横丁茶話

配属将校のことなど

                       西村 徹


●不機嫌な中佐
 豊間根龍兒さんからお題を頂戴したような感じで、今回は配属将校のことなど書いてみようと思う。配属将校というのは、教師の人事とは無関係に、軍から直接、いきなり現役の陸軍将校が、まさに天下ってくるものだった。水産学校など海軍の配属将校でもよさそうなものだし、商船学校や高等商船学校を卒業すると予備役の海軍籍に編入されたはずで、その辺はどうなっていたのか、とにかく配属将校は陸軍が独占していた。軍の都合で、突然人が変わった。中学に入ったときの配属将校が誰だったか思い出せない。辞める挨拶を見ただけかもしれない。

 替わって赴任してきたのが、前任者に比べて階級の高い中佐だった。中佐などという金筋四本は、伊賀国の、少なくとも阿山郡では、府中村の村長をしている、私の友人のオヤジが獣医中佐なのと、小田村に退役の歩兵大佐が隠居しているぐらいで、軍服を着た中佐の実物など見たことがなかったから吃驚だった。その中佐には助手の伍長が文字通りのカバン持ちで付いていた。牛蒡剣を下げ、脛にゲートル巻いて、右手は敬礼用に空けていなければならないから常に左手に中佐のカバンを持っていた。高校の友人に、乙幹の軍曹として広島の第二総軍司令部で畑俊六元帥の助手だったのがいた。元帥は爺さんだから助手がいてもやむをえまいが、中佐に伍長が付きっきりとは大仰だ。

 伍長は間もなく軍曹になった。軍曹になっても、歩兵だからサーベルでなくて牛蒡剣のままだった。サーベル吊るしてカバン持ちは具合が悪かったろう。どこに住んでいたのだろうか。たぶん旅館だろう。中佐は上等の旅館で、伍長は商人宿だったろうか。織田信長における木下藤吉郎のような、伍長は中佐の草履取りだった。今考えればたかが中佐だ。たかが中佐ひとりのために下士官ひとりを、まるまる税金を使ってかしずかせていたとは。驚くべき国費の無駄だ。

 中佐は常に不機嫌であった。くすんだ灰色の顔で、病身だとも言われていた。年恰好から見て、中学の配属将校という地位は左遷されたのに違いないとも言われた。朝礼で生徒に新任の挨拶のとき、開口一番「ふらふらせずにこっち向け」と言い放った。ローティーンの少年には、不動の姿勢や整列が兵隊並みに定規を当てたようには行かないのが気に食わないらしかった。それにしても十四前後のコドモの前で、自分の不遇をあれほど露骨に顔に出すとは。よくよく卑小な人物だったに違いない。軍の退廃をこの目で見た最初の経験だったように思う。

●バカ少・のちのバカ中
 不機嫌中佐は長くはいなかった。次に来たのはガタ落ちして少尉だった。少尉が生徒を殴るのを最初に見たのは着任間もないころだったと思う。朝礼で最後尾の、よそ見かなにかしたらしい大柄な五年生を呼び出し、駆け足で石段を上ったところを殴った。怒るとか興奮するとかでなしに両手で左右の頬を素早く叩いた。音は派手によく鳴った。神主の柏手と同じく、よく鳴るコツでもあるのだろうか。中佐の場合同様「軍をおそれよ」という、これも一種の示威行為だったと思う。先制攻撃と奇襲は日本軍全体に浸透した伝統芸であったらしい。みせしめの公開処刑というわけだ。(*)衆人環視の中での凌辱は見るものをも凌辱する。校長は苦虫を噛んでいた。軍を制することは校長にもできなかった。

(*)愛知県立刈谷工業高校2年の山田恭平さん(当時16歳)が2011年6月に自殺した問題で、県の第三者委員会は4日、所属していた野球部で体罰を見聞きしたことなどでうつ病が進行し、自殺に至ったとする最終報告書をまとめた。(2014年2月5日 読売新聞)

 この少尉は図体のバカでかい、三十歳は優に超えた、それなのに現役の少尉だった。現役の少尉といえば、陸軍士官学校を出て任官ほやほや二十歳そこそこの、まだ少年の気の残る青年を想像するが、バカ少はまるで違っていた。予備役だが司馬遼太郎が少尉になったのは二十二歳だ。バカ少のようなオッサンの現役少尉というのは、なんか変なゲテ物の感じだった。兵隊に行って満期になっても下士志願をすると軍隊に留まることができた。そして特務曹長(のちに准尉と改称)まで行って退役すると退職金でタバコ屋ぐらいは開業できた。もうひと踏ん張り将校試験というのがあったのかもしれない。バカ少はその類であったのかもしれない。

 兵隊が好きというのは、昔は結構あったらしい。「拝啓天皇陛下様」という映画の、渥美清演ずる山田正助(ヤマショウ)のように、軍隊で初めて衣食住の心配が無くなった貧民は少なくなかった。殴られることを差し引いても兵隊の方が貧農の暮らしよりはるかによかった。だからこそ東北は良兵の産地だった。バカ少は貧農などでなくて、四日市あたりの薬屋の息子だという噂で、たぶん肉体的に精力があり余って兵隊向きにできていたのだと思う。体育会のしごきを自ら進んで受け入れる者もいるのだから不思議はない。

 少尉は、本来が単純でネアカの、つまり体育会系のさっぱりした男だった。やたら面積の広い顔をしていた。「立派」を「レッパ」と噛んだことがあって、しばらくレッパは流行語になった。伍長が軍曹になったように、この少尉も中尉になった。バカ少からバカ中になった。なぜバカがついたのか理由を知らないが、「イエテル」感じだった。生徒がヘマをするとバカとか言うかわりにポスと言った。意味不明で、ただ可笑しくて、言われた者ばかりでなく、みんなが笑った。ポンカスというのを子供のころ聞いたから、その縮約形かもしれない。バカ少がバカと言うと自分のことになるので発明した新言語だったのかもしれない。ポスも当分流行した。

 不機嫌中佐の授業は一度も私は受けなくてすんだ。バカ少の教練はあったが、屋外ばかりで、教室で授業などできる柄ではなかった。だから配属が修身の授業を横取りしたことはなかった。しかし配属の他にも現地採用の、予備役の教官は三人ほどいて、教室で散兵戦とか作戦なんとか、実に温厚柔和かつ謙虚な長身の老砲兵大尉が、まるで孫に昔話をするおじいさんのようなニコニコ顔で、歩兵や砲兵の戦線配置図みたいのを板書したりしたことはあった。修身の授業を簒奪してのものではなかったと思う。もう一人、高等小学校三年を卒業してから進学する名張農学校出身の少尉は、普通科中学校に対する不必要なコンプレックスがあって、農学校の方が中学校より幹部候補生の合格率が高いというような言わでものことを、おずおずと誇ることもあったが、総じていつも控えめだった。二人とも、もちろん暴力とは無縁だった。声荒げることなどまったくなかった。

●トクソー(特務曹長)
 配属でない教官のなかに忘れがたい人物がいた。特務曹長(つまり准尉)を略してトクソーと呼ばれていたが、学校では古狸だった。相当の年配に見えたが、身体機能から推してさほどの年齢とは思えなかった。私の父の年齢(1900年生)だと、町内の一年志願の将校のおじさんたちは昭和15年(1940年)ごろ悉く召集されて中国戦線に派遣されたし、教師の中でも将校は召集された。シベリア出兵に従軍したクリスチャンで41歳(1899年生)の上等兵さえ出征した。近所でも心念寺住職の中尉と横町の小間物屋のおじさん上等兵が戦死した。応召の将校の中には「右へならえ」を「右につらね」と、古風な号令をかける老兵もいたと、徴兵されて京都深草の輜重連隊に入っていた伯父から聞いた。トクソーが召集されなかったのは、だからそれ以前の、1899年よりさらに以前の生まれだったのかもしれない。

 トクソーは軍人精神などという抽象的なものより、もっと職人的に叩き上げた兵隊だましいの権化で、(中肉中背を自称したが)短躯敏捷、少し危険な、油断のならぬ小動物という感じだった。教練は極めて実戦に即していて臨場感があった。たとえば敵前に散開して最終的には白兵戦に終わる状況設定が多く、伏せている生徒のすぐわきに来て、「砲弾落下、どうする?どうする?」と畳み掛けてきた。「凡そ兵戦の事たる独断を要するもの頗る多し・・・状況の変化に応じ、自ら其の目的を達しうべき最良の方法を選び機宜を制せざるべからず 」と作戦要務令にあるような臨機応変の動作を要求した。いうならば軍事的合理主義に徹した、プラグマティズムだった。

 トクソーは暴力でなく、ブラフと言えばブラフ、言語の威力のみで生徒をコントロールしていた。自らガチャン主義などと称して「生徒を制裁するときは指揮刀を用いる。偶数回打ったときは指揮刀がこっちに曲がっている。奇数回なら反対側に曲がる」などと言った。実行したのを一度だけ目撃したが、言うほどのものではなく十分手加減していた。座禅の警策にすこし似た感じだが、警策のように振りかざすのではなかった。30センチほど上から鞘のまま肩を打てば刀身と鞘がぶつかってガチャンと音がするにきまっている。恒常的に高揚した心的状態を、しかも喜怒哀楽の埒外に維持している気配で、決して理性を失うことはなかった。高揚が習性化している感じだった。だから低学年のオッチニオッチニとちがい、兵隊嫌いの私のはずが、トクソーの教練は嫌いな学科ではなかった。頭脳的にも十分に刺激的・挑発的であった。

●トクソーの批評感覚
 トクソーは饒舌と言っていい程度に多弁でもあり能弁でもあった。ユーモアもあった。しばしば白皙の生徒をつかまえて「どうしてそんなに青いのか?」と言った。一般に顔色が青いのは自慰行為のせいだという俗説が信じられていたことが背景にあった。露骨にそれを言う教師もあったし、それを責め道具にして罪の意識を掻き立てる牧師の話を、のちに牧師になった友人から聞いた。露骨にといっても今日のようなカタカナでなく「不摂生」という語が用いられた。トクソーはそれほど低俗ではなかったが、俗説にいくらか悪乗りしてからかっているフシはあった。皮膚の色素に個人責任があるなどと本気で言うはずはない。言われた生徒は、あるとき「生まれつきです」と言葉を返した。すると即座に「そんならキミは赤ちゃんでなくて青ちゃんか?」と言うような調子だった。一同は笑ったがトクソーのポーカーフェイスは変わらなかった。

 「修養日誌」という黄色い罫線があるだけの帳面に、日記を毎日書いては毎週提出させられた。プライヴァシーなどという概念すらなかった時代、担任の教師が読むだけでなく、目ぼしい内容に出くわすと教員室で話題の種にしたらしい。担任のないトクソーは、獲物を嗅ぎまわって覗いていた。そして教練の授業中に、誰が書いたといわずに書き手にだけわかるように、中身を取り上げて当てこすった。たとえば「将校ばかりが五、六人固まって歩いてきた。将校演習でもあったのだろうか。中にX先生がいたので敬礼した」と書いたとする。トクソーは「敬礼した」を「大いに敬礼した」と、書かれていない「大いに」を声高くしてつけ加えた。

 トクソーには、将校演習というような言葉を生徒が知っていること、そしてそれを用いたことが気に入らない。知ったかぶり、自己顕示と捉えるのであろう。「敬礼」は教師に会えばする規則になっているのだから書くまでもない。わざわざ書くのが気に入らない。そういえばそうだ。中尉程度でも将校の集団が街場に現れると美々しいものだ。戦後に復員してきた級友が階級章は剥がしてあっても将校の服を着ているだけでちょっと眩しかった。そういう感覚はスノバリーだと言えなくはない。だから「大いに」と当てこすった。かならずしも陰性ではないが食えない皮肉屋で、ある種の批評精神の持ち主であった。

●謎多きトクソー
 トクソーは、独身なのか、他にもうひとり中学生が下宿しているようなタバコ屋に下宿していた。質素であった。軍帽は、戦闘帽になる以前は、やたら前立ての聳え立った当世風の将校帽ではなく兵の被るのと同様のものであった。昭和13年当初は長靴でなく革脚絆をしていた。月給の多くを書籍費にあてたのか、ときに和服で書店に出入するのを見かけることがあって、相当程度に読書家でもあったらしい。教練授業の合間にしばしば「説教」をした。つまりお話をした。その印象からして、あの知力でどうして将校になる道を選ばなかったのかは今も謎である。

 生い立ちのことなど一切不明であるが、独学で身につけた教養は、たたき上げ軍人のものとはいささか距離のあるものに思われた。普通の平凡な教師ともちがっていた。どういう理路によるものだったか忘れたが「だから皇室中心主義が大事」と言った。普通の教師は「恐れ多い」とか「現人神」とか頭ごなしに絶対化するだけで、決して「皇室中心主義」などというイデオロギッシュな言葉を使わない。これは二二六で蹶起した皇道派の言葉である。中心主義などと敢えて言わなければならないとすれば、その前に皇室を中心でないものとして相対化する考えを前提にしなければならないことになる。そうはっきり理解したのではないが、それらしく直感して、その新鮮さに強い印象を受けた。そいう理詰めなところがトクソーの話の持前であった。

 じっさい、後の昭和15年、昭和天皇の乗ったお召列車を送迎したことについて、ふたたび修養日誌に、むしろ迎合的な文章を書いて、文中「皇室中心主義」なる語を使ったばかりに学級担任の武道の教師の怒りを買ってしまった。「天顔を拝して皇室中心主義への疑いが晴れた」と書いた。武道教師は「疑いとはなんだ」と怒った。ウソではなくて、線路脇に整列して最敬礼しているなかを蒸気の断続音が次第に大きく次第に遅くなって、それがぴたりと止まり、静寂の中で二つ折れの姿勢から頭を上げると、真正面の額縁のなかに天皇の顔が燦然と光っていた。電流が走って文字通りしびれてしまった。見事な劇場空間であった。演出にコロリといかれてしまった自分が後々恥ずかしかった。

 そんなわけで陰惨な暴力は教練の教官によってではなく軍籍を持たない教師によって振るわれた。こういうことからも、制服組のほうが抑制的で軍事を知らないタカ派のほうが暴発しやすいというように敷衍できるのではないかと思う。無人機の怖さも扱うのが制服組でなくなることにあるといわれる。突飛に思われるかもしれないが、若いうちに自衛隊の予備役をやっておいた方がいいのでないか。その方が反戦活動も本格にできるのではないか。脱線したがトクソーは、もっと接近して研究しておけばよかったと残念である。

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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