【自由へのひろば】

雲南紀行

篠原 令

 湘南の鵠沼海岸は夏の間、海水浴客で賑わっているが、その一角にひとりの中国人の記念碑が建っている。聶耳(ニエアル)という若い音楽家の碑である。現在、中国の国歌になっている「義勇軍行進曲」もかれの作曲である。そのほかにも「前進歌」「新的女性」「卒業歌」など革命歴史歌曲と呼ばれている多くの抗日戦争歌がある。かれは日本に留学している友人を訪ねて鵠沼海岸で遊泳中、事故で命を落とした。一九三五年、まだ二十三歳の若さであった。
 日中国交正常化後、鵠沼海岸のある藤沢市と聶耳の故郷である雲南省の省都昆明市は姉妹都市になっている。昆明市には聶耳の生家も残っている。日中国交正常化直後は日本を訪れる中国の代表団は必ず鵠沼海岸にやってきて聶耳の碑に献花したものだが、今では訪れる人は稀なのではないか。二〇〇五年には中国のテレビ局が聶耳の生涯を連続劇にしていた。

 二〇一三年の初秋、雲南省の鉱山に投資した友人に誘われて私は久しぶりに昆明を訪れた。以前来たときは雲南省の別称「濆」にもなっている濆池(昆明市にある琵琶湖の半分ほどの大きな湖)の汚染調査と銅の製錬所の視察で、観光らしい観光もしなかったので、今回は鉱山はともかく、世界遺産に登録された麗江やシャングリラに行ってみようと思い昆明から先ず大理へ向かった。大理は大理石の原産地でもある。大理にも洱海(アルハイ)という大きな湖がある。標高二千メートルに位置する湖の西側には蒼山という三千メートルから四千メートル級の19の峰からなる全長42キロの山脈が横たわり、その上を雲がひっきりなしに流れていく。

 大理にはかつて白族の王国が存在していた。唐代には南詔国、宋代には大理国と称していたが、十三世紀に元のフビライの侵攻によって消滅するまで、五百年の栄華の歴史がある。八三六年創建という三塔寺の主塔は今も美しい姿を留めている。雲南という呼称は雲の南の国という意味と聞いたが、標高が高いせいかここへ来ると空が近く感じられる。時々刻々様々に変化する雲に手が届くような錯覚にも襲われる。沿海の都市ではPM2.5によって視界が遮られているが、ここには澄み切った空気と蒼い空がある。

 大きな耳の形をした洱海の東岸には何々鎮といういくつもの村落があるが、その北東部に位置する双廊は有名な舞踏家や作家が移り住むなど、いまちょっとしたブームになっている。湖岸にはプチホテルが点在し、美しい洱海と蒼山を終日眺めることができる。早朝、朝焼けの空に淡いピンク色の雲がたなびく頃、洱海の南岸では寒さにもかかわらず早朝水泳に勤しむ人々の姿がある。
 ここから洱海に沿って北上していけば二百キロほどで世界遺産の町、麗江があり、さらに百数十キロ北上すると理想郷、シャングリラがある。私たちは大理の古城を散策しながら考えた。城内は土産物を売る店が建ち並びツアー客でごった返している。一昨年、麗江を訪れたことのある友人が呟いた「麗江はもっとすごいよ。外人も沢山いるし、もう昔のような素朴で落ち着いた風情はないよ」。そこで私たちは大理から北上せず、真っ直ぐ西に向かってミャンマーとの国境を目指すことにした。

 約三百五十キロで騰冲に着く。そこは現在、観光地として大々的に宣伝されているが、かつて日本軍と国民党軍が死闘を繰り広げた激戦地であった。どんな所なのか、私はもう麗江のことは忘れていた。
 雲南省西部を濆西と呼ぶ。濆西にはチベット高原から三本の大河が流れ落ちてくる。ひとつは金沙江、これは麗江の近く、長江第一湾で大きく東に曲がり、長江(揚子江)となる。平行して流れる瀾滄江はやがてメコン川となり、怒江はミャンマーに入ってサルウィン川となる。私たちは瀾滄江を渡ってまず保山という街で昼食をとった。

 ここも日本軍との激戦地であったが、この辺りだけ平地が拡がり、大会戦を行うことができる地形をしているが、濆西は全般的には山また山の連続で、所々、深い渓谷がある。こんな所でよく戦争をしたものだと感心させられる。雨期には道はぬかるみ、疫病も蔓延したという。大理から騰冲までの高速道路はまだ開通してまもなく、交通量もそれほどないが、時折、ミャンマーナンバーの車を見かける。かつての濆緬公路(ビルマと雲南を結ぶ国道)らしき道が山のあちこちに見え隠れする。濆緬公路は日中戦争の末期、重要な援蒋ルートであった。

 インド、ミャンマーから多くの物資がこの道を通って重慶の国民政府に届けられた。
 援蒋ルートとしては一般にベトナムのハノイと広西省の省都南寧を結ぶハノイルートが有名であるが、一九四〇年に入ってフランスをはじめ西ヨーロッパがドイツの軍門に下ると、日本軍は仏領北部インドシナへ進駐したためこのルートは使えなくなり、ビルマルートの重要性がより増していた。そのため、日本軍は今度は雲南省西部への侵攻を始めるのだが、その前に芦溝橋事件後の日本軍の侵略の軌跡を見てみたい。

 多くの日本人は、特に若い世代は、第二次世界大戦で日本はアメリカに敗れたことは知っていても、実は中国に敗れたのだという事実を知らない。太平洋戦争とも言うがそれは戦争末期の三年八ヶ月の主としてアメリカとの戦争をさした言葉にすぎない。日本は芦溝橋事件から数えれば八年、満州事変から数えれば十四年の長きにわたって中国と戦争をしてきたのであり、戦争当初は勝利につぐ勝利をしていたかのように見えるが、最終的には国民党の中国軍に大敗したのである。
 マスコミも政府もこの事実を何故か隠そうとしている。書店に行き近代史のコーナーを目にしてみるとよくわかる。太平洋戦争に関する本や資料ばかりである。また、東京大空襲や広島、長崎への原爆投下の記録も多い。ところが日中戦争に関する書物は驚くほど少ない。あったとしても芦溝橋事件、上海事変、一九三七年十二月の南京占領あたりで終わっている。日本軍が中国の各都市を無差別爆撃した事実も、日本軍が最期には雲南省にまで侵攻したことなどどこにも書かれていない。その後、一九四五年八月の敗戦の日まで、中国でどのような戦いが繰り広げられていたのか知ろうと思っても詳しい資料をみつけることは困難である。

 安倍首相は二〇一四年の初頭に、日本人戦没者約50万人の遺骨が残る南太平洋の島国を歴訪し、慰霊とともに遺骨収集活動を強化したいと抱負を述べていたが、海外における日本人戦没者は240万人とも310万人ともいわれている。その大半は中国で戦死、病死したというのに、何故中国に慰霊に行くとか、遺骨収集に行くと言えないのだろうか。中国を侵略したことなどないと本当に思っているのだろうか。

 少し年を追って見てみよう。一九三七年七月、芦溝橋事件が起きるとすぐに河北で総攻撃を開始している。いわゆるチャハル作戦である。北京、天津をはじめ内蒙古の一部、河北省、山西省、山東省をあっというまに占領してしまった。そして八月、戦争は上海に飛び火し、中国軍の激しい抵抗にあいながらもこれを撃退した。そして十二月、国民政府の首都である南京への総攻撃が始まり、大虐殺が起こった。当時南京にいた外国人たちの記録からも大虐殺があったことは誰も否定できない。虐殺された人数が三十万であったか、三万であったか、三千であったかはともかく、虐殺があったことすら認めようとしない人々の人間性を疑わざるをえない。

 ここ数年、社会的にそれなりの地位にいる人々が、虐殺を否定しているのを目にすると日本の将来を憂えざるをえない。
 南京を落とせば蒋介石は降参するだろうと考えた日本の目論見は見事に外れ、中国は徹底的な持久戦に入った。三八年に入ると連雲港から徐州、開封を経て甘粛省の蘭州に至る隴海線と、天津から南京に至る津浦線が交わる交通の要害、徐州を占領すべく徐州作戦が始まった。火野葦平の「麦と兵隊」はこの作戦の従軍記である。その行軍の苦しさは軍歌にもなって有名であったが、徐州での大会戦は行われなかった。中国軍が撤退してしまったからである。

 それでも「大勝利」に満足した日本軍は今度は武漢三鎮を目指す。国民政府は早々と首都を重慶に移してしまったが、政府や軍の多くの機関はまだ漢口に残っていた。日本軍は北京と漢口を結ぶ京漢線に沿って南下する部隊と揚子江に沿って西進する部隊の二手に分かれて激戦を交えながらも武漢三鎮を攻略した。そして一方では漢口と広州を結ぶ粤漢線の玄関口である広東も占領してしまった。わずか一年半の間におおざっぱに言ってしまえば中国の右半分を占領したことになる。しかしそれはあくまで点と線の占領であり、広大な「面」まで占領したわけではなかった。だが軍も国民も勝利の幻惑に酔っていた。
 三九年に入ると、これまで占領した地域の治安確保に重点がおかれ、戦略的持久方針がとられたが、その後も侵攻は続いていた。中でも日本の九州ほどの大きさがある海南島を占領する。
 現在、海南島といえば三亜など常夏のリゾート地として、また毎年開かれるアジアフォーラム博鰲会議などで有名だが、当時、海南島を押さえれば中国の海岸封鎖の要になると考えられていた。私は二十年ほど前、海南島の鉱物資源探索のため、島内を隈無く回ったことがある。毎晩、各地の政府が宴会でもてなしてくれたが、その度に蛇や果子狸(白美心)の料理が出てくるのには閉口した。同行したジオロジストたちは平気で食べていたが。当時、海南島の西半分には日本占領時代に敷設された蒸気機関車がまだ走っていた。海口の飛行場はまだ街のど真ん中にあったし、海口と三亜を結ぶ高速道路の建設もやっと始まったところであった。

 海南島といえば文化大革命の時代に「紅色娘子軍」という革命現代バレー劇が大ヒットしていたのを思い出す。「向前進、向前進、戦士的責任重、婦女的怨仇深……」というテーマ曲は今でも歌うことができる。女性だけの軍隊が日本軍や日本軍と結託した土豪劣紳と戦う姿を描いたバレー劇だが、元娘子軍だったというおばあさんにも会った記憶がある。私の大学時代の友人吉田保氏は父親が海南島に上陸した日本軍の兵隊であったと話していたが、どこかで娘子軍と戦ったこともあるのだろうか。高級リゾートホテルが建ち並び、中国全土からも、直行便のある韓国からも多くの観光客がやってくる現在の海南島を看ていると平和の有り難さが身にしみる。

 この年、日本軍が戦略的持久といいながらも各地で大小の作戦を繰り返している間に、日中戦争をめぐる国際情勢は大きな変化をみせていた。日本は天津のイギリス租界を封鎖したことによって英米との関係が悪化していた。また、ノモンハン事件ではソ連に大敗し、ソ連の脅威にも備えなければならなくなった。欧州ではドイツがポーランドに侵攻し、イギリス、フランスとドイツが戦争状態に入った。そして日本の戦力もそろそろ限界に近づきつつあった。
 四〇年に入ると広西省の南寧が中国軍の逆襲を受ける。これを駆逐するため大規模な賓陽作戦が行われた。賓陽は南寧の北百キロほどの町である。

 また、武漢地区でも中国軍の冬季攻勢が始まり、日本軍は四川省の入口である宜昌まで中国軍を敗退させた。また、首都が置かれている重慶への大規模な無差別爆撃を何度も行った。東京大空襲にも匹敵する残虐行為である。華北地方でも共産軍の大反攻、百団大戦が始まり、日本軍は遊撃戦に悩まされた。その報復として日本軍が行ったのが悪名高い「三光作戦」である。「奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす」という剿滅戦を華北の村々で行った。ベトナム戦争時の米軍のソンミ村虐殺どころの騒ぎではない。四〇年の特徴は反撃に転じた中国軍に対して、より残虐な方法で報復するという、日中戦争の泥沼化であろう。

 これだけひどいめにあっているのだから、映画やテレビの番組でいまでも抗日戦争ものが多いのは当然ではないのか。私は四十年ほど前、三光作戦に参加した人から直接話を聞いたことがある。山西省の山奥で作物といえば棗の木しかないようなところで、その棗の木を切り倒し、村民たちを見つければ老若男女すべて殺して井戸に投げ入れ、村に火をつけて焼き尽くしたと語っていた。日本軍が「鬼子」と言って恐れられたのも当然ではないか。人道に対する罪である。

 四一年も華北地方での剿共戦が続く。山西、華北、山東の各地で共産軍とのゲリラ戦が展開されている間、五月には中原会戦、秋には長沙作戦で国民党軍と大会戦を行い、また、重慶、成都への無差別爆撃も行っている。特に重慶では較場口隧道と呼ばれた防空壕に避難した市民四千名が窒息死し、全市では三万人の死者が出てその様子は重慶駐在の各国大使を通じて世界に知らされた。いまでもこの較場口の防空壕には花束が絶えない。

 そして十二月八日、日本はアメリカとの全面戦争に入る。十二月八日というと真珠湾攻撃だけが強調されるが、実は同じ日、日本軍はマレー半島に上陸し、シンガポールを目指して南下した。二五日には香港を占領している。シンガポールでも香港でも、毎年十二月八日が近づくと「三年零八個月」という言葉が新聞のあちこちに見受けられる。日本軍の占領時代を表すこの言葉のもつ響きは重い。
 四二年、日本軍は援蒋ルートを完全遮断するため、イギリス・インド軍、アメリカ・中国軍を破ってビルマを占領した。

 ここに中国軍が登場するが、これはアメリカ陸軍スティルウェル将軍に指揮された中国国民党の軍隊で、中国ではビルマ遠征軍と呼ばれ、その苦難の戦いは多くのテレビドラマにもなっている。又同じ頃、日本はフィリピンとインドネシアを占領している。華北では継続して剿共戦と三光作戦が行われていた。しかし六月のミッドウェー海戦で敗北、八月の米軍のガダルカナル上陸で日本軍はすでに坂を転げ落ち始めていた。

 ところで最近また大きな問題になっている従軍慰安婦問題、日中戦争の資料を探そうと一九七五年、昭和五十年を記念して毎日新聞社から出版された「一億人の昭和史」の第二巻「二・二六事件と日中戦争」第十巻「不許可写真集」を見ていたらそれぞれ従軍慰安婦に関する資料が載っていた。発端は南京侵攻の際の日本軍の各地での強姦事件に困り果てた陸軍本部が発案し、軍直営は体面上このましくないので、すべて御用商人に経営させたが、検診と管理はすべて軍が担当したと明記してある。日本人慰安婦のほかにも朝鮮人慰安婦が数多くいたとある。南京攻略直後にスタートした慰安所は各地につぎつぎに設けられ、日本軍のいるところ必ず慰安所があるということになった。三八年一月に上海の楊家宅に開かれた慰安所第一号の写真も載っているし、広西省欽州市の慰安所の写真も載っている。軍が民間にやらせた以上、軍の関与を否定することはできない。ましてや河野談話を否定することなどもってのほかである。こうした事実を否定しようとする人たちは人間としての恥を知らないのだろうか。

 日本軍が広西省の南寧を占領したのは三九年の十一月だから、その上陸地である欽州にも慰安所が設けられたということは「日本軍のいるところ必ず」という言葉の証明にもなっている。私は欽州にも仕事で何度も行ったことがあるが、いまでも辺鄙なところである。高温多湿で樹木がよく育つというのでパルプの原料になるユーカリの植林地を求めて山また山の中を車で駆けめぐったのだが、見渡す限り一面の険しい山肌に植林のための穴を掘り、肥料をやり、苗木を植え、水をやる、ただそれだけの単純労働だがもくもくと働く人々の根気強さにただただ敬服したのをおぼえている。

 欽州は孫文の「建国方略」で将来発展させるべき七大港のひとつになっていたため、地元の政府は近代的な港湾設備の建設にも力を入れていた。港を見おろす岡の上には巨大な孫文像が建てられていた。港湾を視察に行った途中で、漁師の掘っ建て小屋で食べた海鮮料理の美味しかったことを懐かしく思い出す。
 さて四三年、南太平洋における戦局が敗勢となり、支那派遣軍や関東軍からも兵力が引き抜かれていく中、華北では相変わらず剿共戦が行われる一方、三大殲滅戦が行われた。ひとつは漢口、岳州、沙市の三角地帯の共産軍との戦い、もうひとつは洞庭湖から宜昌に至る国民党軍との戦い、そして湖南省の常徳での国民党軍との戦いである。

 日本軍はかろうじて勝利したが、この頃、中国軍は太平洋で優位に立ったアメリカの支援を受け、アメリカ式装備の中国軍に生まれ変わろうとしていた。日本軍が常に優位に立っていた火力の面でも中国軍が優位に立とうとしていたのである。蒋介石の作戦がやっと効を奏してきたともいえる。つまり日本軍に徹底的にやられながらも、それにじっと耐えていくことによって、やがて米英、ソ連の支援を得て反撃に移り、勝利を克ち取るというものである。歴史学者の加藤陽子さんは「それでも日本人は『戦争』を選んだ」というベストセラーの中で、胡適がすでに三五年の時点で「日本切腹、中国介錯論」という決意を固めていたことを紹介している。日中戦争はそのシナリオ通りに展開されていった。

 さて戦局は最期にどのように移行するのだろうか。
 四四年の初頭、日本軍は援蒋ルートを完全に断つべく、インド領内に攻め込むインパール作戦を開始した。しかし英印軍と中国軍の迎撃で逆に総崩れとなり、死者三万という壊滅的な打撃を受けて退却した。また雲南省西部に侵攻していた拉孟、騰越(騰冲)、芒市、龍陵などの日本軍も九月には相次いで玉砕した。日本軍が玉砕したのはサイパンや、マキン・タラワ、アッツ島だけではない、中国の奥地雲南でも玉砕していた。「一億人の昭和史」(第二巻)にはこれらの部隊に配属された従軍慰安婦の状況が記されている。彼女らは炊き出し、弾薬、手榴弾の運搬、さらには負傷兵の手当までかってでたうえ、ある者は自らは死ぬ勇気がないからと将校に拳銃で射殺してもらい、ある者はわざと敵弾の中に身をさらして自決していった。

 玉砕したのはいずれも日本人従軍慰安婦であったが、彼女らは死の直前「あなたたちは何も日本に義理立てすることはないよ」と朝鮮人従軍慰安婦に投降をうながし、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んだという。日本人従軍慰安婦は誰もがかねてから「私たちみたいなものでも、これでお国のため忠義ができるのだ」と語っていたという。なお、投降した朝鮮人慰安婦たちは昆明にあった米軍管理の捕虜収容所へ送られ、祖国へ戻されたという。

 この間の日本軍と国民党軍の熾烈な戦いを題材にしたテレビドラマがある。「濆西一九四四」といい三十六話ある。日本軍は怒江の左岸に陣を構え、中国軍は怒江の右岸に集結している。濆緬行路に面した松山にトーチカを築いた日本軍を中国軍は繰り返し攻撃するが守りは固く落とすことができない。一方、日本軍の飛行機は中国軍の陣地に空爆を繰り返す。戦局を中国軍の勝利に導いたのはシェンノート大佐が率いるアメリカの航空志願隊、フライング・タイガー(飛虎隊)の登場であった。米国は武器、弾薬、装備を援助しただけではなく、パイロット、航空機まで動員している。

 現在、騰冲市内の飛虎公園に飛虎隊の大きな記念碑が建っている。また、松山の古戦場は「松山戦場遺址」として保全されている。
 ようやく騰冲にたどり着いた。かつて日本軍守備隊の本部が置かれていた所である。あれから七十年近くの時がたち、当時の激戦を思わせるような痕跡はない。新たに開通した高速道路と飛行場、そして世紀金源グループによる大規模な不動産開発によって街中が活気を帯びていた。ミャンマーに近いこの街は中国人が大好きな翡翠の土産物品店が集積し「賭石」といって割ってみないとわからない翡翠の原石を売る店もあちこちに出ている。

 私たちは街を見下ろす丘の上にある五つ星の「世紀金源大飯店」に宿をとった。ホテルの周囲には数百戸はあると思われる戸建て別荘がすでに建っていてインフラも完備している。友人は十年後には完売しているだろうと驚きもしない。ホテルは中国の主に広東など南方の旅行客でいっぱいであった。確かに素晴らしい景色だ。朝、ホテルから眺めると街は雲海に被われ、遠く三、四千メートル級の山々は蒼々として、空気はどこまでも澄んでいる。沿海の大都市に住む人々にとっては羨望の地かもしれない。おまけに温泉まであるのだから。
 騰冲にはいくつもの観光スポットがある。面白いのは行く先々で標識に丁寧に中国語、英語、日本語、韓国語に加えて丸と四角を組み合わせたようなビルマ語の表記がされていることである。日本や韓国の観光客など全くいないように見えるが将来を見越しているのだとすればたいしたものである。ちなみに東北の大連などでは中国語、英語、日本語、韓国語のほかにロシア語の表記がある。北海湿地は四、五メートルの水深がある沼地の上を一面浮き草が被っている。四季折々の変化にも富んでいる。和順古鎮では伝統的な雲南地方の民家が軒を連ね、石畳の曲がりくねった道が風情をかもしているが、ここも表通りの民家は麗江のように軒並み土産物品屋になってしまった。

 熱海景区には泉質の異なるいくつもの温泉が豊富に湧き出て、水着を着用だが温泉気分を味わうことができる。ここのレストランで食べた「餌絲」(アルスー)という麺が絶品であった。雲南といえば米線(ミーシェン)という米で作った麺が有名だが、餌絲も米が原料だが米を蒸した後、臼で挽いて作るという。食感はベトナムのフォーに似ていて美味である。
 街には国殤墓園があり、日本軍との戦闘で犠牲になった国民党の兵士たちが眠っている。

 また、もし騰冲を訪れる機会があれば是非とも見学すべきところがふたつある。「濆西抗戦紀年館」と「中国遠征軍紀年館」である。中国では「記念」ではなく「紀年」を用いる。ふたつは隣り合っているので便利である。「濆西抗戦紀年館」に入ると「碧血千秋」と大書された蒋介石の書が迎えてくれる。民国三十四年とあるから一九四五年に書かれている。「碧血」とは正義のために流された血のことである。孫文の写真や青天白日旗があちこちにあり、ここは台湾かと錯覚させられるほどだ。「中国遠征軍紀年館」には遠征軍に参加した国民党の十余万人の姓名が一人残らず壁に刻まれている。

 共に戦った米軍の兵士たちの名前もある。ここの展示は非常に迫力がある。北京郊外芦溝橋の「中国人民抗日戦争紀年館」や南京の「侵華日軍南京大屠殺紀年館」よりも生々しいというか、武器や軍服などきれいにまとめられていないので当時の戦いの様子が実感できる。朝鮮人や日本人慰安婦たちの写真や資料もたくさん展示されている。ビルマと雲南だけでも日本軍は十万人以上の死者がでている。中国軍の死者もそれに匹敵するだろう。

 戦争が悲惨であることを忘れてはいけない。
 私たちはせっかくここまで来たのだからと、足を伸ばしてミャンマーとの国境まで行ってみることにした。騰冲から北西に七十キロほど行くと猴橋というところに「口岸」がある。口岸というのは外国人や貨物が出入りする開港場をさす言葉であったが、今日では沿海のみならず、内陸の辺境にも設置されている。猴橋口岸には真新しい白亜の税関ビルが建っていた。時折、税関を通っていく車両があるが、税関の中は閑散としていた。私は日本のパスポートを提示してミャンマーに入ることはできるかときくと、ここは第三国人の出入国はできないとの返事。中国の公民はどうかときいたら騰冲の公安局の許可証が必要とのことで、私たちはあきらめて引き返すことにした。しかし濆緬公路、援蒋ルートを実際に中国側の部分だけ走破したことには満足した。昆明からは七百キロをゆうに超えている。戦争とはいえこのような僻地にまで日本軍もよくやってきたものである。南太平洋の島々も何故、という疑問が湧き出るほど日本の本土からは遠くにある。

 そのような見ず知らずの戦地で犠牲になった人々が英霊として靖国神社に祀られているというのだが、これほどまゆつばな話はない。一般に戦争などで不慮の死を遂げた場合、その霊は亡霊となるか怨魂となり、救いを求めて彷徨う。靖国神社はそのような浮かばれない霊がたくさん集まっているところである。安倍首相は慰霊をするというのだが、形式だけの神主や霊界の実態も知らない安倍首相に迷った霊たちを祀ったり慰霊する力はない。坊主も同じである。毎年毎年、盆や彼岸になると同じようにお経をあげ、死者を弔うというのだが、毎年毎年お経をあげても救われないというのはよほど悪いことをした霊ではないのか。もしくは坊主たちの読むお経には死者を供養する力など全くないということになる。

 ろくにお経の意味も知らない坊主が、難しいお経の漢文を棒読みしたところで、死者の霊は何を言っているのか全く理解できないであろう。とすれば神主も坊主も全く無駄なことに時間を費やしていることになるし、安倍首相ごときが死者の慰霊をするなど笑止千万である。東日本大震災で不慮の死を遂げた人々の霊もいま霊界を彷徨っている。これらの霊を救うことができるのはそれなりの霊挌をもった人でなければできない。死ねば誰でも仏になるとか、戦死者は英霊として靖国に祀られるなどすべて戯言にすぎない。

 生前功績のあった人が日本ではたとえば乃木神社であるとか、東郷神社とか神として祀られるケースも多いが、神になるということはそんなに簡単なことではない。戦前の国家神道がそのような信仰を強要したことがあるが、日本国憲法は信仰の自由を認めている。靖国参拝を自らの宗教的信仰のもとに行うというのなら、安倍首相の靖国参拝は明らかに憲法違反となる。日本国憲法第二十条をよく読んでみることである。

 雲南に行き、はからずも日中戦争の激戦地を踏破することになり、日中双方で犠牲者となった人々の冥福を祈る意味もこめてこの雲南紀行を書いてみようと思った。恐らく日本人はこれほど多くの日本兵が中国の奥地雲南で死亡したことを知らないと思う。あの美しい空と雲、山又山の傾斜地に果てしなく広がる棚田の美しさ、日本の原点ともいわれる雲南の生活と食べ物はこれからも多くの旅行者を惹きつけるだろう。だが大理や麗江、シャングリラ、あるいは西双版納や建水を訪れたあとに、騰冲にもぜひ足を踏み入れてほしい。そこで七十年前に何があったのかしっかりと目にしてほしい。重慶や昆明から飛行機で行くことも可能である。いささか変わった雲南紀行になってしまったことはお許し願いたい。

 (筆者は日中ビジネスコンサルタント)


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