【オルタの視点】

韓水山『軍艦島』から見えてくるもの

金 正勲


 『軍艦島』は、朝鮮人徴用抗夫の日常と、原爆被害者の問題をテーマとしている歴史小説である。この小説は2009年日本の作品社から出されたが、今年(2016年)同じ題名で、韓国の「創作と批評社」からハングルで出版された。来年初めには著名な俳優たちが登場する映画としても韓国や中国で同時放映される予定である(小説の内容と一致しない部分があるといえども)。
 韓水山は、それぞれ違う家庭環境と生い立ちを持った朝鮮人が日本帝国主義の組織的介入によって端島炭鉱に徴用され、耐え難い屈辱や苦しみに耐えられず脱出し、蜂起を起こす過程を描いた。そして地獄のような苦難の日常からようやく脱出した彼らが再び被爆を受ける悲劇的現実と戦争の残酷さを、被害者の証言に基づいてリアルに描写した。
 作品に入って朝鮮人徴用抗夫の蜂起の理由を考えてみよう。彼らはいったい何のために立ち上がったのであろうか。見逃すことができないのは、脱出の意味が語られる場面である。3回目の脱出の前夜、その意味が知相を通じて提示される。

 俺たちはどうしてこんなことになったのか。なぜ逃亡しなくてはならないのか。自由を手に入れるためだ。ではその自由とは何か。いろんな言い方があるだろう。だがそれは簡単なことかも知れない。国がないからだ。言いたいことを言って暮らし、したいことをして暮らせる場所、それができるところが国だ。祖国というものだ。俺たちはその国を失った。すべての間違いはそこから始まった。(「脱出前夜」)

 親日派の家で育ち、日本に徴用された知相の頭脳にも「祖国」という概念がくっきり根を下ろしている。「自由」=「国」を失った植民地民として辛い体験を繰り返してきた彼は、その「祖国」を失った人間としての苦悩をだれよりも切実に味わったわけだ。知相は、その「自由」を求めて脱出を敢行するのであり、「祖国」の大切さと、自由のない被抑圧民としての苦しい状況を同時に認識することになった彼の成長した姿が見出される。
 作家韓水山は、脱出計画と脱出過程の場面を具体的に描きながら常に何のための脱出であるかを読者に喚起する必要性を意識していたと思われる。「脱出前夜」の心構えを新たにする主要人物の成長を描くと同時に、脱出の意味とその根拠を重要なメッセージとして読者に発信しているのはその理由からであろう。いわば、韓水山は徴用抗夫である知相を、生きるための盲目的な脱出を求める人物としてではなく、祖国愛に目覚めていく発展的人間として描くことによってより高次元の地点から物語を展開しているといえよう。

◆◆ 作品の特徴と主題

 ついに脱出に成功した知相は日本人老夫婦の助けを得て、その夫婦の花婿が勤務する三菱長崎造船所に入り、又碩は地下工場の建設の現場で働くことになる。ところで作家韓水山は、主要人物たちの行動を追うことに焦点を当てるだけではなく、太平洋戦争の戦況を具体的に報告しながら、悪条件の下でいかに生きるかを苦悩し、帰郷する日を待ちつつ生に向かって必死にもがき続ける朝鮮人徴用者の姿を描く。
 知相と又碩が長崎に定着して生活している時、日本はアメリカの攻撃により太平洋の島々を失い、さらに沖縄がアメリカに攻撃される。沖縄の市民はアメリカの捕虜になるよりはと集団自殺を試み、母が娘を殺害したのち自殺する家族もあったという。戦争が生み出す悲劇的惨状と悲痛さを実感せずにはいられない。
 アメリカの空襲で地下に建設中のトンネルで労働する又碩も、長崎造船所の朝鮮人徴用者に日本語を教える知相も、結局1945年8月9日長崎に投下された原子爆弾の被爆を避けることができない。長崎の建物が全て破壊され、街は廃墟になり、あちこちに死体が散らばっている凄まじい光景を、知相と又碩は目撃しながらもどうすることもできない。ついに又碩は原爆で負傷した体の傷が悪化し命を落とす。知相は明子を病院におろして街を徘徊するしかない。知相が恐怖と不安に晒されながら「失われた我々の国に帰るんだ」と誓うところで作品は幕を閉じる。

 ここでこの作品の特徴を形式と内容に分けて考えてみたい。まず作品における場所が知相の実家、「軍艦島」、書蛍の実家、長崎造船所、トンネル工場、原爆の現場へ移るとともに、その場所で中心人物の目を通して三人称で語られる点が特徴となっている。主人公は知相と又碩といえども場面が変わるにつれ、時には明国が、時には書蛍が語るというふうに書かれている。言い換えれば、場面が変わるにつれ、視点人物もその場所にいる者に変わり、これが物語の展開において非常に立体感を与えているとみてよい。

 2番目にはこの作品における時間が物語の展開上、知相や書蛍、又碩や錦禾などが思い出を振り返って語られるが、時折現時点から過去に遡る場面があるとはいえ、大抵は事件に沿って順次的に進む。太平洋戦争の戦況も、徐々にアメリカ軍の空襲が激しくなり、ついに原爆投下に繋がっていく。原爆が後に投下されるようなこともなければ、その被害の様子が予め展開されるようなこともない。

 3番目に取り上げたい特徴は、小説といえども物語の所々に重要な歴史的事件やその背景、実存する人物についての説明がついている点である。たとえば、ストーリーが進むにつれ、「軍艦島」の背景や長崎軍需企業の実体、太平洋戦争の戦況、原爆の背景とその被害などの重要な歴史的事件がフィクションとしてではなく、事実の内容として書かれている。その事実は物語の内容とは違って、作り話ではない。当然韓水山の長期間の調査と資料収集によって示されたものであるが、読者の立場からみればその内容が物語とはっきり区分されているので、どれが事実でどれが物語であるかを見分けて読むことができる。

 4番目の特徴は、朝鮮のことわざや、笑い話、俗語などが豊富に使われている点である。抗夫たちが使う言葉は勿論、家庭や仕事場などの現場において使用される生きた言葉が適材適所に配置され、作品の面白さが倍加している。朝鮮人坑夫たちは苦痛な日常にも 諧謔を弄したり、冗談を言いながら朝鮮人庶民に通じるエスプリのきいた語り口を交わす姿を見せるのであり、それが緊迫した状況にも朝鮮人たる余裕を呼び起こしている。同時にその傾向は、読者と小説の人物との距離を無くし、読者に現場感溢れる効果を与えている。特にそれは対話の中にユーモア漂う面白い表現として登場することが多く、読者は説得力ある文章として読むことができるのである。

 5番目には親日派の家族、知相が主人公として設定され、また、企業慰安婦の錦禾も主体意識を持った女性として描かれている点である。普通反動的人物で描かれるべき対象が主導的人物として登場する。知相は父親尹斗塋が親日派であったので、朝鮮人が逼迫を受ける時代に様々な恵みを受けて育ったが、日本へ徴用に行き、祖国を愛する朝鮮人として生まれ変わる発展的人間として描写される。錦禾も又碩と愛し合ってから、警備員を誘惑し朝鮮人徴用抗夫たちの脱出を手伝い、又碩との恋情を守るために死を選択する主体的女性として描かれる。

 次にこの作品の示す主題について考えてみたい。戦争が招いた朝鮮人徴用者の悲劇は今でも現在進行形である。韓水山は「日本の読者へ」と題して次のように語っている。

 歴史の暗い傷跡は消えないし、消え去ることもありません。ただ人々は時間とともに忘れていきます。私はこの小説で朝鮮人被爆者の、決して忘れてはならないし、また忘れることのできない「あの時代」を復元しようとしました。・・この小説の物語が、忘却の虫たちに蝕まれている「あの時代」を生きた人々に捧げる一房の花であることを、彼らに供える一条の香であることを、私は小説を書いている間、忘れることはありませんでした。

 韓水山は、あまりにも大きな歴史的悲劇がただの過去の記憶として忘れ去られていくことを警戒している。作家というものは、国家イデオロギーの抑圧と戦争の悲劇を徴用者たちの人生と原爆の惨状を通じてありのまま描くことで、二度と戦争を起こしてはならないということを改めて宣言するとともに、平和と人間愛の精神を強調する存在でなければならないと、韓水山は考える。
 韓水山は国と言語と名前を奪われた朝鮮人徴用抗夫たちが「軍艦島」でどのような生活をし、会社側の抑圧にどう抵抗したのかを具体的な証言と資料に基づいて描いた。そして彼らが長崎に脱出したものの、弱り目に祟り目。長崎でも被爆の身になってしまう姿や、原爆現地の残酷な様子を生き生きと描いている。徴用と原爆のテーマを念頭におきながら朝鮮人の悲劇を語るこの作家は、「彼らの歴史を文学と記憶で正しく立て直す」(作家の証言)ことで必死だったのである。

 注意したいのは、決して特定の対象に対する憎しみやそのような表面的描写に重みを置くこともなければ、そこに読者へのメッセージを書き残してもいない点である。韓水山は自ら「私は、われらの個人の生の一つ一つを破壊するのは表面的に表れた対象(日本、日本人、そして親日派)ではなく、彼らの後ろに隠された制度、環境、集団という巨悪の不可解さを描き出そうとした」(2016年8月12日の光州講演)と強調している。作品を水面上に浮かんでいる氷と見みなし、水中に沈んでいる見えない氷に人間性を抹殺する「巨大な罪悪」の実存をと見出そうとした試みなのである。見えない氷はつまり作品に形象化されたものとして捉えてよかろう。つまり水面上の作品を通じて水面下のものを読者に喚起させる意図を明らかにしているのであり、この作家にはそれこそ真実の復元であったといえよう。
 従って読者はこの作品を通じて韓日の不幸な歴史を振り返るだけではなく、逆境の時にも創造的再生を目指す人物たちが存在すること、そして人間の生が意味するものは何か、戦争と平和、自由とは一体何かを考えさせられることになる。この作品は太平洋戦争の時に、人類にあってはならないことがなぜあったのかを問いかけているのである。

◆◆ 結び

 韓水山は不幸な背景と生い立ちを持って日本に渡り、さらに逆境に陥った朝鮮人たちが祖国愛と真実の歴史に目覚めていく過程を黙々と作品に刻み込んだ。韓水山にとってこうした朝鮮人徴用者たちの一挙手一投足に注目することは、彼らの「死、働哭、呻き声、無念さと怒りに染められた「恨」の日々」(「日本の読者へ」)を一つも落とすことなく描写することであったに違いない。
 「軍艦島」での重労働、三菱鉱業関係者たちから受ける差別、同僚たちの死、これが朝鮮人徴用抗夫たちの日常であった。注目したいのは韓水山はそれを作品に形象化したとはいえ、決して一貫して被害者朝鮮人対加害者日本人という図式に拘って書いてはいない点である。祖国を奪い取られた人間の苦しみを描くと同時に、朝鮮人同士に見られる葛藤やその地位の格差も書き入れている。作品から受ける生々しさと生動感あふれる描写に心を打たれる理由もここにある。
 作品の終盤に描かれる被爆の場面でも、知相は自分も傷を受けている身でありながら自分を助けてくれた恩人、江上老人の娘、中田明子が負傷を受けたことを確認し、彼女をおぶって被爆地をあちこち徘徊する。知相は疲れ切って地面に体を丸めなければならない状態であったにも拘わらず、彼女のために病院を探して歩き回るのだ。

 被爆地での韓水山の視線は、朝鮮人の死体収拾に関する問題を提起しながらも究極的には国境と身分を超え、朝鮮人と日本人という一般的観念を超えて、人間の本質的価値を問う方向に向かっている。朝鮮人徴用者たちの被爆者救援や被爆地の被害収拾の場面に感動するのは、その視線からの書き方によるものにほかならない。韓水山は、人間性を喪失し自由を求める徴用抗夫の問題を取り上げるだけではなく、我々を破滅の縁に追い込む、許すべからざる状況に対してもメスを入れている。この小説が、人類の普遍的価値を保つための平和の響きとして聞こえる理由はそこにある。小説に基づいて映像化の動きもあるが、不幸な過去を繰り返さない意味を持つとともに、東洋三国の平和に貢献する作品として大輪を咲かすことを願ってやまない。

 (全南科学大学副教授)

付記:本稿は、『韓日民族問題研究』31号(韓日民族問題学会、2016年12月31日)に掲載された「韓水山『軍艦島』を読む―朝鮮人徴用坑夫の視点より―」から第4節を中心に抜粋したものであることを断っておく。


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