■臆子妄論

雑感二題―フェアとユーモア― 西村 徹

────────────────────────────────────
■フェアとユーモア
1. 人を呪わば穴二つ

 ある日のNHK夜7時のニュースでマイクを前にしたときの安倍首相
の表情について、次のように書いている人がいた。

「その表情は異常としかいいようがなかった。両眼とも、眼のまわりが
真っ黒だったのである。黒というよりは蒼黒く、誰か暴漢に襲われて眼
のあたりをなぐりつけられたのではないかと思ったくらいだ。それより
さらに心配だったのは、その青黒い部分の周縁部に妙な黄色とも橙色と
もつかない部分がにじみ出すようにして広がっていたことだった。まる
で、肝臓を悪くした人にあらわれる黄疸のようだと思った。
 どう見ても100%健康な人の肌の色ではなかった。ただ、このとき私が
見たのは、高画質のフルハイビジョンTVだったから、普通のテレビだ
ともう少し病的な印象が少なかったかもしれない、ということを申し添
えておく。
 
さらに驚いたことは、同じニュースの中に、午前中の安倍首相、昼すぎ
の安倍首相の姿も映っていたのだが、そちらのほうは、それほどひどい
表情をしていなかったことだ。」
 長い引用になったが、ここまでなら、悪趣味ではあるが言うのは自由
であろう。黄疸によるものとも、下痢していたとも、どう考えるのも自
由であろう。この人は富田メモがニュースになったときの、やはりテレ
ビに映った小泉元首相についても、これとほとんどそっくりのことを言
っていた。
「表情はいつもとちがっていた。異様にこわばった表情だった。あんな
異様な表情の小泉首相の顔は、これまで見たことがない。もしかしたら、
よくない病気にかかったのかもしれないと思うくらい、それは変な表情
だった。」
 
テレビに映る人の顔について「異常」とか「異様」とかいう修辞と
「表情」という語を多用することの好きな人らしい。それもまた誰に遠
慮の要らぬことではあろう。fair gameというのは誰が標的にしても許さ
れる狩りの獲物のことだ。英国では首相と国教会の大主教はfair gameで、
権力の代償としてなにをいわれても文句を言われないことになっている。
言論の自由を保障する工夫としてでき あがった慣習らしい。それに倣っ
て総理大臣についてはなにをいってもいいだろうし、そうであらねばな
るまい。大時代な不敬罪などというものも今はない。趣味の良し悪しも
問われないであろう。「名からして思えてならぬ安普請」(焼津市 増
田謙一郎・朝日新聞12月14日)などという川柳も趣味の良し悪しを問
われる筋合いにはなかろう。
 
しかし、それから先、このように続けて書いているのもfairといえる
だろうか。
 「前に書いたことだが、安倍一族は短命の家系で、墓誌から得られた
データによると、男子は死亡時の平均年齢50歳に達していないという。
人の寿命を左右する要因はいろいろあるが、いちばん大きな要因は遺伝
子だという。誰でも知っているように、長命の家系の人は長生きしやす
いし、短命の家系の人は、早死にしやすい。
 安倍家は父方は短命の家系だが、母方の岸家は長命のようだから、ど
ちらの遺伝子をより多く受け継いでいるかによって、安倍首相の寿命は
相当違うだろう」
 
首相は人気の相当部分をその容貌と身長という身体的特質に負ってい
る。オルダス・ハックスレーがskin deepといった皮一枚の外観に負っ
ている。さりとて、それを相殺するのだといわんばかりに、遺伝的ハン
ディキャップという、見えざるものをあばき出して見えるものにするの
はfairであろうか。病んでいる、あるいは傷ついている獲物を撃つのは
狩人として名誉でないだろう。

 人の寿命を左右するいちばん大きな要因が遺伝子であることはいまま
でのところ、あくまでもいままでのところとして認められてよいだろう。
しかし墓誌から得られたデータは男子の平均寿命37歳という江戸時代
を含んでいるだろう。直接の父の時代の平均寿命そのものすら現代の平
均寿命よりも短いであろう。過去のデータを後ろ向きのままで今にずり
降ろして、その延長上に不確実な予測をほのめかしたりするのは相手が
誰であれ手口が汚い。fair gameに対して許される辛らつな評言、あるい
は悪態とも同列ではなかろう。

客観を装って、応酬不能で責任のとりようのない、その人が生得的に
背負わされた不条理、あるいは宿命ともいうべきものをダシにして攻撃
を加えるのは、いずれの側に立つ者をも不快にするだけにとどまるもの
ではない。人種差別、民族差別、障害者差別とおなじく発言そのものが
差別的で、基本的人権を侵害するものであろう。総理といえどもその人
権は犯されてはならない。人の寿命は死ぬときが来るまで誰にも分かり
はしない。人を呪わば穴二つという。呪ってなどいない、カルテを開示
しただけだと言いぬけは出来るだろうが、残る傷害の跡は消えまい。こ
れでは折角の批判をかえって台無しにしてしまう。折角この人による安
倍批判の一切に同意できるとしても、その批判のよって立つ基盤そのも
のを自ら壊してしまう。小気味よく打ったつもりがその矛先は自分の脛
をも貫くことになる。富田メモのときは狼狽する昭和天皇の「こころ」
に、あれほど熱く寄り添うことのできた人が、なぜかくも冷酷になれる
のか、辻褄が合いかねる。

2. ユーモアは議論の潤滑油

 安倍という人は若いからか、シッカリ、シッカリといわれて育ったせ
いか、つまらないことですぐカリカリする人だと聞く。いわゆるすぐキ
レる人らしい。日ごろあまり見ないが偶然国会の情景がテレビに映った。
タウンミーティングでの「やらせ」発言問題で総理の給金から百万円返
上でけりをつけたことについて民主党議員が「カネでけりをつけてすむ
か」と挑発した。案の定首相は途端に「そういう言い方は失礼ではない
か」とキレた。なるほどこりゃ修養足りんなと見ていて思った。キレる
のは痛いところを突かれたことを白状するようなもので逆効果だ。政治
姿勢を批判するのに遺伝子を持ち出したりするのと同じく逆効果だ。

 議論のやり取りで欲しいのはユーモアだろう。それが議論の潤滑油に
なる。双方の無用な敵意の武装を解くからだ。前の首相にはけっして良
質ではないが多少のそれがあった。大抵はひらきなおりの捨てぜりふで
低級ではあったが、なにがしかのそれがあった。小渕首相は「冷めたピ
ザ」といわれてまったく怒らなかった。「レンジで温めればいい」と言っ
たにせよ言わなかったにせよ、いずれにせよ安倍氏もなにか一工夫はあ
りえたろう。

 アメリカの記者がフルシチョフに訊いた。「フルシチョフは馬鹿だ」と
言ったらどういう罪になるかと。フルシチョフは答えた。「国家機密漏洩
罪になる」と。最近アメリカのABCだったかのキャスターがパキスタン
のムシャラフ大統領に訊いた。「ブッシュとビンラディンが取っ組み合い
したらどちらが勝つか」。ムシャラフは即座に答えた。「双方惨敗するだ
ろう」。

 この種のセンスが日本の政治家にはどうも乏しい。安倍氏はとりわけ
乏しい。
 むかしFM放送のはじまった頃のこと、NHK-FMで、ジェームズ・カー
カップという詩人(1918~ )が母国のイギリスをさんざんにやっつけて
いた。British CouncilのことをBrutish Councilだとやっつけていた。
なんと彼が初めて来日のとき東北大学の講師として赴任したのは
British Council の肝いりによるものだった。自国の政府機関をさんざん
にこきおろしているアナーキストの詩人を、その政府機関そのものが財
政的にも支援するなど、なんと心憎い人選ではないか。国そのものがユ
ーモアを十分にわきまえている表れであろう。ちょっと政府の気に入ら
ぬことを放送すると放送局に圧力をかけたりするような、尻の穴の小さ
いこの国の政治家など、鼻くそでも煎じて飲むといいような話だ。つい
でながらカーカップは88歳のはずだが、いまScotsman紙上で健筆を揮
っているJames Kirkupは、はたして同姓同名の別人であろうか。別人
であって欲しくないのが私の願望である。

■ユーモアと寛容

 国に自信があってユーモアを解する、あるいは進んで愛するだけの心
の余裕があれば、法律を作って愛国を強制するような恥ずかしいことは
しないだろう。国民に愛国を催促しなくても愛される国であれば国民は
国を愛するからだ。愛するなといわれても愛するであろうからだ。今上
天皇は大まかに言って国民に、また外国人記者などに愛されているだろ
う。無論戦前戦中の大元帥についての記憶、その先帝の息子であるとい
うようなことにからんでわだかまりのある人もいるだろう。それも人情
として無理はない。

 しかし、大和王権の強かった頃新帝は先帝に反発する場合が多かった。
天皇がいてもいなくてもどちらでもよいという人を含めれば反感を持た
ない人のほうが圧倒的に多いだろう。なぜか。天皇は催促しないし、い
わんや将棋指しの教育委員のように「強制」などはしないからだ。国民
統合の象徴である天皇が国民多数よりよほど民主主義者平和主義者だか
らだ。天皇にならって政府も、強制しない民主主義者平和主義者であり
続けていさえすれば黙っていても国民は勝手に愛国するだろう。強制す
るような国には愛国者が真っ先に逆らうだろう。愛国を強制するのは愛
国者を弾圧することでしかない。

 今上天皇が初めて外国人記者を含めての記者会見をしたとき、最初の
質問者が立ち上がると「座ったままで」と言った。仕切っていた日本の
記者が「立つことに決めております」と言った。天皇の意に逆らって自
分たちの決めたルールを天皇にも強制しようとしたわけだ。天皇は「そ
れじゃ立っても結構です」と即座に譲って一挙に空気はなごんだという。
そのようにCSのテレビで昨年の12月29日に、アンドルー・ホルバー
トという東京経済大学の客員教授をしているジャーナリストでもあった
人が言っていた。これは天皇にユーモアがあることとともに、ユーモア
は自己相対化の知恵であり、寛容とひとつであることを語るものであろ
う。

 北海道伊達市は、ぱかすか箱物を建てて役所を肥大させて、そして誰
もいなくなった夕張市とはちがって、また多くの地方都市自治体とは対
照的に、人の誘致をはかろうなどとしなかった。どこからも歩いてゆけ
る範囲内に人の集まる病院などの施設をつくった。そうしたら自然に人
が集まってきて北海道では唯一つ不動産の価格が上がっているという。
魅力のあるところには自然に人が集まる。このように発想を裏返してみ
る柔軟さもユーモアとひとつである。
 
 「美しい国」は強制してはつくれまい。首相が保守を自称するのなら
ば、保守とは本来が理念の絶対性に信を置かぬものだということを思い
出すべきであろう。常に自己を疑うことを忘れないものだということを。
美しい国などと仇しき理念をふりかざして嵩に懸かることではない。安
倍首相のような過激で好戦的な反革命のロマンティシズムに較べれば、
俗に「革新」といわれる社会党村山首相の「人にやさしい政治」は少し
も破壊的な理念ではなかった。むしろよほど保守的で姿勢の低い心がけ
でしかなかった。桃李不言下自成蹊という。それが本来の保守の指針で
あろう。新首相も成蹊の出身なのだから、そのあたりをよくよく考えて
みるべきであろう。
              (筆者は大阪女子大学名誉教授)
                                                  目次へ