【コラム】槿と桜(120)
韓流の始まりは?
現在、日本で「韓流」(ハㇽリュ、한류)という言葉は広く知られ、一般的な認識としては韓国の大衆文化、なかでも若年層は音楽(K-POP)と結びつき、女性はファッションや化粧品を思い起こし、さらに幅広い人びとにはテレビドラマや映画、料理などで韓国発のものを「韓流」として受けとめているようです。
そのほか、かつては新大久保のコリアタウンのマーケットだけで販売されていた調味料や嗜好品、食品が次第に日本のマーケットで購入できるようになったものも少なくなく、これも「韓流」の一つなのかもしれません。
そもそも「韓流」という名称は、その根底に〝韓国発〟、〝韓国風〟という概念があるわけですから、韓国(人)とは異なる人びとや集団(国、地域)に向けて発信された表現です。ですから、韓国で使われ始めたわけではありません。
「韓流」という言葉が生まれたのは中国で、1999年のことだったと言われています。もっともこの言葉を創作したのは、韓国の文化観光部(2008年からは「文化体育観光部」)の企画で、中国北京の韓国系放送企画会社によって提案されたということです。
1999年、韓国の文化観光部(当時)は韓国歌謡曲の宣伝用レコード、CDを制作し、世界主要国の広報メディア各社、放送局、出版社等々に中国語版、日本語版、英語版を制作し、英語と日本語版のタイトルは「Korean Pop Music」、中国語版は「韓流―Song from Korea」として配布しました。これが「韓流」という言葉が誕生した経緯のようです。ただしこれには台湾メディアが1997年に早くも「韓流」という言葉を使い出していたという異説もあります。
そして、日本での「韓流」という言葉の出現は2001年頃のようですが、いずれにしましても1990年代後半から日本、中国、台湾などの東アジア地域で韓国の音楽、映画、テレビドラマ、食品が注目され、流行し始めていたことによって「韓流」という言葉が生み出されたということになるのでしょう。
しかし、朝鮮戦争以後、朝鮮半島が分断され、大韓民国(韓国)が生まれ、その後の歴史を振り返ってみれば、「韓流」につながる大衆文化の開放、流行が政治や経済の動向と決して不可分ではなかったことが理解できます。
その意味では、韓国の大衆文化隆盛の夜明けは1987年の民主化運動であったといえるかもしれません。韓国の現代史でこの年は国の形が大きく変わることになった重要な年になりました。それは1961年から始まった軍事政権の抑圧政治が終わった年だったからです。
大韓民国は1948年8月15日に成立しました。親米、反共を政治信条とした李承晩(イ・スンマン 이승만)が初代大統領に選出されましたが、彼は次第に独裁的な政治をおこなうだけでなく、1960年3月の大統領選挙で不正をおこなったため、批判と民主化要求運動によって、政権の座を追われてアメリカ(ハワイ)へ亡命しました。
その後を継いだ張勉(チャン・ミョン 장면)政権は事態の収集と社会的な安定化に失敗したため、1961年5月16日、軍人の朴正煕(パク・チョンヒ 박정희)少将(当時)がクーデターを起こしました。彼は軍事政権を樹立させ、1963年12月に大統領に就任しました。朴正煕政権は国の近代化を推進し、韓国を貧困農業国家から産業国家へ変えました。その点では評価もされていますが、民主化運動など反政府的な動きには徹底した弾圧を加え、文化的にも統制を強化していきました。
しかしその一方で、経済的な発展によって多少経済的な余裕が生まれてきた国民からは、政治的な独裁に反対する声が大きくなり、民主化要求運動は絶えず起こるようになっていきました。そのような状況の中で、1979年10月26日に朴正煕大統領が側近によって暗殺されるという事件が起き、独裁政治が終わるかに見えました。ところがこの時、燃え上がろうとした民主的な政権の樹立は、軍人の全斗煥(チョン・ドゥファン 전두환)少将(当時)たちが軍部を掌握し、またもや民主化の要求を武力で鎮圧してしまいました。結局、全斗煥が大統領となり(在任期間は1980〜1988)、軍部独裁政治が継続されてしまいました。この時代は、朴正煕時代と同様に民主化運動家を逮捕、政党活動の停止、労働運動の制限、言論、出版などの事前検閲・制限などが厳しくおこなわれていきました。ただし、興味深いのはソウルオリンピックの誘致、プロ野球の創設、さらに外国映画の輸入、観光産業、サービス産業の緩和などもおこなっていたことです。その意味では、飴とムチの両用という手法を使い始めていたことがわかります。ちなみに、高齢者のソウル地下鉄利用を無料にしたのも全斗煥でした(それは現在も継続されています)。
このように学生や市民の大統領直接選挙を求める運動を弾圧した全斗煥政権でしたが、1987年、全土に民主化要求運動が広がり、6月29日、ついに憲法改正、大統領直接選挙、言論の自由の保障、反体制運動家の釈放などを受け入れました。
その結果、憲法が改正され、国民の直接選挙による大統領選出、大統領の任期は1期5年が決まりました。それ以降、盧泰愚(ノ・テウ 노태우)第13代、金泳三(キム・ヨンサム 김영삼)第14代、金大中(キム・デジュン 김대중)第15代、盧武鉉(ノ・ムヒョン 노무현)第16代、李明博(イ・ミョンパク 이명박)第17代、朴槿恵(パク・クネ 박근혜)第18代、文在寅(ムン・ジェイン 문재인)第19代、尹錫悦(ユン・ソンニョル윤석열)第20代と大統領が5年ごとに新しく誕生し、現在までに8人の大統領が誕生してきているわけです。
韓国では国民の直接投票による民主的な選出によって大統領が選ばれる仕組みはおよそ40年ほど前からなのです。しかも第13代の盧泰愚大統領は民主的な選挙で選ばれていますが軍人出身で全斗煥前大統領の政治を引き継いだため、大衆文化の全面開放にはまだ遠かったと言えます。文民大統領の誕生は次の第14代の金泳三大統領まで待たなければなりませんでした。
ところで「韓流」ということでは、私は1988年のソウルオリンピック開催前後からが密やかな「韓流」の始まりと見ています。なぜなら韓国政府みずからが伝統食品の代表とも言えるキムチを世界に発信し、韓国へ目を向けさせる、いわば〝官主導〟の動きを取ったからでした。その広報活動は韓国政府が主導していただけに、韓国という国を国外に広く認識してもらい、関心を高めるという政府の方針は大いに効果がありました。何よりもオリンピック開催を世界が認めたということが韓国民の大きな自信につながっていました。そのため、キムチを世界に広めるという世界戦略にも、それ以降の韓国の将来に明るい希望を持たせることになったと私は見ています。無論、そこには長い間の独裁政治から解放されたという解放感もありました。
日本でもソウルオリンピック前から次第に韓国への関心が高まり、日本でのキムチ消費量が大きく伸びていき、日本にとって食を通して韓国が身近になり始めました。
また2013年にユネスコ無形文化遺産に「キムチ作りと分かち合いの文化」が登録されたのもソウルオリンピックを一つのきっかけとして世界に「キムチ文化」を働きかけてきた韓国政府の動きと結びついていたことはまちがいありません。
ところが、第14代の金泳三大統領時代に韓国は国の存立が危ぶまれる状況に追い込まれました。金泳三大統領は1990年代の中頃の世界的なグローバリゼーションの流れに乗って市場開放、企業の合理化を推進しましたが、1997年にタイの経済運営失敗から始まったアジア経済危機が韓国にも及び、韓国経済は深刻な通貨危機に襲われてしまいました。それはいわば、韓国が国家として破綻する危機に直面したことであり、国際通貨基金(IMF)からの資金支援に踏み切りました。
翌1998年2月に就任した第15代の金大中大統領はIMFの要求に応えて、財政再建、規制緩和、公共事業削減などの経済調整政策を実行しました。つまり国家として〝収益を上げなければならない〟事態に追い込まれていたのです。金大中大統領はその就任演説の中で「当面の最大の課題は、私たちの経済的国難を克服し、私たちの経済を再跳躍させることです」(1998年2月25日)と述べていました。さらに同演説では
「私たちは民族文化のグローバル化に力を注がなければならない。私たちの伝統文化の中に潜む高い文化的価値を継承発展させなければならない。文化産業は21世紀の基幹産業であり、観光産業・ゲーム産業・映像産業・文化特産品などは無限の市場が待っている」
と述べていることからもわかりますように、金大中大統領が目を向けたのが「文化産業」を国の政策として推進することでした。これまでは「文化産業」などと呼べるような規模ではなく、伝統文化の保存といった面からしか見られていませんでした。それを国家として、文化芸術を支援し、統制から振興へ転換し、さらには文化を産業として盛り立て、文化を創造する活動に対する様々な規制の撤廃、あるいは緩和する政策を進めることになったわけです。
さらに金大中大統領は1998年10月20日には「文化大統領宣言」を行い、文化が国家競争力の源泉となり、人類の文明の進歩を導く原動力となっていて、21世紀は文化の世紀であること、文化は人間の精神的な生活を豊かにするだけでなく、文化産業を起こし、大きな付加価値を創り出す重要な基幹産業であるとして、
「世界をリードする先進国は軍事や経済だけでなく、文化の分野でも例外なく先行しており、そのような傾向はますます強まっている事実に私たちは直面している。文化発展のない国は富強も国民の生活の質の向上も期待できない」とまで述べていたのです。
以上このように見てきますと、私が大衆文化の開放、流行が政治や経済の動向と決して不可分ではなかったと上述したことが理解できると思います。
図式的になりますが、「韓流」の源泉は1987年の軍事政権の終焉に求めることができ、密やかな流れの始まりは1988年のソウルオリンピック頃であり、明確な「韓流」の川筋は金大中大統領の「文化大統領宣言」前後に作られたと見ていいのかもしれません。
1999年には「文化産業振興基本法」が制定され、文化分野の国家予算が1998年に比べて約6倍の1000億ウォン、2000年には国家予算の1,0%を超え、2001年にコンテンツ産業を専門的に支援する政府機関の「韓国文化コンテンツ振興院」が設立されるなど、韓国が文化産業の育成と輸出振興を非常に重く見始めていたことがよくわかります。
「韓流」は決して自然発生的な現象ではなかったのです。
大妻女子大学教授
(2024.9.20)
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