追悼:岡田 充氏

 岡田充さんの訃報を受けて 
福岡 愛子 
 
 メールマガジン「オルタ」および「オルタ広場」と私とを結びつけて下さった方々が、加藤宣幸さん、仲井富さん、そしてまた岡田充さんと亡くなり、私自身の老いも相俟って、寂しさを禁じえません。
 ただ岡田充さんとの御縁には特別なものがありました。
 私が50歳を過ぎてから社会学徒となり、中国の文化大革命や国交正常化前の日中関係をテーマとするうちに、1960年代に「斉了(ちいら)会」という学生訪中団の運動があったことを知り、関係者の方々に聞き取り調査を行ったことがきっかけでした。

 岡田さんは、1967年に慶應大学入学後、学生運動に参加し、斉了会の第三次・第四次訪中団の一員として文革中の中国を訪れていました。新聞やテレビの文革報道に関心をもつようになり「造反有理」に共鳴した、という動機は、他の斉了会メンバーや当時の新左翼学生一般に共通する心情だったと思われます。
 しかし岡田さんたち慶應大生に特徴的だったかもしれない中国の第一印象は、「貧しさ」でした。その実感は中国に対する差別意識や侮蔑とは異質のもので、むしろ、中国の貧しさと若者の純真さに感動した自分たちのナイーブさを、恥じらうような語り方が印象的でした。

 岡田さんは、1960年代後半の時代状況に言及しながら、「プチブル坊ちゃん嬢ちゃんの、豊かさへの恥ずかしさ」だったと振り返りました。経済的豊かさが、敗戦国と戦勝国で逆転し、しかも豊かになった敗戦国・日本は賠償すらしない――そのような罪悪感からくる戸惑いが感じられました。戦後世代ならではの戦争責任と加害性の自覚だったに違いありません。
 だからこそ、彼/彼女らの多くは帰国後の日本で、中国への否定的・懐疑的反応に接するたびに、中国身びいき的な役割を演じることになります。文革についても、かなり早い時期に否定的な事実を認知しながら、「反中国」的言動に走ることを自制する傾向が顕著でした。

 この問題は、大学卒業後ジャーナリストの道に進んだ岡田さんにとっては、より複雑な意味をもっていたのではないかと察せられます。中国は「メシのタネになった」という言い方をされましたが、香港や台湾への赴任も経験する一方、中国とは距離をとり、斉了会の同窓会的な集まりからも遠ざかっていたそうです。

 しかしあらためて中国問題や日中関係に取り組み、「両岸関係」という観点から精力的な言論活動を展開されたのは、何よりも日本の政治の現実とメディア状況を耐え難く思われたからでしょう。日本側の衰退ぶりを問題化するどころか中国を敵視し危機感を煽ることで、本当の危機的状況が見えなくされていることを、岡田さんは「領土ナショナリズム」や「日本ボメ」といった問題意識によって批判し続けました。

 岡田さんの論考からは、日本にいる限り日・米一辺倒の枠組みに規定された見方しかできていないことを自覚し広い視野で世界情勢をとらえることが、どれだけ重要かを教えられてきた気がします。その視野と姿勢を保つために必要な情報の質と量を、今後どこに求めればよいのか、心もとない限りです。でも、岡田さんが自らの病とも闘いながら最後まで健筆を振るわれた痛切な思いは、しっかりと受けとめたいと思います。

 最近お会いした元斉了会メンバーの方からは、近年の岡田さんは斉了会の集まりにも参加されて、御病気のために飲食は共にできなくともお元気な姿だけは見せてくれていた、というお話を聞くことができました。

 執筆活動だけでなく、集会や講演会でのご活躍も特筆すべきものがありました。2012年に日中関係が悪化したことを憂慮して、翌2013年7月7日に「平和の海を求めて――東アジアと領土問題」と題する国際シンポジウムが東京で開催されたとき、中国や韓国を含む関係地域の研究者・ジャーナリストが多数集うことができたのは、岡田さんの企画・運営のご尽力によるところ大でした。

 岡田さんのご紹介で、私はこのシンポジウムの報告記事を書かせていただき、加藤宣幸さんと「オルタ」に出会うことができたのでした。以来、大した貢献もできないまま年月だけが過ぎてしまいましたが、早い時期にウェブ媒体を選択された先輩諸氏への敬意を新たにし、加藤さん亡き後も変らぬ寄稿を続けておられる執筆陣の皆さまを頼もしく思いながら、「オルタ広場」の末永い継続をお祈りしております。
 
 国際シンポ『平和の海を求めて―東アジアと領土問題』 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」 (alter-magazine.jp)

2024年4月

(2024.5.20)
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