【アフリカ大湖地域の雑草たち】(42)

遊牧民が木を植えた

大賀 敏子

 22年の歴史
 
 ポータブル住居
 

画像の説明

 マサイはケニア南部・タンザニア北部一帯の先住民で、遊牧民だ。牛、ヤギ、ロバなどの家畜を家族のように大切にし、その健康と安全を守り、繁殖させることに全力を傾ける。牧草と水がある場所に住むが、枯れれば別の場所に移動するため、彼らの住居は簡素だ。土地は財産だと考え、定住する農耕民とは異なる(写真)。
 簡素とは、言い換えれば、ポータブルだ。建てやすく壊しやすく、運びやすく、また建て直しやすい。屋根と壁はあるが床はなく、煮炊き、睡眠のスペースはあるが、トイレはない。
 こんな家で宿泊するために、毎年、日本の大学生たちがケニアにやってくる。「ケニア社会林業スタディツアー」の参加者たちだ。今年も9月初頭、「ケニアの方が涼しい、日本は暑くて」と言いながら、大学生(若い社会人を含む)と引率者の15人のグループが来た。
 今年の来訪は、岡山理科大学がケニア森林研究所(KEFRI(ケフリ)環境・天然資源省所管)と協力して企画・実施したものだが、先立つ歴史がある。22年前の2002年に始まり、コロナ禍などの中断を経て、日本サイドの主催大学を入れ替えながら連綿と続いてきた。来るたびに、少なくとも3日は必ずマサイ宅に泊まる。
 
 さまざまなプログラム
 
 全行程は10日間ほどで、さまざまな活動が満載だ。2024年プログラムは、次のとおり。
 (1) マサイの村で植林、社会調査
 (2) マサイ宅ホームステイ
 (3) ケニア・ワイルドライフ・サービス研究・研修機関(KWSRTI)訪問
 (4) マサイ・マラ国立保護区訪問
 (5) キベラ・スラム訪問
 (6) 国連ナイロビ本部見学(註1)
 (7) 大使館・JICA表敬訪問(註2)

 (1)と(2)のマサイ村は、リフトバレー州カジアド県エランガタウワスにある。道が悪いのでナイロビからほぼ一日のドライブだ(地図(首都ナイロビとカジアド県の位置)参照)。
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 (6)と(7)のUN見学、大使館・JICA訪問は滞在最終日の恒例で、将来のキャリアビジョンにつながるだろう。この日ばかりは、みな襟のついたパリッとしたシャツを着てくる。筆者との係わりは(6)である。
 
 (註1)事前に担当部局に申し込めば、誰でも、広い敷地を歩いたり、国際会議場を見学したりして過ごすことができる。Visitors Service Nairobi | United Nations
 (註2)2023年ツアーの在ケニア日本大使表敬訪問については、https://www.ke.emb-japan.go.jp/itpr_ja/11_000001_01039.html
 
 ケニアと林業
 
 サハラ砂漠ほど有名ではないかもしれないが、ケニアは国土の8割が乾燥・半乾燥で、森林面積はわずか5パーセントほど、しかも、減少してきている。
 いくら伐採しても森はびくともしなかった時代は過ぎた。植林しなければ森はなくなってしまうし、植えても育てなければ枯れてしまう。その一方、木がうまく育てば、地球全体の気候変動にどう作用するかは分からなくても、森のおかげで土地能力が回復し、燃料、飼料、食糧が手に入りやすくなることは、数年で目に見えるようになる。そうすれば、もっと植林したくなる。ここに意識変革と技術移転の意味があり、日本のODAは、森林分野に1985年から入っている。
 なお、社会林業とは、木材生産を目的とした産業的林業とは対照的に、住民の生活の安定と向上を目的とした、住民自身による参加型の植林、森林管理、森林利用を指す。
 
 なぜマサイ
 
 マサイには植林はおろか、そもそも定住、農耕、雇用の習慣も発想もない。ところが、都市化の進展、人口増などで、移動さえ続けていればいくらでもあると思っていた牧草地が足りなくなってきた。加えて、干ばつが事態に拍車をかけた。かつては10年に一度ほどだったが、2000年以降は10年に3度と頻度を増した。牧草が育たないと、家畜が死ぬ、家畜が死ぬと人々は日々の食事にも困窮する。他方、政府―独立前の植民地政府も、独立後のケニア政府も―は、遊牧民の定住を推奨していた。課税、統治管理のうえで好都合だからだ。
 定住したいわけではないが、せざるを得なくなった。かつては現金収入なしでも生きていけたし、雇われるなど考えたこともなかったが、そうでもしなければ生きてゆけなくなってきた。こうして、伝統的な生活スタイルは否が応でも多様化を迫られた。ツアーガイド、密猟監視員、運転手として働いたり、ホテルで雇われたり、観光客に土産物を売ったり。援助機関に教えられるままに農耕を始めてみたり、そして、薦められるままに木を植えたり。
 日本の若者がマサイ宅に泊まるとはどういうことだろう。マサイは、かたくななほど伝統に執着し、植林からもっとも遠いところにいた。他方日本の若者は、シャワー付きトイレで育ち、停電も断水も、話に聞くことはあってもまさか体験したことはない、その対極のもっとも遠いところにいた。それは、もっとも遠いところにいた者同士が、あえて結びつきにチャレンジしたと言えるかもしれない。
 
 影武者
 
 前述のようにツアーは2002年に始まった。2016年までは、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)と富山大学人間発達科学部などが主催し、毎年必ず夏休みの学生たちを連れてきた。ところが2017年から2022年の6年間は中断してしまった。ケニアの政治情勢に伴う治安悪化とコロナ禍のためだ。これを2023年から岡山理科大学アクティブラーナーズコースが再開し2024年に至る。
 こんなに息の長い活動であって、しかも、6年もブランクがあれば、忘れられ、あきらめられてしまうのが普通なのに、再開した―奇跡と言っていい―のは、有名大学の名前が並ぶので気づきにくいが、影武者たちがいたからだ。
 その親分は仲村正彦さんだ。JICA専門家としてアフリカに係わった後、早稲田大学に所属してプロジェクトを育ててきた。その仲村さんが年齢を重ね定年を間近にしたとき、バトンを引き継いだのが岡山理科大学の中山紘之さんだ。10年前に仲村さんの引率で来た彼が、こんどは親分になった。
 大学生の国際協力、現場体験、キャリアビジョンなど、美辞麗句で語られる総論には誰も反対しない。しかしこれを本当に実践するために、これらの教育機関幹部の理解と賛同を得ていくのは、並大抵のハードルではなかっただろう。治安、衛生、政情など数えきれないほどの懸念材料を払しょくして、学生有志を発掘するのは忍耐を要したことだろう。加えて昨今の円安で、海外旅行はますます遠のいてしまった。
 一方、ケニアの受け入れ機関はずっとKEFRIだ。ここにも面倒を見続けてきてくれたケニア人がいる。その彼も定年になり、いまは若い後継者が助けている。
 22年は、一つの歴史だ。
 
 興味をもつこと
 
 「若い時の苦労は買ってでもせよ」とは言うけれど、マサイ宅の宿泊体験があるからと言って、「だから何なのだ」と言う人もいるだろう。キャリアアップに直接つながるわけではないし、難行苦行のためなら、わざわざアフリカに行くまでもない、と。
 これを書くために「マサイ」「マニヤッタ(マサイ集落)」でインターネットサーチしたら、ヒットしたのは旅行関連のサイトだった。「ナイロビ発マサイ村半日ツアー(送迎付き)」「ケニア観光におすすめの名所&人気のスポットランキング―マサイの村を訪問して彼らの伝統や生活を体験する文化ツアー」「動物王国ケニアでマサイ族の原始生活を見学」など。いまや「観光名所」になっているのかと、少なからず驚いた。ならばなおさら、なぜわざわざ高等教育機関が音頭を取ってまでマサイ宅に泊まるのか。
 その答えは、上記の影武者たちに教えてもらうのが最善だろうが、筆者はこう思う。
 世界のどこか、自分とは対極の、もっとも遠いところにも人はいる。そのような人たちについて、興味を持つこと、そのこと自体が大事な第一歩なのではないのか。その興味を追求した結果、相手のことを好きになれるかどうか、良い関係をつくれたかどうかなどといったことは問題ではない。およそ興味がないところには、関係も生まれないからだ。
 
 歴史の果実
 
 2023年に来たグループは、マサイに水タンクをプレゼントした。10000リットルの大型タンクで、日本の国旗と「DONATED BY KENYA-JAPAN Social Forestry Study Tour-2023(ケニアー日本社会林業スタディツアー2023年寄贈)」とある。
 マサイにかぎらぬが、生活水を確保できなければ生活は成り立たぬ。逆に言えば、小川なり井戸なり何らかの水源があれば、砂漠の真ん中でも人は生きていける。だが、その水源が遠くて、水汲みのために一日何時間もかかるようでは、勉強、就業、学習などほかの大事なことができない。すると地域の底上げを阻むことにもなる。
 とはいえ、井戸を掘るのは高額だし、各家に蛇口をつける必要もない。ならば水タンクを置いていこうと、これまでの参加者たちの工夫と募金とで実現したものだ。22年の歩みが結んだ果実の一つだ。
 そして、結んだ実はもう一つある。あの頑固なマサイが、自らすすんで木を植え始めたとのことである。さて、一本一本がきちんと育ち、一帯を緑で覆う森になるのだろうか。待ち遠しい思いだ。
 
 参考:驚くほどの握力
 
 マサイ村訪問
 
 このグループの活動とは別に、筆者も20年ほど前、マサイ宅でお茶をごちそうになったことがある。参考にその様子を追記する。
 場所は、世界的な観光地であるアンボセリ国立公園の近く、同公園に向かう幹線道路をそれ、四駆で悪路を5分ほど進んだところにある村だ。当時人口5000人ほどで、このうち英語でコミュニケーションできるのは10人くらいということだった。いまはもっと教育が浸透していることだろう。
 家の造りは、枝を組んだ骨格を牛糞と泥で塗り固めたものだ。広さは3、4メートル四方、天井の高さは女性の背丈くらい。このような家数軒が、夜間家畜が休む広場をぐるりと囲んで建ち、さらにその外側を、棘のある草木などで作った柵が覆う。これが一世帯で、マニヤッタと呼ばれる。
 
 牛糞でひんやり
 
 牛糞づくりの家は、昼は涼しく夜は暖かい。頭をぶつけないよう腰を曲げて出入り口から入ると、ひんやりして、灼熱の太陽が照り付ける屋外がうそのようだ。はじめは真っ暗で何も見えない。目が慣れてきて見えたのは、壁にある手のひらサイズの穴、つまり、明りと換気のための窓、煮炊きのための地面の仕切り、つまり、囲炉裏というかコンロ、丸太(つまり椅子)、母親、子供それぞれのスペース(つまり寝床)のほか、鍋、食器、洗面器、水を入れたタンク(10~20リットルほど)、壁からつるされたガラス瓶(なかには照明用の燃料)など。
 一般の都市住宅にあってマサイにないものは、電気、流水が出てくる蛇口、バス、トイレ。マサイにはあるが都市生活者にないのは、早寝早起きの習慣と団らんか。
 
 ミルクティーをもっと甘くして
 
 もてなしてくれた女主人は、三児の母だと言うが10代の少女にしか見えなかった。一言も話さず、微笑みもせず、火をおこしてミルクを沸かし、一つかみの紅茶と砂糖を放り込んでミルクティーを作ってくれた。紅茶も砂糖も普段は口にしない、お金を払って買ってきたものだ。一方、ミルクだけは大鍋にたっぷりあり、それも表面に黄色いバターが浮いている、自然乳だ。
 ミルクティーをすすめる前に、カップ(アルミ製)を洗ってくれた。洗面器からごく少量の水をすくい取り、内側をくいくいと手でこする。洗うと言うより、水をこすりつけるような動作だ。それほど水が貴重だからだ。
 「もっと甘くして」と頼んだら、隣家に砂糖を分けてもらいに行ってしまった。入れてくれた一つかみは最後のストックだったようだ。
 
 主食は牛の鮮血だったが
 
 前夜何を食べたか尋ねたら、初めて口を開き、スワヒリ語で「ミルクとウガリ(トウモロコシを粉にして熱湯でこねたもの)」とのこと。ウガリはケニアの主食だが、遊牧民の伝統食ではない。援助機関や学校がしきりと農耕を教えるので、食べるようになった。干ばつのたびに家畜が死に、家畜が死ぬたびに困窮し援助食糧に頼らざるを得なくなる、そんなサイクルを打破するためだ。
 マサイの伝統食は牛の鮮血とミルクだ。鮮血は栄養価が高いが、生臭いうえに酸味がある、つまりおいしくない(らしい)。いったん慣れてしまうと、トウモロコシの方が食べやすい。
 マニヤッタ全体にバス・トイレの設備はなかったが、かと言って、ハエがたかる場所も見当たらなかった。シンプルな生活スタイルのため、そもそも廃棄物、排せつ物が、圧倒的に少ないからだ。食事内容が変わるにつれ、これからは対応が必要だろう。
 
 一頭一頭に名前がある
 
 英語を話す人に、困っていることは何かと尋ねた。まず何より生活水の確保、次に頻発する干ばつ、そして学費などを用立てるためのキャッシュの工面とのこと。援助がもらえるなら、ぜひ井戸を掘ってほしいと言う。
 おりしも、木の杖を手に、数十頭の牛を追う少年が通りかかった。尋ねると「あれが僕の牛たちで、追っているのは弟」とのこと。一頭一頭名前があると誇らしげだった。
 定住化がおし進められ、現金収入を得る者が増えるものの、昔ながらの放牧も混在し、かつ、まだ観光名所化はしていない、筆者の訪問は、そのいわば最後のチャンスだったのかもしれない。
 このとき写真を撮らなかったのはこのためもある。誰かの日常生活に好奇心でカメラを向ける気になれなかった。
 
 イケメンの14歳
 
 えっ、聞かなければよかった。このハンサムで精悍な青年が、まだ14歳で小学校に通っているとは(当時小学校は8年制)。
 別のマニャッタでのことだ。西洋式衣服(タンクトップとショーツ)の上に赤い布を覆い、足には古タイヤで作ったサンダル、手には杖だ。マサイの男は子供でも杖を持っている。
 最大の問題は水がないこと、一昨年の旱魃はひどく牛が死に、今は「たったの」20頭しかいない。結婚するには少なくとも10頭の花嫁料を相手の父親に払う必要があり、年上の者たちが結婚できずにいる、とのこと。「牛の死」「花嫁料」「結婚できない」などは小学生の話題とは思えぬが、大人たちがいつも繰り返しているのだろう。
 一緒にマニヤッタを歩いた。牛を囲う広場、薪を積んだ場所など。やはりトイレはない。住居に入って真っ暗で何も見えないとき、マニヤッタの柵を乗り越えるとき、彼が「こっちだよ」と手を引いてくれた。それは驚くほどの握力だった。
 「あれがボクの小学校だよ」と指し示す丘の上の建物は、村から徒歩で30分くらいだろうか。後ろには、キリマンジャロの山すそが見える。朝ならほぼ毎日山頂が臨めるとのことだ。「お母さんは無学だけれど賢い。ビーズのアクセサリーを売って、学費を作ってくれている」と尋ねもしないのに話す。卒業まであと1年なのに、学費のめどが立っていないと言う。
 西日が照らす広場で別れた。学校で覚えた言い回しなのだろう、「God bless you」と手を握ってくる。またあの力強くて暖かい手だ
 
 (註3)写真、地図はいずれもウィキペディアから転写。
 
 (ナイロビ在住)
(2024.11.20)
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