【コラム】槿と桜(106)

韓国高齢者のアルバイト

延 恩株
 
 2023年7月12日に韓国のソウル市が「交通料金調整物価対策委員会」を開き、ソウル市の交通料金の引き上げ案を可決しました。
 その結果、ソウル市の地下鉄とバス運賃がそれぞれ300ウォン(現在のレートで日本円換算約32円)引き上げられることになりました。ソウル市の公共交通料金の値上げは2015年6月以来のことで、およそ8年ぶりです。現在、地下鉄の初乗り運賃は1,250ウォン(日本円で約135円)ですが、それが10月7日から150ウォン(日本円で約16円)引き上げて、1,400ウォン(日本円で約150円)になります。当初は一気に300ウォン値上げする予定でしたが、利用者の負担を軽減するようにとの政府からの要請を受け入れて、値上げ時期を2回に分けて、来年下半期に再度、150ウォン値上げされて最終的には1,550ウォン(日本円で約168円)になります。
 一方、市内路線バスの初乗り運賃は現在、1,200ウォンですが8月12日から段階的にではなく一気に300ウォン引き上げられ、1,500ウォン(日本円で約160円)となります。そのほか「マウルバス」と呼ばれる、市内の短距離を巡回する路線マイクロバスは300ウォン引き上げられ1,200ウォン(日本円で約130円)、ソウル市・京畿道・仁川市の首都圏を結ぶ広域バスは700ウォン増の3,000ウォン(日本円で約327円)、深夜バスは2,250ウォンから350ウォン増の2,600ウオン(日本円で約280円)にそれぞれ値上がりします。
 
 このようにソウルの地下鉄と路線バス運賃が値上げされることになりましたが、これには明確な理由があります。今回の値上げには、韓国の高齢者福祉政策の一環として65歳以上の高齢者は地下鉄やバスが無料で乗車できる制度が大きく関わっているのです。この制度が抱える問題については、『オルタ広場』56号(2022.12.20)に「高齢者無料乗車制度の行方」として書きましたので詳細は省きます。
 韓国でも日本と同様に高齢者人口が増加していて、無料乗車する高齢者増での赤字損失を穴埋めする必要に迫られていたのです。もしここで値上げしないのであれば、無料乗車対象年齢を引き上げるか、高齢者からも一部料金を負担してもらうといった方針の転換を政府に迫ることになったはずです(現在でも行なわれていますが)。もっとも政府は高齢者に負担をかけることには消極的で、そのような政策への転換がすぐに実現されるとは思えません。そこで今回の値上げにつながったことは間違いないでしょう。
 
 ところが、この高齢者の無料乗車制度をうまく活用しようとする企業や事業所と、「働きたい」という高齢者の思いをうまく結びつけた韓国だからこそ可能な仕事があるのです。
 韓国の少子高齢化は日本より深刻かもしれません。少子化については『オルタ広場』52号(2022.8.20)に「出生率が低下し続ける韓国」で触れましたが、高齢化でも大きな課題を抱えています。日本でも定年後、年金だけで暮らすのは容易ではないと言われ始めて久しいようですが、韓国ではさらに深刻です。そもそも韓国で国民年金制度が導入されたのは1988年から(ちなみに日本は1961年から導入)ですので、まだ35年ほどの歴史です。そのため加入期間が短い人も多く、2022年12月末の国民年金公団の国民年金統計によりますと、老齢年金の受給者は計531万2,359人となっています。そのほかに特殊職域年金と呼ばれる公務員年金、軍人年金、私学教職員年金受給者がいます。2023年現在、65歳以上の高齢者人口はおよそ900万人で、このうち特殊職域年金受給者を除いても(特殊職域年金加入者数はおよそ150万人ですから、年金受給者はこの数より少なくなります)65歳以上の高齢者で老齢年金が受給できない人びとが相当数いることがこの数字からもわかります。
 韓国での老齢年金の受給資格は、加入期間が10年以上で60歳以上の者とされていましたが、2013年(1953年生まれの者)から5年ごとに1歳引き上げ、2022年では62歳からとなっていて、2033年以降は原則65歳以上となります。国民年金公団の統計では、月額平均受給額は58万6,112ウォン(日本円換算で約63,000円)で、20万~40万ウォン(日本円換算で約21,500円〜約43,000円)受給者が約208万人と最も多くなっています。老齢年金の受給月額が100万ウォン(日本円換算で108,000円)を超える人は2022年末で約57万人、年金受給者全体のわずか10,7%程度でしかいないことがわかります。
 韓国の高齢者が考える適正生活費は、一人世帯で月額約16万円、夫婦世帯で月額約24万円(韓国『東亜日報』2022年1月13日)だとのことで、こうした声と比べると現実はあまりにも厳しいことがわかります。
 
 こうした事情があるからでしょう、韓国の統計庁が2023年6月16日に「高齢者の特性と認識の変化」という報告書を公表していますが、それによりますと、
 この先「働きたい」と回答した65歳〜74歳が59,6%、75歳〜79歳が39,4%(2022年調査)で、10年前と比較するとそれぞれの年齢層で11,9ポイント、11,8ポイントも増えたということです。74歳までの高齢者のほぼ60%が「働きたい」と考え、日本でいえば「後期高齢者」と呼ばれる75歳以上のお年寄りの約40%が「働きたい」と考えていることがわかります。
 そして、「働きたい」と考える理由を訊ねると、いずれの年齢層も「生活費の足しにするため」がほぼ半数で、パートタイムでの労働を希望する人が多かったとのことです。つまり年金では生活できず、生きるためには働かざるを得ないという厳しい現実に直面している高齢者が多いことを教えています。
 
 さてここで登場するのが、高齢者の無料乗車制度をうまく活用した「シルバー宅配員」(실버 택배원)「老人地下鉄宅配員」(노인 지하철 택배원)なのです。
 65歳以上の高齢者が地下鉄を利用して、軽い荷物や書類などを宅配する仕事で、地下鉄料金が無料のため、宅配料金も安く設定できるため、顧客からも歓迎されているというわけです。10数年前から始まった韓国ならではのこの仕事、健康で歩くことに自信があって、アルバイトを求める高齢者であれば誰にでもできるため、人気があり、業者間での競争も激しいようです。
 会社と高齢者宅配人との連絡はスマホであったり、直接会社に足を運ぶ場合もあったりと業者それぞれです。会社まで行かない場合は乗り換えが多い駅の近くで会社からの連絡を待ち、会社からは依頼主、そして届け先の最寄り駅と住所と道案内が連絡されてきて、いよいよ仕事開始となります。基本的には依頼主を訪ねて荷物を受け取り、それを届け先まで運ぶだけですから仕事内容は単純といえば単純です。
 地下鉄運賃無料範囲であれば、荷物を受け取り、配達をしますからソウル市内から離れた郊外までも移動します。ただ1日で回れるのは平均5カ所ぐらいだそうです。宅配料は業者によって異なりますが、日本円で5~600円が一般的で、距離によって料金が上がりますが、価格は他の宅配便に比べると安く設定されています。
 この「シルバー宅配」は政府にとっても、現在、高齢者の相対的貧困率(収入の平均値の半分より下の高齢者)がOECD加盟国中最悪となっているだけに地域限定的ではあっても高齢者が収入を得られる手立てがあることは歓迎のはずです。実際、地域単位で高齢者が少しでも収入が得られ、社会とのつながり、健康維持などの観点から地下鉄は利用しない、もっと近場の地域限定で歩く宅配を実施している行政単位もあります。
 
 「シルバー宅配」での一日の収入は宅配した個数と距離に関わりますから、その日によって異なりますが、日本円で2000~3000円程度です。1か月間すべて働いても9万円程度(実際には無理ですが)ですから、決して多い金額とは言えませんが、生活費の足しにはなります。何よりも交通費がかからないのが強みでしょう。
 こうした高齢者にとって現行の乗車運賃無料制度に何らかの受益者負担論が持ち出され、地下鉄無料化の年齢引き上げや料金一部負担となれば、「シルバー宅配」が続けられなくなる可能性が出てきます。たとえば無料化の年齢引き上げでは健康問題が関わってくるかもしれませんし、料金一部負担となれば、一日の収益が減ってしまいます。
 また雇用者側も運賃が無料だからこそ、交通費も支給しなくて済み、会社内にデスクや机を揃える必要はなく、福利厚生費もなく、経費節減ができているわけです。かりに若年層にこの宅配を依頼してもアルバイト賃金が低価格ですから、引き受け手はいないでしょう。
 
 韓国では65歳以上人口が総人口の20%以上を占める「超高齢社会」に2025年には到達すると言われています。日本では2010年にすでに「超高齢社会」になっていますが、「高齢社会」(1995年)から「超高齢社会」への移行には15年かかっていました。ところが韓国では2018年に「高齢社会」となり、2025年には「超高齢社会」に突入すると予測されています。わずか7年での移行となりそうで、日本より8年も早く、いかに韓国が急激に老人大国になろうとしているのかがわかります。
 政府としても高齢者への福祉政策に重きを置かなければならなくなっているのは確実で、そのための予算確保問題が顕在化してきています。上述しましたように年金制度が抱える問題、現在の60歳定年制を引き上げる問題、高齢者医療費問題等々、そして本稿での無料乗車料金制度問題も一連の「超高齢社会」を迎えようとしている福祉政策と関連しているのです。
 
 高齢者の無料乗車制度をうまく利用して、高齢者も雇用者側も現在は〝Win-Winウィンウィン〟の関係、つまり相互利益を得ているわけですが、この制度に変更が生じますと、今回紹介しました「シルバー宅配」は消滅してしまう可能性も否定できません。
 「シルバー宅配」は、高齢者の無料乗車制度がある地域に限られますから、その恩恵を受けられる高齢者の数はそれほど多くないと思います。でも「働きたい」と思っている65歳以上の高齢者が60%近くもいる現実が突きつけている意味は重いと思います。「シルバー宅配」のような高齢者雇用促進事業に国としてどのように取り組んでいくのか、尹大統領の手腕が問われているようです。
 
 大妻女子大学教授

(2023.8.20)
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