【北から南から】フランス便り(16)

連続テロに揺れるフランス

鈴木 宏昌


 新年早々にパリで起きたイスラム過激派による風刺週刊誌 Charlie Hebdo の襲撃とユダヤ人向けのスーパーマーケットでの人質事件という連続テロ事件は、1ヶ月以上経た現在でもフランスに大きなショックを与えている。まず、そのテロのやり方がすさまじい。イスラムの教祖モハメットの風刺画を再三掲載した Charlie がイスラム教を冒涜したとして、イスラム過激派の兄弟は、その編集会議に乗り込み、白昼のパリの中心部で、自動小銃を5分間乱射し、その場にいた編集委員や警備の警察官など12人を殺害した後、車で逃走した。

 この Charlie は、挑発的なマンガで有名ではあったが、読者は非常に限られていた(私自身読んだ記憶はない)。しかしこの犠牲者の中には、Cabu、Wolinski といった著名な漫画家(他の新聞や雑誌などに多く寄稿していた)が含まれていた。犯人はアルジェリア系の過激派で、シリヤやイェーメンで軍事訓練を受けた模様で、諜報部がリストアップをしていたが、このような大規模なテロを行なうとは考えられていなかった。

 その後、犯人2人は、大量の兵器を積んだ車でパリを脱出するが、警官に包囲され、郊外の印刷所に人質をとって立てこもる。同じ日に、3人目の犯人(アフリカ系の過激派)は、警察官を撃った後、Charlie から少し離れたところでユダヤ人向けのスーパーを襲撃、人質を取り、立てこもり、ここでも4人の犠牲者を出すことになった。この逃走劇と人質事件は、テレビでほぼ生中継されたので、インパクトも大きかった。

 結果的には、3人の犯人は特殊部隊により殺害され、テロ事件そのものには終止符が打たれるが、あまりにもその衝撃は大きい。フランスが長い伝統と自負してきた言論の自由をイスラム過激派は銃で抹殺しようとしていると受け止められ、多くの市民(フランス全国で、400万人近くが参加したといわれる)が暗殺された新聞記者の追悼行進を行なった。

 そこで、有名になった表現が、「私は Charlie である」だった。私の研究所の友人たちは、ほとんどがパリ中心部の行進に参加した(人が多く、本当にのろのろ歩きだったという)。
 この情緒的な反応を別にして、この事件は、深刻な社会問題の現実をフランスに突きつけることになった。まず、犯人の3人が、アルジェリア系およびアフリカ系とはいえ、フランスで教育を受けた純然たるフランス人であったことが挙げられる。外敵ならば、軍隊の投入や水際作戦も可能だが、反社会的な敵が身内であるので、特効薬を簡単に見出すことはできない。シリヤの内戦に参加しているフランス人は数百人いるといわれているので、その対策ですら容易ではない。

 また、3人の犯人は、何回も収監されていたが、過激になったのが刑務所の中だったこともショックである。フランスは、犯罪の増加、とくに麻薬がらみの犯罪で収監人口が急増し、老朽化した刑務所は前から問題になっていた。

 監視体制が不十分な上に、収監されている人の多数はイスラム系のイミグレ(外国出身者とその子孫を指し、その大半はフランス国籍を持つ;歴史的に旧植民地のアルジェリア、モロッコ出身者などが多いが、最近はアフリカ出身の黒人が増えている)なので、犯人たちは、そこで、イスラム過激派の影響を受けたと考えられている。罪をあがなうべきところが、逆に、急進的な過激派の宣教場所となっている事実も明らかになった。限られた予算しかない法務省は難しい問題を突きつけられることになった。

 さらに深刻なのは、フランス国内のイスラム社会(フランスでは、イスラム過激派と一般的なイスラム教徒との混同を避けるために、イスラム系の人をムスリムと呼んでいる)とフランス社会のきしみである。犯人たちがイスラム系過激派なので、イスラム教徒の大多数は穏健な信者とは言っても、どうしてもイスラム社会が冷たい目で見られる傾向が強くなっている。

 フランスには、イスラム系の人口が、大体 500万人前後いると推計され(総人口の約8%、ただし、政治的理由で、国は宗教別の人口統計を取っていない)、イスラム教は間違いなくフランス第2の宗教である。しかも、イスラム教徒の多くは、信仰心が厚く、イスラムの風習や戒律を守る人が多い。この点、結婚しないで同棲する若い世代のフランス人に象徴されるように、フランス人一般は宗教心が薄らいでいる(カトリックの教会に行く人は、多く見積もっても1千万人くらいと推計されている)。

 そのため、イスラム教徒の風習・戒律とフランスの伝統と風習と衝突する機会が増えている(学校でのスカーフの着用、アラルと呼ばれるアラブ系の肉屋の進出など)。いかに、イスラム系社会をフランスの文化や風習と融合させるのかは、イミグレの世代が、2世、3世になり、フランス社会からの疎外を感じる若者が多くなっているだけに、ますます難しい問題となっている。

 これまで、多くの政治家は、曖昧な表現でイスラム社会という表現を避けてきたが、今回のテロは、いやでもイスラム教との共生の問題を浮かびあがらせた。昨年のヨーロッパ議会選挙で、第一党となった極右のメリーヌ・ルペン女史が率いるFNは、移民排斥と反EUで支持層を拡大したが、今後もイスラム系住民の言動に反感を持つ人たちの受け皿になる危険は大きい(最近の世論調査では、2017年の大統領選挙で、彼女が決選投票に残る可能性が強いという結果が出ている)。

 しかし、より根本的な問題は、フランス社会の中で、貧富の格差が拡大し、富める人の住む地区と貧しい人の住む地区(郊外)が実際的に区別され、分断された社会を形成していることにある。多くの外国出身者が、この貧しい地域に集住し、ゲトー化している。そこでは、慢性的な失業者が多く、麻薬取引などが日常的に行なわれている。

 今回のテロ事件の犯人は、いずれも、貧しい郊外で育ち、フランス社会から疎外された人たちの典型である。同じような疎外感を持つイミグレあるいはその子孫は、何万あるいは何十万という単位になると思われるので、大変な社会問題である。このように、これまで、フランスの指導者が、見て見ぬ振りをしてきた根深い問題を今回の事件は一挙に明るみに出した。

 山積みされた問題のうち、紙幅の許す範囲で、今回のテロ事件の根底にある「貧しい郊外」の問題を取り上げてみたい。

●「貧しい郊外」の現実

 知っている人も多いと思うが、パリの街は、裕福な人が多く住む地域(区)と庶民が住む地域とはっきりと分かれている。19世紀の終わり頃からこの区分けは変わらず、大体、西の地域に富裕な階層が集中し(6区、7区、16区、17区)、北および東地域は中産階級あるいは所得の低い人が多く住む。

 16区や Neuilly-sur-Seine などの西地域には、見るからに高級そうなマンションが立ち並び、広い並木道も多く、緑が溢れている。その一方、北や東地域に行くと昔ながらの路地などが残り、外国出身者が集住している地区も多い(中国人街、インド人街、アフリカ系の黒人街など)。その昔、パリ市内にも見られたスラム街は再開発の結果、新しい住宅・オフィス街に変身している。パリを取り巻く郊外も大体この区分を延長する。

 セーヌ川下流の西側地域には、富裕層の邸宅が集中し、インフラも整っている。これに対し、北や東の郊外の中心部は、建物が貧弱で、落書きが放置されていることが多く、道幅も狭く、なんとなくすさんだ感じがする。外国出身のイミグレが集中するのは、このような地域となる。では、なぜ一定の郊外にイミグレや貧困層が集中するのだろうか?

 その最大の理由は、パリや大都市の中心部の不動産価格が高騰し、貧しい人たちにはとても手が出ないことにある。パリの不動産は、日本と異なり、築年が何年経てもその価格が落ちない。建築可能な(高さ制限などが厳しい)土地が少なく、需要は増加するので、今では、中産階級の人ですら、パリ市内に家(マンション)を買うことは難しくなっている。

 したがって、移民労働者は、家賃が低い郊外へ行かざるを得ない。もう一つの要因は、1960−1970年代に首都の美観を保つという名目で、パリ市内のスラム街を再開発し、その住民を郊外に建てられた低所得者用の集団住宅に収容したことにある。フランスは、第二次大戦後、これという住宅政策がなかった(この点、ドイツとは対照的)が、移民などが急増する1960年代になると、大都市の中にスラム街が目立つようになる。

 そこで、政府や自治体は、住宅事情を緩和するために、大規模な低所得者向けの住宅建設を本格化させた。コストを抑えるために、高層住宅群を数多く郊外の町に建設した。これらの郊外の低所得者用の集合住宅が、その老朽化とともに、イミグレが集中する地区となり、現在の治安の悪い地域につながる。

 一例を挙げてみよう。私がいま住んでいる町のとなりに、Champigny-sur-Marne という8万人の町がある。昔から労働者の町で、左翼の牙城でもある(その昔、有名な共産党書記長だった G.Marchais の地盤であった)。町自体は、平凡なパリ近郊の町だが、その一角に1万人が住む大きな高層住宅地域がある。1962年にパリ市が、荒地であった土地を購入、そこに低所得者向けの高層アパート群を建設した。

 そして、パリ市内で13区のスラム街を再開発したときに、そこの住民(多くが移民労働者とその家族)をこのシャンピニーに移住させた。現在、このアパート群の住人はほとんどがイミグレ(マグレブ出身者あるいはアフリカ系黒人)で、失業率も高い。この区域は、治安が極端に悪く、路線バスの運転手が襲われることもときどき起こっている。

 低所得者向けの住宅は、メインテナンスが悪く、高層建築なのに、エレベーターの多くが動かないという。シャンピニーの町の中でも、孤立した危ない地区となっている。同様な低所得者用の老朽アパート群は、パリの北や東の近郊に数多く存在し、結局、社会から疎外された人たちを作り出している。

●2005年のイミグレの暴動

 ところで、2005年の秋に、貧しい郊外の若者のイミグレが暴動を起こし、約10日間 毎夜のごとく自動車が炎上したのを憶えておられるだろうか? 典型的なパリの北郊外の町、クリッシー・スー・ボアにおいて、警察官に追われたアラブ系およびアフリカ系の少年が、逃げ場を失い、変電所の中に入り、感電死した事件がきっかけとなった。

 イミグレ社会の中では、インターネット上、警官が3人のイミグレを殺したという噂が流れ、フランス全土に暴動は波及した。若いイミグレたち(外国人労働者の2世、3世が多い)が毎夜のごとく警官隊と衝突し、一時は市街戦の様相を示した。フランス全土で、戒厳令が敷かれ、緊張が収まるまで、10日間を要し、結局、多くの負傷者、逮捕者を出すとともに、約1万台の自動車が炎上した(このときの内務大臣がサルコジ前大統領)。

 郊外の多くの町では、非行に走り易いイミグレの若年層と警察は、緊張関係が常態化していたので、2人の感電死は暴動の引き金となった訳である。2005年のイミグレの暴動は、その規模の大きさからフランスにかなりのショックを与えた。

 では、この暴動の後、なにか抜本的な対策がとられたのだろうか? 確かに、「敏感な」(危険な)地域に重点的な予算の配分を行ない、警察官を増やしたり、若者向けのカウンセラーを採用したり、教員をこれらの地区の学校で増やしたりという努力はされた。しかしそれは、所詮、対処療法でしかなく、抜本的な対策はとられていない。

 貧しい郊外は、交通の便が悪く、働くためにパリ市内に通勤することも困難である(郊外からパリの中心部に乗り入れる地下鉄RERは、路線の数が少なく、電車や設備の老朽化が目立っている。郊外人口の増加にも係わらず、ここ30年間、新しい路線の開設はない)。イミグレの2世、3世は、教育を受けたとしても、その名前やしゃべり方などで日ごろ差別の対象になっていると感じている。

 とくに、学歴が低くなると、今のフランスでは、安定した職を見つけることは困難である。国も鉄道公団も貧しい郊外には社会的な投資をしてこなかった。その郊外に住む多くの人たちが、貧しいが故に、フランス社会から疎外されていると感じるのは、心情的に理解できる。

 今回のテロ事件の犯人は、まさしく、このような貧しい郊外で疎外感を持った3人(共謀者がまだいる可能性も高い)であった。格差の大きいフランスにおいて、多くのイミグレの2世、3世は、貧しく、汚い郊外に育ち、絶えず外国出身者として、差別されていると感じている。この疎外された人の一部がイスラム過激派になったり、あるいは麻薬関連の犯罪に手を出す。どうしたら、貧しい郊外の生活、学校からの脱落、失業の繰り返し、西欧文化への反発という負の連鎖をどう断ち切れるのだろうか?

 フランスの基本理念は、自由、平等、友愛だが、個人の自由のみが先行し、平等や友愛は影が薄い。貧しい郊外の問題は、どう平等や友愛の理念を実現するかの問題でもある。今回の連続テロ事件は、フランス社会に深刻な現実を突きつけたように思われる。
 2015年2月15日 パリ郊外にて

 (筆者は早稲田大学名誉教授)


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