づけ、あるいは新聞、ラジオ、映画などによって提供される国民への情報について、その内容に関し「勧告」を行うこととされていたらしい。GHQは発足早々にいわゆるプレスコードを定め、新聞雑誌の検閲によって日本人への情報統制をおこなっているが、これはGHQ配下の参謀部門(CCD)の担当であった。CIEの方は、昨日まで敵国であった自分たちへの反感を抑えるべく、宣撫活動にも積極的に取り組んだようだ。

 当時の日本人の娯楽に大きな比重を占めていたものはラジオ放送である。放送番組の中には、CIEラジオ課の企画によりながらも、NHK企画という名目で放送されたものも多かったらしい。「真相はこうだ(後に真相箱)」、「話の泉」、「鐘の鳴る丘」、「向う三軒両隣り」、「二十の扉」、「街頭録音」、「陽気な喫茶店」、「時の動き」、「社会の窓」などがそれだという。そのほか学校放送番組のすべてもCIEが実質企画したらしい。また「さくらんぼ大将」「のど自慢」「とんち教室」などの番組は日本側が企画したものだが、最終的にはCIEの許可を得ての放送であったという。この辺りの事情は菊田一夫の「鐘の鳴る丘」をめぐる回想談が伝えている。

 CIEの教育・宗教部門における最初期の教育課長はヘンダーソン陸軍中佐であった。「ウォーナー伝説」の火付け役となった朝日新聞の記事で、ウォーナーが京都、奈良を爆撃目標から除外しようと献身的な努力を尽くしたという「秘話」を伝えたという人物である。
 ところで、この人に限らずCIEには軍の肩書を持つ人が大勢いるようだが、これは職業軍人が情報・教育政策を実行したということではない。専門的な知識や特別に訓練された技能を持つ民間人をスタッフに起用していたのだという。ヘンダーソンも一言で言うなら「大学の先生」。コロンビア大学卒でニューヨーク極東メトロポリタン美術館の館長補佐などをつとめ、1930年代の初めには京都で日本語や日本美術を学び、日本の美術品に関する教科書を翻訳したというような人である。戦時中は軍属として諜報・宣伝分野に携わっていたらしい。軍属が解けた以降は、母校に戻り教授(のち名誉教授)になっている。團琢磨、前田多門(ニューヨークの国際文化会館・館長、東久邇内閣の文部大臣)など日本のリベラルな知識人と親交があった人だという。

 ヘンダーソンらによって戦後の教育政策が固まる。
 六・三・三・四制が採用され、軍国主義的思想を持つ者などが教職から排除(教職追放)され、「国家神道」が禁止となった。修身の授業も停止され、一時的ながら、日本史・地理の授業もできなかった時期もあった。これらの行政を進めるなかで、GHQは「教育勅語」の扱いについて検討していたらしく、それが天皇のいわゆる「人間宣言」に通じていったようであるが、ここにもヘンダーソンの影がある。この人は昼食時間を利用した一時間ほどの間に天皇の神格を否定する宣言の草案を書きあげた。それが宮内省に渡り、詔書として完成したらしい。吉田茂外相の書簡と一緒に届いたその案を見たマッカーサーは大いに驚き、また喜んだと伝えられる。

 ヘンダーソン、あるいは、CIEと「ウォーナー伝説」とのかかわりについては決定的な証拠は期待できそうもない。
 しかし、素人の想像は膨らむ。「ウォーナー伝説」は一種の計画的な陰謀であり、日本という国も人々もCIEに謀られたのだ。そう思えてならない。そしてヘンダーソンがこの伝説のもとを日本に流した裏には、ウォーナーをまつりあげながらも、同時にアメリカという国が「文化と歴史を尊重する国」と思わせて、アメリカに対し好意をもたせようとする彼の、あるいはGHQのたくらみを感じる。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2021.10.20)
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