【コラム】槿と桜(111)

韓国の医師不足をめぐって

延 恩株

 尹錫悦(윤석열 ユン・ソンニョル)大統領が2023年10月19日に清州市(忠清北道清州市 ソウルより100kmほど南に位置する)忠北大学(国立大学の一つ)での「必須医療革新戦略会議」に出席し、医療サービスの供給と利用システムを立て直し、地域医療を回復させ、超高齢社会に備えるため、医療人材の育成が必要として大学医学部の定員を拡充すると述べていました。
 また、その2日前の10月17日には、曺圭鴻(조규홍 チョ・ギュホン)保健福祉部長官は医師不足により救急患者のたらい回しなどが各地で起きている事態を重く見ていて、医師の増員はもはや先送りできないと、保健医療政策審議委員会の医師不足に関する専門委員会の席で述べていました。
 そして、10月26日に「地方および必須医療の革新推進計画」を発表し、2025年から大学医学部の定員を拡大すると発表しました。急速に高齢化社会に向かっている韓国の現状を見れば医療への依存は増加しますし、医療人材の育成を放置すれば医師不足は深刻度を増すばかりでしょう。すでに医師不足により救急患者のたらい回しなどが各地で起きているのですから医学部定員増の方針は当然だと思います。
 ちなみに2022年の保健福祉部の資料では、救急救命室に来院した患者のうち治療が受けられず、他病院へ転送された「たらい回し」は12万7355件で、その半数の6万2203件が専門医不在などの「処置不可」のためだった(2023年7月8日「KOREA WAVE」)そうです。

 一方、日本では、1997年以降、医師過剰を防ぐために医学部の入学定員を抑制しましたが、その影響が出て医師が不足し始め、2008年から医学部の入学定員を増やしました。その結果、医師数は改善されてきていますが、人口1,000人当たり医師数は、OECD(経済協力開発機構、世界38カ国)の平均が3.5人に対し日本では2.4人(韓国では2.2人)で依然として医師不足状況です。さらに医師の数に地域格差(都市部に医師が多い)があり、医師不足の診療科にも偏りがあります。日本では「麻酔科」「内科」「救急科」「整形外科」「呼吸器内科」などが慢性的に不足しているとのことです。
 そのため、地域医療の充実などを含めて、日本では医師増員について大学の医学部定員を一定程度増やすことに反対する意見は、少なくとも私は耳にしたことがありません。

 ところが、韓国では違うのです。
 尹大統領は冒頭で記した「必須医療革新戦略会議」で、「産婦人科や小児科など必須分野に人材が回るようにする。医療従事者の法的責任の緩和や補償体系を改編する。医療格差の解決策として国立大学病院を必須医療の拠点とする。重症患者治療体制の強化等をすると」し、さらに「現場の医療関係者、専門家と意思疎通を十分に図る」と発言していました。
 この尹大統領の発言趣旨から韓国の医療界には種々の解決すべき課題が多いことがわかりますが、これらの課題は本来、大学医学部の定員増と連動させなくても実行すべき内容ではないでしょうか。
 医師を増やすためには、どうしても大学医学部の定員を増やすことが必要です。でも韓国にはそれがスムーズに実行できない事情があります。しかも学生を指導する大学側の受け入れ体制の問題ではないのです。
 その事情は、曺圭鴻(チョ・ギュホン)保健福祉部長官が10月17日の保健医療政策審議委員会の医師不足に関する専門委員会の席で、保健福祉部と大韓医師協会はこれまでに14回、議論を重ねてきたが、医学部の定員に関する議論は進展しなかったと述べていたことから理解できます。
 大学医学部の定員増に大韓医師協会が大きく関わっていることがわかります。
 曺保健福祉部長官は医師協会にも協力を求め、政府として医師の再配置、医療報酬の引き上げ、医療事故発生時の負担緩和など医師協会からの提案を進めるので、医師不足に対する具体案の提示を求めていました。

 この大韓医師協会の反対意向がどれだけ強いのかは、保健医療政策審議委員専門委員会が開催された同じ10月17日に緊急医療界代表者会議を開いたことからもわかります。この会議では、政府が医療界との意思疎通なしに一方的に医学部入学定員拡大案の発表を強行すれば、医療界との信頼関係は崩れ、全面ストライキも辞さないという姿勢を示しました。
 日本に長く住む私から見ますと、このような医師協会の強硬姿勢はとても理解できません。「医は仁術」という言葉が思い浮かびます。もともとは中国の唐代からあった言葉で、もちろん韓国でも同様に「의는 인술이다.인애의 마음을 근본으로 삼고 사람을 구함으로써 뜻이 되어야 한다」(医は仁術。愛の心で人を救うことが使命)と言われています。医者の使命が崇高であること言っていて、その通りだと思います。
 それだけに大韓医師協会が大学医学部の定員増について自分たちの意見を押し通すためには手段を選ばずという姿勢でいるのですから、今の韓国では「医は仁術」という言葉がどこに行ってしまったと思わずにいられません。

 それでも尹大統領が大韓医師協会の意向を可能な限りくみ上げ、慎重に進めるのは、前例があったからです。文在寅(문재인 ムン・ジェイン)前政権時代にも大学医学部の定員を増やす方針を示しましたが、大韓医師協会が強硬に反対し、全国の医師の25%が参加するストライキまで強行しました。当時はコロナ襲来中で、そのようなときにストライキを実行したのですから、大韓医師協会には確かに「医は仁術」は消えていたのでしょう。
 当時の文在寅前政権はコロナ対応を最優先すべきとの判断から大韓医師協会との対立を避け、定員増案をいったん引っ込め、保健福祉部と医師協会がコロナの終息後にあらためて医学部定員増問題を議論することで合意しました。
 現在の尹政権はこの合意に基づいて、両者の協議を通じて定員増規模を決める方向で動き始め、福祉部と医師協会は今年1月に医療懸案協議体を立ち上げました。それが上述した曺保健福祉部長官の「保健福祉部と大韓医師協会はこれまでに14回、議論を重ねてきた」になるわけです。

 それにしても文在寅前政権時代にストライキを強行したときに大韓医師協会傘下の医療政策研究所が「あなたの生死を分ける重要な診断を受けなければならない時、『学生時代に全校1位となるために必死に学習した医師』と『実力ははるかに劣っていて推薦制で入学した公共医学部の医師』のどちらの医師に診療を受けたいか」と広く人びとに問いかけたことには驚きを超えて呆れるばかりです。この異常なほどのエリート意識と差別意識を持つ医者が韓国には多いのかと思うと悲しくなります。
 医師協会に所属する医師全員がこのように考えているとは思いたくありませんが、この協会内部から反対意見が出なかったようですので、このような組織と大学医学部定員増を交渉しなければならない尹大統領もさぞかし大変だったろうと思います。
 結局、冒頭の尹大統領の「必須医療革新戦略会議」での発言から1週間後の10月26日に大学医学部の定員増を政府が公表しました。

 ところで尹大統領が出席した「必須医療革新戦略会議」の「必須医療」とは何か、日本ではあまり使われない言葉ですが、私はこの言葉にも韓国の医療界が抱える大きな問題があると思っています。
 この「必須医療」とは、内科、外科、産婦人科、小児科を指し、これらの専門領域が医師たちから敬遠されてしまっているのです。地域での医師不足でも同じ問題が起きてしまっていて、「たらい回し」につながっています。

 なぜ敬遠されてしまうのでしょうか。その理由は簡単です。
 勤務状況が厳しいからです。必須医療分野の医師の多くが勤務時間は長く、病院医であれば1年で100日も当直に回されたり、きちんと休みも取れずそれに見合った報酬が受け取れない等々から成り手が減少しているのです。

 一方、収益性が高く、医療上の法的責任が問われることが少ない皮膚科、眼科、整形外科には医師が集中しています。私が疑問に思うのは病に必須と非必須があるのだろうかということです。病んだ人にはどの病気であっても深刻であり、それを治療し治すのが医師の役目だろうと思うからです。医療従事者による功利的な判断から医療領域に偏りが生じていることに大きな違和感を覚えます。ここにも「医は仁術」の精神が遠くに行ってしまっている韓国の医療事情が透けて見えます。日本には「医は算術」という言い方があるようですが、日本どころではない韓国医療界の「医は算術」の象徴的現象が「たらい回し」なのでしょう。

 もちろん、医療従事者の身勝手さだけを批判することはできません。医者も人間ですから易きに流れがちになるのは理解できます。こうした歓迎できない現状を変えていくためにはこれまでの韓国の医療体制を抜本的に変えていかなければならないのは当然ですが、おそらく医療体制だけでなく韓国社会が抱えるさまざま問題とも繋がっているはずです。

 尹大統領の大学医学部定員増は単に定員を増やしただけでは解決しないでしょう。これをきっかけに今後、さまざまな方面から建設的な意見や提案が出されるでしょうから、それらに真摯に耳を傾け、尹大統領には大学医学部定員増をとっかかりとして韓国医療界にメスを入れ、大きな変革を断行していってもらいたいと思っています。

大妻女子大学教授

(2023.12.20)
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