【コラム】
『論語』のわき道(6)

竹本 泰則


 十月一日は「日本酒の日」とのこと。売らんかなの精神で、めいめいが勝手に作るものだからやたらに記念日がある。ビールの日は四月二十三日、焼酎は十一月一日。ワインの日などは毎月二十日というから年がら年中だ。

 『論語』に酒の字は五回ほど現れる。その中には郷里の人たちとの酒席の記述まである。どのような種類の酒が飲まれていたのか知らないのだが、二千数百年もさかのぼる大昔でも酒は意外に広く普及していたようだ。
 『論語』には孔子の食生活など日常の暮らしぶりをこと細かに記録した一篇がある。それを見ると孔子は食事にえらく気を配っている。食べ物の鮮度はもちろん見た目までに神経質である。そして量の節制ということも実行していたようだ。
 そこに次の句がある。

  (ただ) 酒は量無く、乱(らん)に及ばず。
  (か)う酒と、市(か)う脯(ほじし)は食らわず。

 食べ物一般とはちがって、酒についてだけは特に量を決めることなく、その日の気分・調子で飲んでいた。それでも酔っぱらうようなことはなかった、というのが前半。
 後半の「沽」は代金を払って買うこと、「市」は動詞になると、買い取る、売り買いするという意味。「脯」は干し肉、今のジャーキーあるいはソーセージのようなものらしい。つまり、市販の酒や肴は口にしなかったということになる。酒も自家製であったいたことが分かる。
 別の章では孔子自身が、自分が難なくやれることの一つとして酒を飲んでも乱れないことを挙げている。どうやら孔子様はのんべえで酒に強い人であったらしい。

 酒といえるかどうか、子供のころ正月の食卓で『赤玉ポートワイン』を一杯だけ飲むことが許された。今でも赤い大きな丸が目立つラベルは記憶に鮮やかだ。屠蘇とはまるでちがい、甘くてなんとも妙なる味を感じた。
 本格的な酒との出会いは、十八歳の春。卒業式を終えた後に部活動の仲間と飲んだビールが最初だ。現場は母校の最寄り駅から数駅離れた町の小料理屋の一室。自分たちだけでこっそり開いた卒業の祝いであり、それぞれがおのが道を踏み出す別れの会でもあった。
 乾杯の一杯でたちまちに天井がまわるような心地に怖気づいた。

 それから一年間、浪人生活を味わった。通った予備校は代々木にあった。上層階にある自習室の窓から新宿の街が見えた。夕刻になると景色が格段に色めく。
 ビールがジョッキに注がれ、湧き上がった泡がふちを超えて側面を滴り下るという仕掛けの大きな電飾広告が目に迫る。思わず喉が鳴る。隣の仲間に顔を向ける。目が合えば言葉は不要。そそくさと机上を片付け繰り出した。

 大学に入ると酒との付き合いは幅広になり、ウィスキーにも馴染んだ。サントリーの角壜はたまのことでサントリーレッドという誕生から間がない安酒がもっぱらだった。
 男同士で飲むときには場所を問わず、フトコロ具合を最優先に選んだ。女性が一緒のときは居酒屋とはいかず、コンパと称した店で楽しむことが多かった。コンパは若者をターゲットにした開放的な洋酒酒場で、当時次々に現れて、線香花火のようにあっという間に消えてしまった。そこでは多少のカクテルまでも覚えた。もっとも自分は馬鹿の一つ覚えよろしくジンライムで通していたような気がするが。

 就職先のオフィスは銀座にあった。中央通りから二本入るが、住所はれっきとした銀座。飲む店にはこと欠かなかった。
 新入社員研修を終えての初日、所属部署の先輩と同窓の先輩とがタッグを組んで待ち構えていた。それからの一週間は我が家で寝ていない。寝不足・二日酔いの苦しみを嚙みしめながら定時出勤の掟の厳しさを教わった。この先輩たちとはその後も新橋駅裏などでおたがいの財布のありったけをさらしてチビチビやったりしていた。当時の新橋駅の烏森側は屋台に毛の生えた程度の飲み屋が軒を並べ、終戦直後そのままのような雰囲気が漂う独特の空間だった。

 若い時分には部長から誘われることが大きな楽しみだった。『だるま』が高級酒という身にとっては、銀座のクラブは竜宮城のように思えた。 カウンターに据えられた生け花、見た目がいい内装、棚に輝く色とりどりのボトル、ふんわりしたソファー、加えて、美しく着飾った女性……。何もかも別世界であった。世慣れぬ若造には気後れするところもあったが、得難い至福のときを味わうことができた。
 「おれも将来、部下を引き連れてこんな店に顔を出す身分になってやる!」と誓ったが、この誓いはついに成就することなく終わった。

 それでも分相応のなじみの店が幾つかできた。そのうちの一軒はオフィスの近くにあった。そのため同じ会社の人と顔を合わせることは珍しくない。一人でしみじみ味わうという境地にはとどいていない時分であったから、むしろ都合が良かった。それどころか、窓から帰りがけの同僚を見つけて呼びこむようなことまでしていた。
 今は街の居酒屋も企業化されているが、この時代は家業的な店が多かった。女将は我が母親より少し若いくらい、娘時分は美人であったろうなと思わせた。坊主頭に手ぬぐいの鉢巻きがさまになる太っちょの板前を使って店を切り盛りしていた。

 店は左程大きくもなく、客の数が特に増えたわけでもないのに、一時期若い女性が手伝いに入ることがあった。ある晩、一人でいつものカウンターに腰かけて飲んでいると女将が横に座った。手伝いの娘は来ていない日であった。
 「あの娘を貰ってくれないか」
 聞けば、女将の姪に当たるということだった。
 私の独身時代はなお続き、その娘も店に顔を出すことはなくなった。娘のその後は聞いていない。

 家庭をもってからは自宅での晩酌の機会が多くなった。仕事からのリセットが下手な性質(たち)である。一日の勤めの澱(おり)が残る。自分のためにも家族のためにも、残渣を洗い落とし「家庭人」に戻らなければいけないというひとりよがりを言い訳にして食前の酒を常としていた。
 齢を重ねるにつれて仕事の澱の洗浄に必要とする量も多くなった。飲めば治ると思っていた胃痛もほっておけなくなってきた。
 医者からは十二指腸潰瘍といわれた。
 そんなもの病気のうちに入るもんかという友人の言葉に勇気づけられて、酒と縁を切ることなく済ませた。

 会社生活を終えた今は純粋に酒を楽しむだけの晩酌となった。
 やはりなじみがいいのは清酒である。秋口からしばらくは燗をせずにひやで飲む。この飲み方は、ある時期まで行儀の悪い飲み方と信じていた。
 我が家で一人過ごすとき、面倒なので一升瓶から湯呑に酒を注いで飲んだ。いける! 新鮮な驚きだった。以来、徳利と盃を使ってひやを積極的にたしなむようになった。
 盃は薄手で内側が真っ白な平盃が好きである。しかし齢のせいか盃を持つ指先が心もとなくなり、今はしっかりと握れる「ぐい呑み」が主となった。

 秋の深まりとともに燗酒を味わう。若い時分は燗の具合などにこだわらなかったが、今は熱燗を好まない。「人肌」というが少しぬるめくらいがいい。
 しかし徳利一本の酒を最後まで好みの温度に保つのはなかなかに厄介だ。電子レンジでチンして置きっぱなしはもちろん駄目。電気式の酒燗用の器具も試したが気に入らない。湯煎はいいが、肝心の湯の温度を保つすべがないし注(つ)ぐたびに徳利の雫にも悩まされる。結局卓上で鍋などの温度が冷めないように温める電気式の器具を流用している。これとて、まめに注意していないと熱くなり過ぎる。そこで徳利を載せたりはずしたりを繰り返しながら楽しんでいる。
 ひと冬燗酒を楽しみ、少し暖かくなると再びひやに戻る。

 夏は焼酎。ビールは嫌いなわけではないが、挨拶代わりの乾杯が精々。たまに風呂上がりに手が伸びるが一、二杯で切り上げ焼酎に替わる。
 まず酎盃にあふれるほどの氷を詰め込む。焼酎をその上からゆっくりと注ぐ。氷がはぜる音、重なりが下に崩れる音、そして焼酎のほのかな香りを楽しむ。水は加えない。酒に湯・水などを足すのは余り好まない。飲み始めは生(き)の味が強い。その内にいい加減の濃さになる。それからは飲みつ足しつで濃度をキープする。
 酒の辛口、甘口すらおぼつかない味音痴の割には、飲み方に妙にこだわる自分がおかしい。

 (「随想を書く会」メンバー)

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