【コラム】槿と桜(118)

韓国の大学医学部の定員増紛糾その後

延 恩株
 
 韓国教育部が毎年実施する小・中・高校生が将来希望する職業についての2023年度調査結果では、医師が小・中学生では2位、高校生では5位だったとのことです。ちなみに小学生の第1位は運動選手、中・高校生の第1位は教師でした。教師、医師とも社会的地位は高く、医師になるには教師以上にハードルが高いという現実的な判断が高校生では医師希望者が第5位に下がったのでしょう。
 それでも医師希望者が多いのは、社会的地位だけでなく高収入という理由も大きいと言われています。そのため小学生が通う塾には「医学部クラス」がありますし、学校での成績が良ければ「医学部」受験が当然と本人はもちろん、保護者や周囲の人たちも思うようになります。
 韓国が大変厳しい競争社会であることは日本でもずいぶん知られてきていますが、韓国ではSKY(ソウル大学、高麗大学、延世大学)合格者が熾烈な受験競争の最上の〝勝ち組〟と見られます。でも、このSKYより難関なのが「医学部」ですから、合格すれば〝勝ち組の中の勝ち組〟になるわけです。
 
 ところで、韓国には医学部(医学専門大学院を含む)を持つ大学が現在、40校ありますが、その定員数は合計で3058人と1998年以降増員がなく固定されてきていました。
 社会変動が激しい現代社会で25年以上も定員数の見直しが行われなかったことは異様とも言えます。ですから文在寅前大統領時代の2020年に「10年間で医学部の定員を400人拡大する」という政策を打ち出しましたが、医師たちの猛烈な反対から実施を断念していました。
 一方、尹錫悦大統領は2024年2月6日に「必須医療政策パッケージ」の一環として、医科大学の定員を2025年から2029年まで、年間2000人増員すると発表しました。この「必須医療政策パッケージ」とは、救急、外科、感染、産科などの生命と直結する分野の医療を指しています。これらの医療が高齢化、医療分野の偏向、地方医療忌避などによって、患者のたらい回しや地域による医師不足が深刻化してきていました。こうした状況を打開する目的から「医療人材の拡充」「地域医療の強化」「医療事故のセーフティネット」「公正補償」という、本来ならずっと以前から取り組まなければならなかった医療界の課題を解消するための4つの大きな改革案を打ち出したわけです。そのためにはまず何よりも韓国の医師不足の解消こそが緊急に取り組むべき課題として、医科大学の定員増を政策の一つとしました。
 前政権では「10年間で400人増」でしたが、今回は毎年2000人増やすというのですから医療界に猛烈な反発が起こり、保健福祉部によれば、さまざまな抗議活動のうちの一つとして、2月23日時点で韓国の主要病院の専攻医(日本の「研修医」にあたる)のうち8897人が辞表を提出し、これは専攻医の7割を超えていたそうです。
 韓国の病院における専攻医が担当する医療業務の比重は大きく、専攻医が職場を離れれば、大きな支障が生じますから、政府案への対抗手段としては強烈でした。そのほかにもさまざまな抗議活動が展開され、医療界と政府との協議も繰り返し行われてきましたが、結局物別れに終始していました。
 しかし、こうした対立構造の中で、国民は政府の医学部の入学定員増方針を支持し、8割近くが賛成していました。また抗議行動を起こした医師たちを厳しく罰するべきだという意見も4割を超えていました。地方の医師不足や内科、外科、救急医療、小児科、産婦人科などの専門医が不足していることに国民が危機感を持っていたとがわかります。
 結果的には、過激な行動をとった医師たちに冷ややかな目を注いでいた国民が多かったことが政府を後押しした形になったようです。
 2024年5月24日付の『聯合ニュース』は、韓国大学教育協議会が24日に大学入試選考委員会を開き、全国39の大学医学部の募集人数を含む2025年度の大学入学選抜方法の変更事項を承認し、1998年以来27年ぶりに大学医学部の定員増が確定したという記事を掲載していました。
 この韓国大学教育協議会(正確にはこの協議会の中に設けられた「大学入学選考委員会」)は、市・道の教育監(教育行政の執行機関で住民の直接選挙で選出され、教育行政の権限を集中させ、教育行政の独立性を担保する)、大学総長、高校校長、保護者代表ら21人から構成されています。
 この大学医学部定員増承認によって、2025年度の医学部の募集人数は、これまでの3058人から1509人増え、40大学合わせますと4567人となります。
 政府は上述しましたように、大学医学部の入学定員を3058人から2000人増やすとしていましたが、医学界の強い抵抗と教育の質の低下を懸念する声があったことから25年度の入試に限って政府が決めて、各大学に割り当てた定員増分の人数の50%以上で大学側が自主的に調整して募集することを可能にしました。その結果、政府の当初の定員増分より491人減少しました。
 
 この変更された募集要項はすでに各大学から公表されていて、教育部としては受験生と保護者のためにも募集要項の公表後は撤回することはできないとしています。
 またこれに先立って、大学医学部の定員増に反対して、医学部教授や専攻医たちが保健福祉部長官と教育部長官を相手取って定員変更などの差し止めを求めてソウル高等裁判所に訴えていました。しかし、2024年5月16日にソウル高裁は執行停止申立てを却下しました。これはソウル行政裁判所に執行停止を訴え却下され、上告していた結果でしたので、医療界側の主張は重ねて否定されたことになります。
 この判決を受けて、韓悳洙(ハン・ドクス 한덕수)首相が同じ5月16日に国民に向けて、司法の賢明な判断に謝意を示し、政府が進めてきた医学部定員増と医療改革での混乱の山場を越え、2025学年度の大学入試関連の手続きを速やかに終了するといった内容の談話を発表したのは、政府としては一段落ついたとの思いがあったからなのでしょう。確かに今回の判決で、政府が進めてきた医学部定員拡大や医療改革の方針は事実上、確定したとみていいと思います。
 
 今回の定員増をめぐる政府と医療界の対立、そして多くの医師たちの辞職という極端な行動は医師という職業のモラルの問題があまりにも当事者たちには認識されていなかったのでしょう。もちろん「医は仁術」として患者優先の立場から今回の騒動に加わらなかった医師たちも多くいたことは言うまでもありませんが。
 また、小児科、内科、外科、産婦人科、救急医療といった医療分野を敬遠し、皮膚科、眼科、美容整形外科といった分野に進む医師が多いのも気になります。なぜこのようなことが起きるのか理由は簡単です。政府が決めている「必須医療」では一定の料金しか受け取れないため、保険適用外の施術などで多くの診療報酬が得られる分野が好まれるからです。さらにもう一つ、医療事故が少ない分野に進み、リスクを減らそうとするからでもあります。ここには韓国の国民健康保険制度での医療報酬の仕組みや医療事故への対応制度を整備し、医師を守るための改善も求められています(政府も改善への取り組みを始めていますが)。
 さらに冒頭に示しましたが、子供たちが医師になろうと希望する動機が社会的地位や高額な給与が得られ、社会での勝ち組になれるといった捉え方が強い(これには親の思いも大きく関わっているはずです)のも気になります。
 「医は金術」ではなく「医は仁術」といった医師としての使命感や職業倫理感について、子供の時から教育し、社会全体で医師のあり方について問い直すときに来ているのではないでしょうか。
 単純に医師を増やせば全てが解決するわけではない課題が韓国の医療界には多く残されているようです。
 その意味では、医療界の改革、改善のために基本方針にブレを生じさせなかった尹政権の今後を見守りたいと思います。
 
 大妻女子大学教授

(2024.7.20)
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