■臆子妄論

門田勲氏のこと少々その他         西村 徹

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  五月の朝日新聞(大阪版)夕刊に昭和の伝説的な新聞記者のことがシリーズで
取り上げられた。毎日新聞の藤田信勝や朝日新聞の守山義雄のことが初めにあっ
て、3、4回目ぐらいで次は門田勲に及ぶという予告をして閉じていた。門田に
なると数回では終わらず、延々10回にわたり、そこでシリーズそのものが終わ
った。
  門田勲といってもウィキペディアの「朝日新聞の人物」の項には出ていないか
ら知る人は少ないらしい。守山義雄も出ていないし、藤田信勝も「毎日新聞の人
物」に出ていないから、このシリーズは大阪の記者が書いたもので大阪の夕刊に
出ただけかもしれない。守山も藤田も大阪の記者だ。門田勲は東京の記者だが1
950年大阪本社の編集局長になったから大阪との因縁なくはない。

  レッドパージで潜伏中の共産党幹部伊藤律と朝日新聞神戸支局の記者が宝塚山
中で秘密裏に会ったとの捏造記事が原因で大阪の編集局長が引責辞任した。その
あとを襲って門田は東京から来た。守山社会部長を含めて大阪の記者は東京から
の落下傘降下に反対して門田は追放された。突如として大阪に来て突如として大
阪を去った。これが大阪との因縁の中身である。
  それにしてもこのたびウィキペディアに三人とも出ていないのを見て、東で作
られる情報にはある種のバイアスがかかるらしいことに興味をおぼえた。36年
ベルリン五輪の平泳ぎで優勝金メダルの葉室鉄夫は毎日新聞大阪本社の記者だっ
たが「毎日新聞の人物」には出ていない。おなじベルリンで長距離走4位の村社
講平は出ている。

そういう東の基準ではマイナーとされるらしい人物に触れること自体マニヤッ
クということになるかもしれない。それを承知でさらにマイナーなことを書
く。私は門田氏に二度会っただけである。門田氏が突如大阪に来る少し前と、
来て少し後ぐらいに会った。門田氏は1902年生まれで私からすれば親の世
代の人である。やはり1902年生まれの好川貫一という私の恩人というべき
人がいた。就職の時期になって、新聞の学芸部に入りたいと言うと、「友人が
朝日の学芸部長をしているから会え」と言う。そこで鎌倉の門田邸を訪ねた。

  門田という名前は一般には知られていなかった。私も知らなかった。その名が
知られるようになったのは大阪を追放されてからだ。欧州特派員という応急に門
田用に準備された閑職に就いて「外国拝見」という署名記事を書くようになって
からだ。その洒脱な文章は当時すこぶる評判であった。それによってバカンスと
いう言葉が日本人の間にも知れわたることになった。

まだ評判になる前、朝日の学芸部長であるということ以外に、私は門田氏が達
意の文章家であることも知らなかったし、無類の癇癪持ちであることも、貴族趣
味の持ち主であることも皆目知らなかったから、おじさんの友達ぐらいに思って
気楽に出かけた。鎌倉の緑濃い山腹の瀟洒な家であった。そのつきづきしさに勝
手にはなはだ感服しただけで、なんの緊張感もなく、いい気なものであった。知
らぬが仏というよりも、知っていても変わらなかった気もする。毎日新聞の「硯
滴」(その後「余禄」)を見ていて「オレならもっと上手い」と本気で思ってい
たのだからつけるクスリはなかった。

どんなことを話したのか聞いたのかさっぱり憶えていないが、「いきなり学芸
部などというとややこしいことになる。何もわからんから最初は社会部でいろん
なことを勉強したいというがいい」と、まことに実際的な智惠を伝授されたこと
は覚えている。後に知った評判の型破りなところは片鱗も窺えない穏やかなもの
であった。つけるクスリのないことを見抜いていたのかもしれない。もうひとつ
「好川君は文章が上手いから」と言ったのも覚えている。

  途中で電話が入った。「鎌倉の芸者なんざしょうがない。そんなもの呼んでも
しょうがない」といっているのが聴こえた。相対して話している時より数段早口
で張りのある声も弾んでいたのが今もはっきり耳に残っている。新聞とか学芸部
とかいうものの世界を微量ながら明瞭に覗いた気がした。かすかに心奮え、そし
てたじろいだ。57年も昔のことである。
  入社試験は撥ねられたが笠信太郎など錚々たる連中が記念撮影みたいに間を詰
めて、かぶりつきから目の前にぎっしり並んでいて圧倒された。三次までいった
毎日新聞のときは試験官の数も少な目で、部屋が大きかったのか、もう少し遠く
にもう少し疎らに並んでいたから圧迫感はなかった。ふたたび門田氏に会ったの
は大阪に来てからである。好川氏の尻について大阪本社の編集局長室に出かけた

  少しわき道にそれる。好川氏は高畠素之主宰やまと新聞の記者をしていて朝日
新聞門田記者と知り合った。その後出版業を営み鎌倉に居を構えるに及んで門田
氏とは近所付き合いをすることにもなった。戦争末期郷里に疎開、戦後に大阪で
出版業を営むようになっていた。

  私が学席を置いていた大学英文科の教授は竹友藻風といい、ちょうどその頃還
暦になった。還暦記念の出版という話が英語教師のあいだから持ち上がった。出
版社は容易に見つからなかった。言い出しっぺは調子のいいことを言うだけ言っ
てあとは知らん顔の半兵衛で、宿題を背負わされた助教授が困りきっていた。私
が好川氏に頼んで出してもらうことになった。『法苑林』という訳詩集ができあ
がった。新訳は一つもなく古いものばかり埃をはらって集めたものである。大時
代なタイトルはホーオンリンと読みHoly Woodの意の仏教語である。

しかし好川氏も商売だから売らなければならない。そこで好川氏は門田氏に力
を借りようと相談に出かけ、私は鎌倉訪問の返礼を兼ねて同道した。門田氏は『
法苑林』を一目見るや即座に舌打ちして言った。「売れないものを出しゃがった
」。かすかな苦が笑いとともに屑篭に捨てるかのように言った。痛快なまでに坦
懐であった。男子の交わりはかくのごときかというのが第一の印象である。湿っ
ぽさのまるでない、からりと竹を割ったような率直さは親身になっているからこ
そのぶっきらぼうだった。それは傍にいてよく分かった。

  評価そのものにはおどろかなかった。名前が古風ということもあって、てっき
り大正の詩人だと思い込んでいた1891年生まれの、過去も過去、大過去の趣
味人が教壇に現れて、骨董を見るような好奇の目で見ていたのだからおどろかな
かった。同時代性を全く感じさせない時代錯誤的なところ、いわば白痴美みたい
なところをかえって珍しがっていたのだから「売れないものを・・・」も、「そ
ういわれればそうかも」と思っただけだった。好川氏にはあいすまぬことになっ
たとまでは思い届かぬままにそう思った。

むしろ好川氏は若き藻風を知っていて、その後の骨董化した藻風を知らなかっ
たから、かえって幻惑されたかもしれなかった。門田氏は新聞の、しかも学芸部
だからきわめて新しい消息に通じていた。竹友藻風訳ダンテの神曲が朝日の賞の
候補になって選考委員の一人が英語からの重訳だというクレームをつけて、ため
に受賞は沙汰やみになったというような話もされた。

  藻風の名誉のために付け加えておくが、それを助教授に話すと、それは野上素
一が告げ口したのであって、藻風が用いたイタリア語版テキストには書き込みが
一杯されているのを見たから、英語からいきなりの重訳であるはずがないとのこ
とであった。あれだけいろんな言語に訳されていて、もちろんそれらを参照はす
るだろうが、ミケランジェロのRimeのような難物はともかくとして、ダンテの原
典など見ないはずはなかろう。
  ついでに言うと、野上素一の学生だった小松左京と同期のイタリア学者からじ
かに聞いた話がある。野上研究室には卓上に神曲諸訳がいっぱい重なって積み上
がっていて、いちばん下に原典があったとのことである。その人は桑原武夫に「
京大でいちばんバカは誰か知っているか」と聞かれ「知らぬ」と答えると「野上
君や」と聞かされて断然イタリア文学専攻を決心したという。無用の用というべ
きか。独立法人になって世知辛くなって、こういう牧歌的なはなしは聞かれなく
なるだろう。心の冷えることである。
                   (筆者は堺市在住)

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