【コラム】『論語』のわき道(28)

謀られた(二)

竹本 泰則

 平成七年になって、歴史学者の吉田守男という人が「ウォーナー伝説」は真実ではなく作られたものだということを本にまとめて発表している。
 『京都に原爆を投下せよ (ウォーナー伝説の真実) 』という書名はどうかと思うが、中身は母校の京都大学を拠点として、GHQ/SCAP文書(連合軍総司令部が日本占領期に作成・収集した膨大な文書類をいう。司令部解体後は米国・国立公文書館に保存された)をはじめ米国から取り寄せた資料などを基礎にして、丁寧な研究を積み上げ、「真実の解明」に取り組んだまじめなものである。
 吉田氏はこの本が出版された後も「ウォーナー伝説」が真実ではないことを著書、論文、講演などを通じて繰り返し主張しているようだ。そのことはこの伝説が日本人の中にいかに深く浸透していたかを物語るものであろう。

 吉田氏はまず「ウォーナー・リスト」と京都・奈良などが空襲を免れたこととは関係がないことを、リストが作られた背景や目的などの分析にもとづいて論述している。
 たしかに米国の指導者層がこのリストの存在を知っており、それに特別の意を払ったというような話は聞いたことがない。何よりも、国の命運がかかった大きな戦争である。軍事的な必要性に優先するものなどあり得るはずがない。たとえ政府・軍部の高官が貴重文化財のリストを見たとしても、その保護を作戦の優先事項とすることなどなかったであろう。

 戦争の末期、例えば強力な爆撃機B29を新たに開発し、マリアナ諸島から日本本土への直接空爆が可能となった時点では、米国は勝利を実感しつつあったのではないか。しかし、その時点においてさえ、彼らにとってもっとも重要な課題は一刻も早い戦闘の終結、つまりは日本の降伏であったろう。最終局面である日本本土での地上戦ともなれば、米軍の犠牲は戦闘の期間に比例して大きくなる。敵国の文化財よりも自国兵士の命を大事に考えたはずだ。

 終戦から時を経た今にあっては、先の戦争を客観視し、状況を冷静に考えることができる。一学者が作成した文化財のリストが軍事作戦を左右し、日本の古都が大規模な空襲を免れることになったなどということはあるまい。「ウォーナー・リスト」と京都・奈良が空襲を免れたこととの間には直接的な因果関係はないであろうことはうなずける。

 では京都や奈良などの都市に対する空襲がなかったのはなぜなのか。
 吉田氏は、まず京都について、この地が原子爆弾を投下する目標都市に選ばれていたからだと説く。

 昭和二十(1945)年五月十日から十一日にかけて、原爆開発に携わる科学者、軍人が集まり、投下する都市を選ぶ最初の委員会が秘密裏に開かれている。ここで京都、広島、横浜、小倉(現北九州市の一部)が選定された。
 目標都市に選ばれると、ワシントンからの訓令によって、その都市には通常兵器による爆撃が禁止されることになっていたという。その理由を吉田氏は、科学者すらも正確に分かりかねていた原爆の威力を明確にすることだとしている。

 昭和二十年三月十日から十一日にかけての東京大空襲を皮切りとして、日本の各都市は連日のようにB29が大量投下する焼夷弾によって大きな被害を受け続けていた。廃墟同然となった都市にあらためて原爆を投下する意味はないともいえる。したがって、このような措置が取られたであろうことは理解できる。現に広島・小倉などは、目標として選ばれてからは空襲を受けていない。横浜は目標から外れた直後に大規模な爆撃を受けている(五月二十九日・横浜大空襲)。

 京都は爆撃が禁止されていたはずの期間中に一度空襲を受けている。「西陣空襲」といわれているが、小規模のB29編隊の中の1機が京都上空で7発(5発とも)の爆弾を投下し、43名の戦死者が出ているが、これ以外に本格的な爆撃は受けていない。

 目標都市は二転三転している。もっとも意見が割れたのは京都であったらしい。原爆開発計画(マンハッタン計画)の最高指揮官であるグローブズ陸軍准将(当時)をはじめとする軍関係者は、京都を目標とすることを強硬に主張し続けたようである。これに反対したのは陸軍長官のスティムソンであった。最終的にはスティムソンがトルーマン大統領を説得し、京都除外を決定したようである。七月二十一日ごろのことらしい。七月末の(最終)目標都市は、広島、小倉、長崎とされたようだ。

 京都にこだわるグローブズ准将の執拗な主張に土壇場まで反対し続け、最終的に京都を戦禍から救ったということから「スティムソン恩人説」というのも一部で唱えられている。吉田氏はスティムソンの果たした役割は大きかったことを認めながらも、その意図は「文化遺産保護」などとは何の関係もなく、ただ戦後世界を見通した政治的計算に基づくものだといっている。

 スティムソンは「制服組」ではなく、弁護士を経て政治家となった人である。政治的な立場は根っからの共和党・保守派のようである。自らの意見をしっかりともち、それを外に向かって明確に(多分頑固に)主張できる人だったようだ。そんなスティムソンを民主党の大統領であるルーズベルトは党派を超えて国務長官に引き抜いている。ついでながら、この人は戦前に二度ほど京都を訪れたことがあるらしい。

 スティムソンはいうまでもなくマンハッタン計画に関して大統領に次ぐ決裁者である。彼は対日戦の帰趨は動かないものの、日本を降伏に追い込むまでには日本本土での地上戦が避けられず、膨大な数のアメリカ軍人の命が失われると想定していたようである(マッカーサーも同じような見解を出している)。しかし、その犠牲は原爆によって回避できるとも信じていたという。またその地位から、ヤルタにおける米ソの協定にそって、間もなくソ連が対日戦に参戦することも知っていた。
 さらに、戦後の世界を主導していくのは自国アメリカであり、それに対抗できる力を残しているのはソ連のみであることも見通していたはずだ。彼にとって対日戦へのソ連参加と同時期に原子爆弾を使用するにあたって、日本の国民感情の動向は熟慮すべき大きな問題であった。目標都市から京都を除くようにトルーマン大統領を説得した日の日記には次のような記述があるという。

 「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為(原爆投下)によって生ずるであろう残酷な事態のために、日本人と我々とを和解させることが戦後長期間にわたって不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)
 (京都への原爆投下は)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる」。

 よりによって京都という長い間日本の都として栄え、歴史的・文化的遺産が溢れている都市を破壊しつくしてしまったときに予想される日本人の感情が、戦争終了後の占領政策、戦後世界に対するアメリカの戦略にマイナスになることを恐れていたことがわかる。

 京都は目標都市から除外されたが、そののちも通常兵器による爆撃禁止の措置は続いたという。吉田氏は、これは軍部が京都への原爆投下をあきらめずに、次の機会のためにとっておこうとしたことを表しており、従って終戦の時期が実際より遅れて後にずれていた場合には、京都は無事でなかった可能性が高いといっている(既に投下準備ができていた二発に続く新たな原子爆弾が八月二十日頃には出来上がる予定であったという)。

 そうだろうか。
 京都を除外した論理からすれば、焼夷弾であろうとなんであろうと、京都のまちが灰燼に化すことを避けようとしたことは当然の帰結のように思えるのだが……。
  (つづく)

 (「随想を書く会」メンバー)

(2021.09.20)
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