■【オルタのこだま】

関西オルタの会に参加して ~朝の榊原温泉で~     木村 寛

───────────────────────────────────


我々の世代(1940年代生まれ)は何をしているのか?          


  いつものように朝五時前に目が覚めたので外へ出てみた。まだ真っ暗で、一度
覚えると忘れられないオリオン座が大犬座、子犬座と冬の大三角形を作って南の
空に輝いていた。雲があったので北斗七星も月も見えなかった。
 
  突如静寂を破って太鼓の音が響き始めた。宿舎神湯館の隣の式内社射山神社か
らのものである。三拍子といえばいいのだろうか。二つの大きな連続音の間に小
さな音が一つ挟まった独特の調子で、まるで朝の到来を告げ知らすように鳴り響
いていた。数分間の太鼓の音が鳴り止んでも依然空はまだ暗かった。
 
  温泉地域を抜けて少し東の方に歩いていくと開けたところに出た。明けの明星
が東の空にひときわ明るく輝いている。数年ぶりに見る朝の金星だった。太陽の
進退と常に行動を共にする、この地球の隣の内惑星の挙動は古代から天文学者の
たちの注意をひいた。
 しばらくすると地平一面に夜明けの曙光が輝き始めた。ほどなく太陽が顔を
出すかと思ったのだがなかなか現れず、夜明けには曙光から太陽の出現までなぜ
か待ち時間のあることがわかった。
 
  太陽が昇りはじめて東の空が格段に明るく輝きだしたころ、反対側の山側の空
を見ると大きな虹がかかっていた。前日の雨で発生した水蒸気が虹を発生させた
のだろう。低い山の頂から大空まで、半円以上に大きな3/4くらいの円弧の虹で
ある。夜明けにできる虹を見るのは初めての体験だった。
 
  虹に関して言えば、私は旧約聖書の創世記、ノアの物語の中の虹(9-13)ー虹は
神と人間との契約のしるしであるーを思い起こす。私の知る限り、虹をここまで
宗教論理的にとらえた神話はない気がする。それはつかの間に消えうせるが故に
しるしでしかない。
 
  もし夜明けが明けの明星、曙光、太陽の出現、虹の発生で始まるとすれば、そ
れらを見る人々にとってはその日がどんなに厳粛なものに感じられることだろう
か。温泉街の雰囲気さえ微塵も無い榊原温泉の素晴らしい夜明けは忘れていたも
のを久しぶりに思いおこさせる朝であった。
 
  今回出席の人たちは1925年前後の世代と1930年代前半の世代だけで、私の世
代は私を除いて一人もいなかった。1969年には労働組合運動は既に退潮期に入っ
ていた(会社の組合電機労連では社外活動で逮捕された反戦派労働者のパージ(前
原事件)が起きたし、其の後沖電機では指名解雇も起きた)ので、あまり楽しい記
憶もない。しかし1940-1949年生まれの世代が60歳以上となった今、我々の世代
は私的埋没状況から脱出して先輩の世代に負けない活動をすべきではなかろうか。
そこには継承という問題ー誰から何を継承するのかー
( 北岡和義 編「政治家の人間力」もその応えの一つである)が存在するし、また
内村鑑三の言う「後世への最大遺物」問題が我々に突きつけられている気がした
榊原温泉での集まりであった。
 
  日高六郎編「戦後日本を考える」筑摩書房、1986の帯封には「事実の発展が
認識の進展を上回った時代をどう捉えるか」とあって、共著者は1930年前後生ま
れの人たちなので、この本は我々にとっては一つの里程標である。我々世代自身
の里程標を立てることなしに我々が消えていっていいものだろうか。それは歴史
と自分への裏切りである気がする。
              (筆者は堺市在住・麦の会共同作業所顧問)

                                                    目次へ