【コラム】
風と土のカルテ(50)

ウティナン君の事例から考える外国人定着の問題

色平 哲郎


 2国間のEPA(経済連携協定)に基づく外国人看護師、介護士の受け入れが始まって10年が経った。2017年度までにインドネシア、フィリピン、そしてベトナムから看護師1,203人、介護士3,492人を受け入れている。

 しかし、日本の国家試験合格者の数はガクンと下がる。看護師の場合、2018年には441人が受験し、合格したのは78人(合格率17.7%)。外国人を受け入れて、4~5年間、医療、介護の現場で働いてもらうものの、本人が国家試験に合格できず、帰国するというパターンが多くなっている。

 この政策が導入された背景には、かつて比較的緩やかに運用していた興行ビザの問題があるとされる。20年近く前までは、興行ビザで入国した外国人が入国管理局に申請した仕事とは異なる職に就き、不法滞在化するケースが後を絶たなかった。そこで法務省は、興行ビザの運用を厳格化して受け入れ数を減らす一方で、EPAによる別枠を設けたといわれる。

 20年の年月が経過し、以前のずさんな入管政策の問題は忘れられつつあるように見える。だが昨年末、それを思い起こさせる出来事があった。甲府市で暮らすウォン・ウティナン君の「在留特別許可」の取得を巡る報道だ。

 ウティナン君は、2000年にタイ人の母と父の間に生まれた。両親は離別し、不法滞在のまま働く母と、長野県内の友人宅などを転々としながら暮らした。小学校には通わせてもらえず、テレビや漫画、街の看板を見ながら日本語を覚える。2011年に母子は甲府市に移り、母は支援団体にウティナン君の学習支援を相談。猛勉強が始まり、2013年に甲府市内の中学校(2年次)に編入した。

 ウティナン君を支援する社会福祉法人「ぶどうの里」の山崎俊二理事長は、母親に「日本の学校に行かせるのはいいけれど、入管に出頭し、彼の国籍をちゃんと取ること」と伝えたという。ところが、2014年に母子が入管に出頭し、在留資格の審理を申請すると「強制退去」の処分を下された。山崎さんたちは「彼を日本に居させるのは私たち周りの大人の責任」と支援活動に力を入れる。

 ウティナン君は、クラスメイトの前で「僕は在留資格がなくて退去強制命令が出た。だけど裁判に訴えてでも残りたい」と告白。日本しか知らず、日本で暮らし続けたいとの思いを訴えた。先生や同級生は、ウティナン君の境遇に涙し、支援を誓う。母子は東京地裁に処分の撤回を求めて提訴した。

 しかし、結果は敗訴。ウティナン君は山梨の県立高校に進み、控訴するが、母は控訴を断念しタイに帰った。母子は引き裂かれ、控訴審でも敗れる。

 一方でウティナン君を応援する署名は地域だけで1万5,000筆集まり、カンパも200万円を超えた。2017年に最高裁への上告を取り下げ、入管に在留資格の再審査を請求。そして昨年末、1年間の「在留特別許可」が下りたのだった。

 ウティナン君の事例は、ずさんな入管政策の影響が、日本で暮らす子どもの世代にも及んでいることを示している。「正規」のルートであるEPAの受け入れでも今後、看護師や介護福祉士の国家資格を取得し、就労する外国人本人やその次の世代が社会と共生していけるかが課題になるだろう。現状でも、EPAで受け入れ、国家資格を取得した人たちの3割以上は、帰国したり離職しているという。言葉の壁や子育てなどの問題に直面し、国内の職場から離職するケースが少なくないようだ(2016年9月18日朝日新聞による)。

 こうした課題は、外国人を受け入れる他の分野でも指摘されている。外国人とどう向き合っていくのか、医療・介護業界に限らず社会全体に問い掛けられている。

 (長野県・佐久総合病院・医師・オルタ編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2018年5月31日号から転載したものですが文責は「オルタ広場」編集部にあります。
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