【コラム】
『論語』のわき道(19)

阿の字 (一)

竹本 泰則

 閑だらけの身にしてはテレビを見る時間が少ない方ではないかと思っている。スポーツ番組などもあまり見ない。もともと運動が得意ではないので、スポーツに対する興味が薄いのかもしれない。ところが細君は、家にいる限りテレビをつけている(もちろん睡眠中は除いて)。そしてスポーツなどまったくやらないのに、見るのはお好きなようだ。世界大会のような大試合となると深夜を厭わずテレビに見入っており、時に拍手したり歓声をあげたりしている。

 相撲も例外ではない。場所中であれば夕方からのテレビは相撲中継と決まっている。晩酌をかたむけながら否応なく見せられているうちに、こちらも力士の名前なんぞを覚えたりする。
 いつだったか、その日の取り組みの結果をしらせる電光掲示板の画面に思わず見入った。「阿武咲」という表示があって、その字の読みが浮かんでこない。すぐにアナウンサーの音声によって「おおのしょう」と読むことはわかったが、悔しまぎれに「そんな読み方ってあるのかよう」と声をあげたくなった。
 この力士の所属部屋は阿武松部屋、こちらも「おうのまつ」と読まれる。しこ名は部屋の名前に由来するのだろう。

 気をつけてみると、相撲の世界での漢字の使い方は奇妙なものがたくさんある。第一「相撲」と書いて、なぜ「すもう」なのかがわからない。「相」も「撲」も常用漢字に入っているが、「本表」の備考欄にはわざわざ「相撲(すもう)」と読み方を注書きしている。つまりは特殊な読みということになる。普通に読めば「ソウボク」だろう。辞書にはやはりこの読みで出てくる。

 意味としては、中国の古くからの格闘技とされている。字面からいえば、たがいに相手となぐり(撲)あうというような感じがあって、日本で今見る相撲とは様子が違うような気がする。もっともわが国の相撲の起源は野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)というふたりの対決とされているらしいのだが、この勝負の結末は當麻蹶速が踏みつけられて死んでしまったらしい。この国でも、もともとは戦闘のための武芸か、あるいは命がけで取り組む格闘技であったのかもしれない。

 中国では格闘技も、それこそ何千年という歴史があり、その呼び名も時代によって変化したようだ。相撲といういい方が登場するのは、西暦の紀元から何百年か経ってからというからというから、孔子が活躍していた時代にはまだこの用語はない。当時は角力などと書き表されていたらしい。ならば『論語』にこのことばがでてくるかというと、それはない。孔子さまの世界は格闘などとはおよそ縁遠い。その言うところによれば、君子には争うということ自体がないらしいのだ。そのうえで、強いて他人と競うといえば弓術くらいかな、といいそえる章句がある。

  君子は争う所無し、必らずや射(しゃ)か

 射とは弓術のこと。当時、この芸(わざ)は一定の階層より上の人々にとっては必須の教養だったらしい。もちろん孔子も身につけていた。中央の王朝でも諸国の朝廷でも弓の試合が催されていたという。孔子が伝える弓の試合の作法を当てずっぽうで想像してみる。

 まず試合の場は君主が鎮座する堂の前庭だろう。ひと組二人の選手で勝負するようだ。試合の前に階段を上り下りするとあるが、その際には、互いにお辞儀をして先順を譲りあう。試合が終わって勝負に勝った方は敗者に対し罰としての酒杯を空けさせる。
 孔子は、これこそが紳士(君子)の争いだと結ぶ。

  揖譲して升り下り、而して飮ましむ。その争いや君子なり

 君子の争いがどうこうは別として、しまいが酒というところは面白い。

 角力という表現は現在のわが国でも見られる。おすもうさんを「力士」というし、「角界」などといういい方もある。漢字の「角」には比べるという意味があるので、角力は「ちからくらべ」となる。こちらの方がすもうにはふさわしい感じだ。しかし、『日本書紀』などにおける表記には相撲の字が使われているそうだ。ただ、読みは「すまひ(すまい)」となるらしい。なぜすまいという言葉があてられたのか、またすまいの語源はなにかなどといったことは不明だという。

 昭和天皇は相撲が大層お好きだったようだ、貴賓席から身を乗り出してご覧になるお姿の記憶がある。昭和五十年五月場所の天覧相撲における前頭筆頭・富士櫻と小結・麒麟児の対戦だったらしい。この一番は、昭和屈指の名勝負と伝わっており、陛下も絶賛されたという。
 その昭和天皇が戦後初めて国技館に相撲を見にいらしたとき(昭和三十年五月場所)にお作りなった歌。

  久しくも 見ざリしすまひ ひとびとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ

 もとは平仮名、変体仮名の混淆で書かれているようだが、この「すまひ」が現代の表記ではすまい、つまり相撲のこと。昭和の御代になっても、禁中ではそう呼ばれていたことが分かる。

 阿武咲の話に戻ります。この人が所属しているのは前述のとおり阿武松部屋だが、部屋の名前は江戸時代、長州・毛利藩のお抱え力士で、第六代の横綱になった人に由来するらしい。阿武松緑之助という人で、横綱の免状をもらったときに、現在の山口県萩市にある景勝地「阿武の松原」にちなんでこのしこ名を名乗ったと伝わる。それが部屋の名前になって残ったらしい。

 阿武は地名。ちょっとややこしい話になるが、「阿武の松原」と書かれる場所は萩市に二つ、福島県にも一つある。呼び方は、萩市の方からいくと一つは「おうのまつばら」(これが阿武松緑之助の名前のもとになる)、もう一つは「あぶのまつばら」、福島の方は「あふのまつばら」。こんな具合に三つはそれぞれ少しずつかな表記が違っている。しかし、もともとは同じ一つの言葉だったのであろう。「あふ」が変化して「おう」となるのは、さほど奇異なことではない。たとえば、「逢瀬」は古語であれば「あふせ」、今は「おうせ」……この口だろうと思う。

 阿武咲の第一字である「阿」という漢字の音(おん)はいうまでもなく「ア」である。この字の面白い使われ方を知った。特別な意味がなく、その人への親しみを表すために名前などの上にくっつけて呼ぶという用法があるのだ。口語的な使い方なのであろう、文語文ではあまり見られないが、魯迅の小説『阿Q正伝』などはこの使い方らしい。この題名を日本語でいいかえれば、『Qちゃんの伝記』といった感じだという。
 辞書には「阿父」、「阿母」といった熟語が載っており、父や母のことを親しんでいう言葉と説明されている。

 わが国にも同じような習俗があるが、使われるのは「お」である。恋人に会いたいがために放火の大罪を犯した八百屋お七。「七」という名の娘さんに「お」がついたものだろう。お萬の方(徳川家康の側室)、お岩(東海道四谷怪談)、おつう(夕鶴)なども浮かんでくる。現代ではこうした形で親しさを表に出す風習は薄れたように感じるが、親の世代にまでさかのぼれば珍しくもなかったのではないだろうか。母親が「お」を頭につけた呼び方で親戚の人のことを話していた記憶がある。漱石の『三四郎』の幼なじみは「三輪田のおみつさん」だ。

 もっと身近にはNHKのテレビドラマがある。
 まずは『おはなはん』の速水(旧姓:浅尾)はな、さらには田倉(たのくら)しん、『おしん』の主人公だ。
 『おしん』は海外でも放映されて評判をとったようだが、中国、台湾での番組名の表記は「阿信」だったそうだ。

 こうしたわが国の「お」は、阿の漢字とともに中国の風習が伝わって根づいたものではないか。当初は中国音の「あ」と発音していたものが、時代が経って「お」に変化したということではないか、そんな風に思っている。もちろん素人の当てずっぽうに過ぎないのだけれど。

 わが国最古の歴史書とされる『古事記』が編まれる際に、一人の並はずれた暗記力の持ち主がおおいに貢献したと伝わっている。その人の名は稗田阿禮。「ひえだのあれ」と「あ」の音で読む。それから千年くらい後の人で歌舞伎の創始者といわれているのが出雲阿国、こちらは「いずものおくに」と「お」である。二人の名前にある阿の字がどちらも親しみを表すための接頭語であるとはかぎらないし、たとえそうだとしても、一例だけで全体を帰納していいはずもない。それでも発音が「あ」から「お」に変化したことを想像する者としてはいささかひっかかる。

 「あ」と「お」を実際に発音してみると、開ける口の大きさが違うだけで舌などの位置は変わらないような気がする。「あ」と声を出し続けながら口の開きを段々小さくしていくと「お」に近づく。「あ」と「お」は音声的には近く、発音が移ることはありそうだ。その手掛かりを得ようと古語の表記を調べた。逢の「あふ」が「おう」になったように、昔は「あ」と発音していたという言葉の中で、今は「お」という音に変わった例がほかにもあるかを探す。ぞろぞろとまではいかなかったが、いくつかに行き当たった。

 近江(あふみ→おうみ)、扇(あふぎ→おうぎ)などがある。さらに奥という漢字の音読みは「おう」だが、古語では「あう」と表していたようだ。奥州街道は「あうしうかいだう」と書かれている。道も「だう」だったということならば、あ段からお段への変化ということになる。『方丈記』もひら仮名では「はうぢゃうき」だそうだ。
 古語を引っ張り出すまでもなく、現代でも関西地方などでは「合(会)った」を「おうた(おーた)」、「買った」を「こうた(こーた)」などといったりするようだし、東京都の青梅市も元は「あおうめ」であったものが「おうめ」にとってかわられたのかもしれない。

 素人考えのうち、「あ」から「お」へ発音が変化していくというへぼ仮説は的外れではないかもしれない。しかし名前の頭に「お」をつけて呼ぶ風習が日本固有なのか、中国伝来なのかについては目下手掛かりもなくお手上げの状態である。

 (「随想を書く会」メンバー)

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