【コラム】槿と桜(39)

韓国人の口癖?――「精神がない」「早く早く」

延 恩株


●「精神がない」
 日本では「愛校精神がない」「サービス精神がない」などとは言いますが、いきなり「精神がない」とはあまり言わないと思います。ところが韓国ではこの「精神がない」がかなりの頻度で多くの人に使われています。

 韓国で使われている「精神」(정신 チョンシン)の意味は日本とほぼ重なり合います。たとえば「精神力」(정신력 チョンシンニョク)、「精神年齢」(정신연령 チョンシンニョルリョン)、「ハングリー精神」(헝그리 정신 ホングリジョンシン)などのようにです。また日本で「健康な身体に健康な精神が宿る」と言いますが、韓国にもまったく同じ「건강한 신체에 건전한 정신이 깃든다」(コンカンハン シンチェエ コンジョンハン ジョンシニ キットゥンダ)があり、意味も同じです。

 ところが韓国ではこの「精神」(정신 チョンシン)に「無い」(없다 オプタ)がつきますと、日本語とは異なる意味で使われることになります。たとえば「彼は読書で〝精神がない〟」とか「忙しすぎて〝精神がない〟」などと言います。日本語ではこのような使い方はありません。日本語でしたら「彼は読書に夢中だ」「忙しすぎて目が回る」といった表現になるのでしょうか。

 いつ頃からこのような意味で「정신이없다 (チョンシニ オプタ)、「정신이 없어」(チョンシニ オプソ)、あるいは「이」を省略して「정신 없다」(チョンシン オプタ)、「정신 없어」(チョンシン オプソ)が使われ始めたのかわかりません。使う頻度も個人差があって、私の母はよくこのフレーズを使いますが、私は母ほど使いません。

 この「精神」という言葉は中国から伝えられたもので、「精」と「神」の合成梧のようです。「精」には〝純一、精髄、精力〟といった意味があり、「神」には〝優秀、精力、集中〟などといった意味があります。ですから「精神」にはもともと〝優れた力、純正、エネルギー、集中力〟という意味合いが込められていたと考えて良さそうです。もっとも現代では「精神」に対する「物質」といったように中国から伝えられた古来からの概念より広がって使われていますから、韓国人が使う「精神がない」では、むしろ古来からの概念で考えた方がわかりやすいようです。

 さてそこで「精神がない」ですが、〝優れた力、純正、エネルギー、集中力〟が「無い」ことを表現するわけですから、結果的にそうした心理状況になったときに、かなり許容範囲を緩やかにして多くの人びとに使われてきたものと思われます。

 たとえば「忙しい」「焦る」といった状況や場面では、おそらく気持ちに集中性を欠き、力を存分に発揮できないわけで、冷静に物事に対処できないことから「精神がない」となるのでしょう。また混雑して落ち着かない公共の場所や心落ち着かなくさせる行為にこのフレーズが使われるのも、好ましい精神状態が奪われたという意識が生まれるからでしょう。さらには心理面で心配事や収拾のつかない事態に直面したとき、ゆとりを失い、混乱し、パニックに陥って、純正な判断ができなくなるわけですから、やはり「精神がない」となるのだと思います。

 これまで韓国語としてあまり意識せずに使ってきた「精神がない」ですが、日本語では同様の使い方をしないことからあらためて考えてみますと、中国から伝えられた「精神」の原義を踏まえているようです。そうなるとこの「精神がない」が韓国流に使われ始めた歴史は案外古いのかもしれません。

 ちなみに複数の韓国語辞書で「精神がない」を見ますと、〝慌ただしい、落ち着かない、気がせく、無我夢中、平静ではない、わけがわからない、目が回る〟といった解釈がつけられています。

●「早く、早く」
 〝韓国の人は民族的にせっかちなんですか〟と訊かれることがあります。〝なぜですか〟という私の反問には、決まったように〝だって「빨리 빨리 パルリパルリ」(「早く早く」)ってよく言うでしょう〟がその返事です。

 なるほど韓国へちょっと旅行に出かけた程度では気づくことは少ないようですが、韓国人と親しくつき合ったり、韓国に長期滞在していると、確かに「빨리 빨리 パルリパルリ」はよく耳にします。たとえば、
 「빨리 해주세요」(パルリ ヘジュセヨ 早くしてください)
 「빨리 가자(パルリ カジャ 早く行こう)
 「빨리 가져와(パルリ カジョワ 早く持ってきて)
等々です。

 ところで韓国語の「早く」には日本語と同じように時期、時刻に時間がかからない「早い」と、動作、行為などが時間的にさらに短縮される「早い」の区別があり、表現も異なります。前者の形容詞は「이르다」(イルダ)、後者の形容詞は「빠르다」(パルダ)で、副詞では前者が「일찍」(イルチック)、後者が「빨리」(パルリ)となります。たとえば次のような使い分けになります。
 빨리 일어나. 일찍 안 자니까 못 일어나는거야.(早く起きなさい。早く寝ないから起きられないのよ。)
 ただし「빠르다」は「時期、時刻が早い」ことを表現する場合にも使うことがあります。

 「韓国人はせっかち」の証拠とされる「빨리」(パルリ)は、副詞ですので動詞と結びつきます。しかも自分に言うより相手に使う場合が多いようです。そのため相手からすれば〝急かされる〟印象を強く持つことになります。実際そうした効果を期待しての副詞なのですから。つまり「빨리」( パルリ)が副詞であるために、言われた当人はその行為を早く行わなければならないという強迫感や、煽られる感じになるのだと思われます。

 日本に比べて「早く」という副詞が韓国人の口から飛び出す回数は多いように私も思います。ただこの「빨리」(パルリ)、比較的遠慮する必要のない気を遣わなくてよい相手に用いられる場合が多いと言えます。ですからもし韓国人から「빨리」(パルリ)がついた行動を促す言葉を投げかけられたとしたら、相手は自分を親しい、気の置けない人物と見ているのだと判断して間違いないでしょう。

 そのような人間関係であれば、こちらの対応もそれに合わせればいいわけで、あまり真正面から受けとめ過ぎなくてもいいように思っています。
 「빨리」(パルリ)という表現から「韓国人はせっかち」と私があまり思わなかったのは、私自身が相手から言われた「빨리」(パルリ)を軽く受けとめているからだと思います。私にこのように言った相手も「빨리」(パルリ)が確実に実行されることにはあまり期待していない場合が多いのです。私が相手に言っても同様です。

 ただ「빨리」(パルリ)に関わるのかもしれませんが、日本の生活にすっかり馴染んでしまった私は、韓国に戻るたびに周囲の動きについて行けない事がたびたび起こります。韓国に住んでいる韓国人は誰もが急いでいるようで、〝せわしない〟という言葉がピッタリなのです。今から45年ほど前に日本では〝狭い日本、そんなに急いでどこへ行く〟という全国交通安全運動の標語がとても流行したと聞いたことがあります。現在の韓国はまさに交通安全だけでなく、日常生活すべてで〝狭い韓国、そんなに急いでどこへ行く〟と呼びかけたくなるほどです。

 現在の韓国には〝ゆとり〟がないように感じます。特に都市部に住む人びとにその傾向が強いようです。まるで時間に追われているようです。日本でも朝の通勤時間帯には目的地に向かう足早の沈黙の人びとを多数見受けます(私もそのうちの一人です)が、韓国では通勤時間帯だけではありません。

 なぜそうなのか理由はいろいろあると思います。ただはっきり言えることは「せっかち」と映る現象は民族性ではないだろうということです。私が思うに、むしろ「急がず、慌てず」こそ本来の民族性に近いのではないでしょうか。

 といいますのは、私も来日してそれなりの期間は相手の動作に対して「빨리(パルリ)빨리(パルリ)」とよく思ったものでした。ところがいつ頃からか日本の生活ペースに馴染んで、車なども猛スピードで走らない方が事故発生の確率も減って安心だと思うようになっていました。もし「せっかち」が民族性だとするなら、このような変化は私の中で起きなかっただろうと思っているからです。

 それにもかかわらず「빨리(パルリ)빨리(パルリ)」になるのは、韓国では競争意識が異様に強い社会になっているからだと思います(日本で生活している者としての単なる感想でしかありませんが)。他者と比較し、競争意識を適度に保持することは物事の前進を促すエネルギーになり大切です。でも日本と比較すると韓国のこの競争意識は異常です。私はこうした状況を良いとは思いませんが、批判するつもりもありません。現在の韓国では異常なほど強い競争意識を持ち、他者より前に出ようとしなければ落伍者になってしまう可能性が高いからです。

 また異常な競争意識を生み出す要因の一つに多様な価値観が育ちにくい社会にもなっているからだと思います。たとえば18歳人口の大学進学率は日本ではようやく50%に届いたばかりですが、韓国では80%近い割合です。高校生の目指す進路はひたすら大学だけといった観があります。しかも目指す大学は有名国公立・私大が圧倒的多数を占めます(結果的に入学を果たせるのはごく少数者です)。これほど一流大学を目指す最大の理由は一流企業への就職、つまり成功者への道がかかっているからです。

 韓国では社会人になる年齢に近づくほどに選択する道が狭まってしまっていて、成功者となる人はますます少数になってしまうのです。

 がむしゃらに働かなければならないと思わざるを得ない社会では、1日は24時間以上必要なのかもしれません。「빨리(パルリ)빨리(パルリ)」とつい言ってしまうのもわからないわけではありません。でもその一方で、余裕やゆとりが失われてしまっています。

 韓国は1945年以後の日本の国作りのあとを追いかけ、追い越そうとしてきて、まだその意識は消えていません。でも現在の日本を見ればわかるようにひたすら経済成長を追及する社会ではなくなってきています。もし韓国が日本に学ぶつもりならば、一般の日本人が現在、日々の生活面や身近な将来に向けて何を望んでいるのか見るべきです。実は少子高齢化社会、雇用、賃金格差、福祉、女性の地位、子育て等々、抱えている問題は韓国とさほど変わらないのです。

 それでも訪日した韓国人の多くが日本では時間がゆっくりして、ざわついていないと感じるのはなぜなのか、韓国人は一度、歩みを止めて考えてみる必要があると思います。

 「韓国人=「빨리(パルリ)빨리(パルリ)」=せっかち=民族性」と見られてしまう現在の韓国が本来の民族性(だと私は思っている)「慌てず、急がず」に戻り、落ち着いた、成熟した社会になることを待ち望んでいるこの頃です。

 (大妻女子大学 准教授)

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