【コラム】
槿と桜(56)

韓国語と漢字

延 恩株


 日本人が使う言語を「日本語」と呼ぶように、朝鮮民族が使う言語は「朝鮮語」と呼ばれます。でも現在、朝鮮民族は3つの国に分かれて生活しています。「大韓民国」(韓国)「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)、そして「中華人民共和国」(延辺朝鮮族自治州)です。
 でも「大韓民国」では、朝鮮語ではなく「韓国語」と呼んでいます。日本でも、韓国と国交を結んでいますから、最近では「韓国語」と呼ぶのが一般的で、それが定着しているようです。
 ですから、私が今さら言うのもおかしいのですが、これからお話しするのは、韓国の言語政策、言語事情に基づいてのことになります。今回は韓国語のなかの漢字語について少し考えてみようと思います。

 韓国には「ハングル世代」という言葉があります。大きな枠組みでは1948年に韓国(大韓民国)が建国された後に生まれた韓国人はすべて「ハングル世代」です。なぜなら建国と同時に「ハングル専用法」が制定されて公文書はすべてハングルで表記することが法律で定められたからです。でもこの時代はまだ漢字教育が完全に廃止されたわけではありませんでした。その後、朴正煕(박정희 パクチョンヒ)大統領(1963~1979年)が1967年に「漢字廃止五年計画」を出し、1970年以降、漢字使用を禁止しました。
 そのため1970年以降に中学、高校生になった若者たちは、まったく漢字教育を受けなくなりました。韓国ではこの時代以降の人びと、つまり現在、60歳以下の韓国人は確実に漢字を知らない「ハングル世代」といえるのです。

 したがって私も間違いなく、漢字を知らずにハングルだけで教育を受けた韓国人です。ですから、もし日本へ留学しなかったら、私は漢字を知らないまま、今も韓国で生活していたに違いなく、このような漢字をめぐる文章など書けなかったはずです。
 私が漢字を知らなかったとすれば、韓国語の語彙は大きく分けて、朝鮮民族として古くから使い続けてきた固有語、漢字文化圏として中国から伝えられた漢字語、歴史的にはかなり新しい時代に入ってきた外来語であるということは知識としては理解していたでしょう。でも日常、韓国語を読んだり、話したり、書いたりしているときに、ハングルの中に漢字語が出てきても、すぐに漢字が思い浮かぶなどということは決してなかったと思います。それどころか、どれが漢字語なのかもわからなかったかもしれません。

 たとえば、現在、日本ではたくさんのペットボトル入りお茶が販売されていて、ウーロン茶もその一つです。でもこのお茶を飲むときに、もともと中国から入ってきた「烏龍茶」(WuLongCha)という漢字で表記されるお茶、などと意識しながら飲む日本の方はほとんどいないと思います。すっかり日本語になってしまっていて、漢字があることなど意識しなくなって「ウーロン」になってしまっています。韓国人がハングルを使っている時もほぼ同じような状況なのです。

 そのような言語感覚だった私が日本へ留学したのですから、漢字の学習がいかに衝撃的だったかはわかっていただけると思います。なにしろ「わたしのなまえは연은주(よんうんじゅ)です」という言語生活をしてきた私が「私の名前は延恩株です」に変えなければならなくなったのですから。
 いかに漢字を学習するのが大変だったかは省略しますが、日本でのひらがなまじりの漢字表記に慣れるにしたがって、漢字が表意文字であることに新鮮な驚きを覚えたものでした。漢字1字ごとに意味を持つ表意文字(正確には1字ごとでは「表語文字」と呼ぶようですが)と音で意味を伝える表音文字の組み合わせの日本語は、単語そのものの意味を知らなくても、漢字の源義がわかっていれば、おおよその内容が理解できることがわかったからです。
 でもハングルは表音文字ですから、その発音がどのような意味なのかを知らなければ理解できません。留学以前、漢字を知らなかった私はハングルと漢字を結びつけて考えることがなかったのです。

 ところが日本で漢字を学んだことで、ハングルだけで表記される文章表現も実は漢字は見えなかっただけで、日本語の漢字とひらがなの組み合わせとまったく同じだったことが実感として理解できるようになっていきました。たとえば、日本語のひらがなで「こくみんせいかつの きんとうな こうじょう」と表記された場合、「きんとう」と「こうじょう」の意味は、ちょっと考えないとわからない人もいるのではないでしょうか。当然、私は即座には理解できません。ところが「国民生活の均等な向上」と漢字が現れると、「均等」は「平均的で等しい」であり、「向上」は「上に向かっていく」という意味だと漢字によって理解できます。

 日本へ留学する前の私は「국민 생활의 균등한 향상」と表記されたハングルには「國民生活의 均等한 向上」という漢字が隠されていることを知らなかったというわけです。漢字を知ったがための新しい発見でした。それと同時に同じ漢字文化圏だっただけに、なんだかずっと損をしてきたような思いに襲われたことが思い出されます。
 でも見方を変えれば、韓国語を学ぼうとする日本の方には、ハングルだけの韓国語の文章の裏には、実は漢字が隠されているわけですから、この漢字をフル活用して韓国語を学ぶことができるわけです。漢字を知る日本の方にとって韓国語が学びやすいという理由は、文法的に似ているというだけではないのです。

 現在、韓国では漢字は基本的には使われません。ですから韓国のどの街を歩いていても、漢字を目にすることはめったにありません。でも時には使われることもあります。その代表的な例が姓名です。そのほか音だけではいくつもの意味が考えられて、間違える可能性が高いと判断されるようなときに敢えて漢字で表記されることがあります。さらに商店や商品名などにも使われる場合があります。

 このように日常生活からはハングルによって見えなくなってしまった漢字ですが、漢字語がなくなったわけではありません。実は韓国語の語彙に占める漢字語の割合は驚くほど多いのです。数字的には多少ばらつきがありますが、およそ70%ほどが漢字語だと言われています。これが医学や法学その他の専門用語になりますと、当然、漢字語の割合はもっと高くなります。

 それでは韓国の漢字と漢字語について、以下に少し整理してみましょう。

 ◯韓国の漢字は、画数が多い旧字体です。日本でも1945年以前は使われていたようですが、現在、日本で使われている漢字は中華人民共和国で正字として使われている簡体字とも違いますから、韓国では「日本漢字」(일본한자 イルボンハンザ)と呼びます。たとえば、韓国では、
  韓国→韓國、会社→會社、団体→團體、恋愛→戀愛
といったようになります。

 ○韓国の漢字は、日本のように音読み、訓読みという2通りの読み方はありません。日本的に言えば音読みだけです。そのため漢字1文字は、必ずハングル1文字に置き換えることができます。たとえば「山」は、日本語では「さん」「やま」の2つの読み方がありますが、韓国語では「산 サン」だけです。

 ○韓国の漢字は、おおまかに言えば、中国語、日本語、韓国独自の意味を持つ語の3種類が混在しています。たとえば、
・「안녕하세요」(アンニョンハセヨ)は、「こんにちは」「こんばんは」「おはようございます」といった意味で、日本でも比較的知られていますが、「안녕 アンニョン」は「安寧」という漢字です。この漢字は中国語、日本語にもあります。でも「こんにちは」「こんばんは」「おはようございます」という意味では使いませんから、韓国独特の意味になっていると言えるでしょう。

・「환전 換銭(ファンジョン)」は日本語では「両替」の意味として韓国では使われていますが、日本では「換銭」はありません。これは中国語がそのまま韓国語の漢字語として定着したものです。同様に日本語の「部屋」を意味する韓国での漢字語が「房(방 バン)」なのは、これも中国語だからです。もっとも日本でも「書房」「左・右心房」「独居房」などと、部屋のようなものを指すときに使わないわけではありませんが。

・そのほかに韓国で独自に造語された漢字語もあります。たとえば、
 「名銜(명함 ミョンハム)は名刺、「洋襪(양말 ヤンマル)は靴下です。
 さらには中国語としての漢字や日本語としての漢字の変形もありますが、また次の機会に譲ることにします。

 最後に日本語の漢字がそのまま韓国語の漢字語として使われている、それらを少し挙げてみましょう。
 医師、運転、映画、会社、改札口、菓子、看板、記入、休憩、牛乳、玄関、砂糖、写真、授業、卒業、貯金、到着、売店、発売、平和、野球、洋服、輸入、輸出、陸橋、料金
 まだまだありますが、このあたりにしておきましょう。ただ「無理」「約束」のように発音までほとんど同じ漢字語もありますが、一般的には発音は異なる場合が多いと言えます。

 私もそうでしたが、日本へ留学した韓国の若者たちは、すべて漢字教育を受けていませんから、日本で漢字を学んで、韓国語のなかの漢字語の多さに驚く人がほとんどです。そしてハングルだけで意味を理解していたときより、その言葉をより深く理解できるようになったと言う留学生がこれまたほとんどです。
 私は個人的には漢字の効用はかなり大きいと日頃から思っています。残念ながら韓国は漢字を廃止してハングル一辺倒にしてしまいました。ただ漢字を自発的に学ぼうとする人たちもいます。こういう人たち(特に若者たち)の自由まで抑えつけてしまうような空気が韓国内にあるのはあまりにも残念です。
 一方で2019年からの小学5年生と6年生の教科書で漢字教育を復活させ、用語の理解を補助するために、基本漢字300字を使うというニュースを耳にしましたが、それが本当ならば、多少なりとも漢字教育に光が見えてきたのかもしれません。

 (大妻女子大学准教授)
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