【コラム】
『論語』のわき道(14)

謎のカミ

竹本 泰則

 夏の京都のまちに華やかさと賑わいを添える祇園祭の山鉾巡行だが、今年(令和2年)は中止だそうである。千年を超える長い歴史があるということだが、これまでも幾度か中止の憂き目にあっている。応仁の乱では30年あまり途絶え、また、たびたび起きた京都のまちの大火でも取り止めとなっている。山鉾が焼けてしまったりしたこともあったようだ。現代では、戦時の昭和18年から21年までの間は中断している。今回の中止はそれ以来のことだという。

 中止の理由は言うまでもないだろうが、新型コロナウィルス(COVID-19)感染拡大の影響である。祇園祭にはおよそ百万人の見物客が押し掛けるという話がネット上にあった。期間中の延べ人数とはいっても、だいぶ水増しされているような気もするが……。しかし4月の発表を聞いて、がっかりした人は多かったことだろう。
 ふと皮肉を感じた。
 祇園さんこそ、COVID-19をやっつけてくれるはずのカミさまではなかったか……。
 不本意な蟄居が続く中、祇園祭の周辺をネット散歩してみた。

 悪疫は古来より人々から恐れられてきた。
 古代中国では疫禍は厲鬼(れいき;疫病神)による仕業と考えられていた。孔子の時代を例にとると、この鬼を追い払うために儺(だ)という儀式が執り行われていた。
 儺は朝廷でも定期的に挙行され、そのための官吏(方相)までいた。儺のとき、くだんの役人は熊の毛皮をかぶり特別な衣裳を身につけて、手には矛と楯を携え大声をあげながら疫病神を追い払う仕草をする。これがわが国に伝わって追儺(ついな:おにやらい)の行事となり、近世以降は節分の豆まきにつながったという。

 『論語』には村で行われる儺のときの孔子の様子が書かれている。

  郷人の儺(だ)には、朝服(ちょうふく)して阼階(そかい)に立つ。
  ―村の人たちがおにやらいをするときは、朝廷の礼服をつけて東の階段に立つ―

 現代語訳は岩波文庫『論語』に拠っている。
 わざわざ礼服までを着込むのは、相応の礼を尽くすべき行事であったのか、それとも当の村人に対する敬意によるものだろうか。よくわからない。

 わが国では疫病の流行は、怨みを残して死んでいった人々の霊魂、つまり怨霊(おんりょう)による祟りだと考えた。そして、その怨霊を鎮めるために神仏の力を恃んだ。
 平安時代初期には咳逆(がいぎゃく)病と記録される病気の流行がたびたび起こり、多くの死者も出ている。咳(せき)を伴う病気らしく、現代のインフルエンザのような病気と想像される。普通の風邪であれば、いかに医術の未発達だった時代とはいえ、死者がゴロゴロ出るなどは考え難く、やはりウイルスの仕業だったのだろう。

 『日本三代実録』という歴史書に拠れば、貞観四年(862)と貞観五年(863)は多くの人が咳逆病を患い、死者の数も甚大であった。このため、朝廷は貞観五年五月二十日、神泉苑において怨霊を鎮めるための祭り・御霊会(ごりょうえ)を催している(記録にあらわれる初めての御霊会)。
 神泉苑は皇室の庭園(禁園)であった。二条城建築にともなって敷地の多くを失っているが、当時は現在の八倍ほどの広さであったという。当日は般若心経などの経がとなえられ、また歌舞や相撲なども行われている。門は開かれ一般の人々も参加していた。

 御霊会はその後、疫病が流行するたびに祇園社(八坂神社)、北野社、上御霊・下御霊の両社など各所で営まれ、百年余りを経た天禄元年(970)からは毎年行われるようになったらしい。この御霊会の催しが機縁となって祇園祭は生まれたという。
 ところで、御霊会が疫病発生の有無にかかわりなく毎年の行事になったということは、この催しの性格が変容していったことをあらわすものではなかろうか。はじめは朝廷による宗教的な行事であったものが、次第に民衆(といっても有力者、大店の旦那衆といった人々)が表に立つようになり、それにつれて「祈り」から娯楽的な色彩を帯びた「おまつり」へと転換していった、ということも考えられる。そこには経済的な事情も絡んでいた可能性もありそうだ。

 八坂神社は歴史も古く、いつできたのか、もともとはどんなカミを祀っていたのかなどに関して確かなことは分かっていないようだ。社号、祭神がそれなりに定まってくるのは鎌倉期くらいのようだが、それ以降明治維新前までは祇園感神院、祇園社という名称で呼ばれ、主祭神は牛頭天王(ごずてんのう)というカミであった。現代にあってはおよそなじみがない神名だが、江戸期までは大いに勢力があり各地に祀られている。しかし、このカミたるや、神仏いずれとも判じ難い上にその性格も混沌としている。
 そもそもは祇園精舎の守護神とされていたらしい。祇園精舎は『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声……」でもおなじみだが、仏教の開祖・釈尊とその弟子たちのために一人の長者が寄贈した古代インドの寺院である。しかし、インドをはじめ、わが国以外の国で牛頭天王を信仰の対象とした例はなく、どうやらこの国で考え出されたカミのようだ。

 一方、鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』の中には「備後国風土記逸文」として「蘇民将来(そみんしょうらい)」の伝承が残されているという。蘇民将来とはひとの名前である。どう考えてもこの国のひとには思えないが、それはともかく、八坂神社の境内摂社・疫神社はこの人を祀り、祇園祭のフィナーレはこの疫神社の夏越祭(なごしさい)である。人々は鳥居にしつらえられた茅の輪をくぐり「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符をいただく。
 逸話には武塔神(むとうしん。武塔天神とも)という疫神が登場し、蘇民将来がこのカミをもてなし感謝される話に併せて、武塔神みずからが自分は素戔嗚(すさのを)のカミであると明かしたことが記述されている。さらにこの武塔神は牛頭天王の別名ともされている(『伊呂波字類抄』;平安末期に成立)。つまりは、牛頭天王と疫神の武塔神と素戔嗚尊(すさのをのみこと)とは一体だということになる。

 明治維新が成って、政府は神道を純化し、延いてはその国教化を目指す(国教化は成就することはなかったが)。このため牛頭天王信仰は早々にその煽りを食うことになる。慶応四年三月十三日の太政官布告によって祭政一致が宣言され、全国の神社は復活した神祇官に附属することとなった。その布告から十五日後に発せられた神祇官事務局達は「中古以来なにがし権現、牛頭天王といった類の仏教語を神号に使っている場合は、詳細な由緒などの書類を添えて急ぎ申し出よ。追って沙汰をする」というものであった。
 これにより祇園感神院は仏教寺院として廃寺となり、素戔嗚尊を主祭神とする八坂神社が生まれる。

 しかし同神社のホームページを見ても祭神と疫病除けの祇園祭とのむすびつきを説明する記述は見当たらない。記紀神話においても素戔嗚尊が疫神につながるような要素は感じられない。
 疫病除けを担う祭神が不在だからCOVID-19がのさばったか……。

 冗談はともかく、牛頭天王という謎のカミを追いかける中で、日本人のいい加減さ――そういって悪ければ、融通無礙さが浮かび上がってくる。社寺の側にあれば自らの存続・発展にプラスになるものは何であれ祀り上げる、あるいは味方にする。世俗の人々は現世のご利益をひたすら求め、カミだホトケだなどと頓着をしない。戯画的にいえばそんな感がある。
 そう感じながらも、そのご都合主義をあげつらおうという気がこちらにも湧いてこない。
 唯一絶対のGODをいただく人々には理解しがたい世界だろうなと思う。

 (「随想を書く会」メンバー)

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