【コラム】『論語』のわき道(26)

飽食の時代

竹本 泰則

 この国は「飽食の時代」の最中にあるという。
 しかし、今でも飢えで亡くなる人はいる。厚生労働省の『人口動態調査』によれば、平成二十九年には十九人の人が「食糧の不足」で亡くなっている(これ以前三か年の平均も同程度)。また、数字で状況をつかむことはできなかったが、最近関心が高まりつつあるという「欠食児童」の存在も気にかかる。給食がないために夏休みには体重が減る子もいるという。

 こうした陰の部分をはらみながらも、現代の食生活のあり様は飽食という形容があてはまるようだ。まず、日々の生活を支える基礎的な食糧に関して、量の不安を感じることはない。もっというなら、基本的にはだれでも好きなものを好きなだけ食べられる。もちろん財布の中身によってしばられはするが。まちではパン屋、ラーメン店、レストランなど、さまざまな食べ物の店が集客を競い合う。スーパーマーケット、コンビニエンスストアには総菜やら弁当やらがにぎにぎしく並べられている。

 量だけではなく、種類も豊富である。子供のころには見たことも聞いたこともなかったような食材、食品がそこら中にある。外国に行かずともいろいろな国の料理を味わうことまでできる。
 テレビは飽きもせず食の情報を流し続ける。近ごろは、食べることが腹を満たすため、突き詰めれば、いのちを保つための営みという食の原点をはるかに通り越して、見た目の斬新さや食材・調理法などの奇抜さを売り物としたり、それを楽しんだりといった娯楽性までが出てきた感がある。食べることは楽しくなければいけないと思うが、だからといってお遊びになるのは腹立たしい。

 飽食に漬かる一方で、この国は「罰(ばち)があたる」ようなことをしでかしている。農林水産省などのデータによれば、国内の食品関連事業者と一般家庭から出る食品廃棄物の総量は一年間でおよそ1,700万トンと推計されている。その中には「まだ食べられる食品」も含まれており、その量は平成二十七年で646万トンにのぼるという。646万トンなどといわれてもピンとこない大きな数だが、おおよそ日本人の体重の総合計くらいになるのではないか(平均体重を仮に五十キログラムで計算した)。だとすれば、わたしたち一人一人が一年の間に、自分の体重と同量くらいの食べ物を捨てていることになる。

 余るほど大量の食糧を生産しているのか? 
 もちろん、ノー! 国内生産では間に合わず、よその国から盛んに食料を輸入しているような国である。

 わが国の農産物の純輸入額(輸出額と輸入額との差し引きで算出した金額)は世界第一位だという。ちなみに第二位は日本の十倍以上の人口をかかえる中国であり、両国の金額の差はほとんどない。そして、この二つの国の純輸入額は世界でも群を抜いて大きい。
 食料自給率、つまり自分たちが食べているもののうち、自国で賄っている分の割合をみると、日本は39パーセントと極めて低く、先進国の中では最下位である。米国は、と見ると130パーセントであった。(2013年、カロリーベース)。

 自力に支えられていないこの「飽食」とやら、危うくはないか。
 基礎的な食糧の範疇に入らない嗜好品の類、あるいは一部の高価なぜいたく品などが全体の輸入額を押し上げているということであればまだしも、事態は思いのほか深刻である。

 旅先の宿での朝食を思い浮かべてみる。和であればご飯と豆腐の味噌汁、それに鮭の切り身か鰺などの焼き物、さらに海苔、納豆、たまご、漬物といったものが浮かぶ。洋であればパンとコーヒー、ミルク、加えてサラダ、ハムまたはベーコンエッグなどといったところが献立の基本だろうか。

 こまごま並べたこれらのうち自給できているのはご飯のもとの米だけ。主な食材の自給率をみると、パンのもとである小麦は13パーセント、豆腐・味噌・しょうゆなどの原料である大豆に至っては7パーセント、肉類が9パーセント、魚も意外に低く60パーセントだという。そういえば、鮭の原産地表記をみると地球の裏側からはるばる運ばれているものがある。鰺の干物も近隣諸国から輸入した魚をわが国で干物に加工するというやり方が珍しくないようだ。

 驚いたのは鶏卵の自給率が13パーセントに過ぎないということ。ついぞお目にかかった覚えなどないが、中国やら欧米産のたまごが出回っているというのか?
 実は、食卓にのぼるたまごはすべて国産。輸入品に特殊な用途の事業用卵(乾燥して粉状にしたものらしい)があるが、それは全体の5パーセントを占めているだけだという。ならば自給率は95パーセントではないかと思ってしまう。ところが、せっせとたまごを産んでくれている国内の鶏に与える餌(配合飼料)の原料は、トウモロコシなど海外からの輸入品がおよそ九割を占める。それを計算に入れるとこうなるらしい(肉なども同様の計算)。

 ついでながら、昼食の定番、天ぷらそば。その自給率は22パーセントにとどまっている。国産そば粉の生産量はおよそ3万トン前後で推移しているようだが、消費量12、3万トンに対しては四分の一程度に過ぎない。エビの自給率は5パーセント、植物油は4パーセントと、ともに無残な数字である。

 食料自給率に関連する資料を眺めていて、もう一つ気になることは、農林水産省も指摘していることだが、その輸入先である。
 魚類を含めた水産物の場合、輸入先は中国をはじめとするアジア諸国、アメリカ、チリ、ロシア、果ては北欧まで、それこそグローバルに散らばっており、占拠率が極端に突出する国もないので問題はなさそう。ところが穀類(小麦、大豆、トウモロコシ)になるとアメリカからの輸入が他を圧倒して半分以上を占めている。トウモロコシに至っては84パーセントがアメリカからだという。小麦と大豆もカナダからの輸入分が加わると、いずれも80パーセントを超える。こうなると通常の輸入とはいえまい。いうならば特定の国・地域への「依存」である。

 北米大陸に甚大な天候異変があったとき、わが国は食糧をめぐって大恐慌におちいることだろう。そこまで深刻な事態になることはまれであるとしても、地域の作柄次第で量、価格が大きく振れるというリスクは常在する。
 さらに言わずもがなながら、もしアメリカとの戦争ということになれば、この国は兵糧攻めであっけなくやられる(ちなみに、対日制裁(昭和十六年)が発動される前、わが国は石油の81パーセントを米国から輸入していた)。
 飽食に浮かれるわが国の食糧をめぐる状況はこれほどまでに脆弱な態だった。

 飽食の対極に飢餓がある。
 全世界の人口は今や七十億人を超えるという。人類の祖先がこの世に現れたのは二十万年以上も昔のことらしいが、この長い時間のほとんどすべてにわたって、食糧の不足がつきまとっていたという。言いかえれば、人類の歴史は飢餓との闘いの歴史ともいえるそうだ。だからヒトの体には飢えに直面したときにいのちを守ろうとする仕組みはあるが、食べ過ぎ、栄養の摂り過ぎに対する備えはないのだという。

 現代でも、世界を見渡せば飢餓に苦しむ人は多い。
 2018年の国連・世界農業機構の発表によれば、アフリカ三十一カ国、アジア七カ国など三十九の国々が、外部からの食糧支援が欠かせない飢餓状態にあるそうだ。その人数は八億人を上回り、全人類の九人に一人は飢えているということになる。
 こうした人々に対して提供される食糧支援の量は年間で450万トンくらいになるという。支援食糧と廃棄食品とでは含水率などが違うだろうから、単純な重量比較はできないが、わが国で廃棄されている「まだ食べられる食品」で、これらの国の飢餓に苦しむ人々を救うことが可能ということもあり得るかもしれない。そう思うと暗然とした気分になる。

 「飽食」という熟語は意外に古い言葉だ。紀元前数百年という大昔の人々の言行を記録している『論語』にも登場する。この時代は文明も発達していないころだから、食糧を安定して確保していたとは考えにくい。現に『論語』の文中には「飢饉」という語も出てくるし、食べ物の欠乏を表す「餓(が)」、「餒(だい)」などといった字も見られる。しかし飢餓の様子を伝えたり、飢え、ひもじさなどについて論じたりした文章にほとんど行き当たらない。それどころか食に対して恬淡と構える雰囲気さえある。

 孔子は食事に関して「君子は飽きるほどに食べることなど望まない(君子は 食に 飽くを求むること無し)」とか、「君子は道徳、生きかたについて熱心に考えをめぐらすが、食べることについてあれこれ考えるようなことなどしないものだ(君子は道を謀(はか)りて、食を謀らず)」などとのたもうている。

 また弟子の一人が穀物・野菜作りについて学びたいと願い出たときには「わたしではなく経験を積んだベテランの農夫に聞けばいい」と突き放す。そのあとで件の弟子について「あいつもつまらん男だな。上に立つ者が徳を備えておれば、それを慕ってよそから人々が集まってくる。人が集まれば食糧の生産もおのずから盛んになる。社会の指導的階級にある者にとって、農業の実用的な知識など無用だということが分かっていない」と論評している。孔子一流の道徳至上主義といえそうだが、取り澄ました気取りのようなものも感じる。

 もちろんこうした考え方がすべてであったわけではない。孔子から少しのちの時代から書き継がれたといわれる『管子(かんし)』という書物には次の言葉がある。

  倉廩(そうりん)(み)ちて 則(すなわ)ち 礼節(れいせつ)を知り
  衣食足(た)りて 則(すなわ)ち 栄辱(えいじょく)を知る

 倉廩とは穀物を貯蔵する蔵とのこと。
 大意としてはこんなところだろうか。

  人は、当面の食糧に心配がなくなれば、心にゆとりが生まれ、
    礼儀、節度を身につけるようになる。
  着るもの、食べるものが充分にある、つまり、経済的に豊かになれば、
    名誉を求め、恥を知るようにもなる。

 この言葉は、わが国では「衣食足りて礼節を知る」と言いかえられて慣用句になっている。

 食にきゅうきゅうとすることなく、徳を積み、道(正しい生きかた)を求めるべきとするのは孔子流、食こそ最も基礎的な要件だとするのが管子流……。わが国にも両様の思想がありそうに思う。しかし、孔子流の言い回しは案外思いつかない。
 「武士は食わねど高楊枝」という慣用句はあるが、孔子が言わんとするところとは少しニュアンスが違うようだ。より近いのは「太った豚になるよりは、痩せたソクラテスたれ」だろうか。

 少し脱線するが、「痩せたソクラテス」の話は東京大学の卒業式(昭和三十九年)における大河内一男総長の送辞の中で述べられたものとされていたが、実際の式ではこの部分は読まれていないそうだ。渡された原稿(プレスリリース)には入っていため、報道機関がそのまま流布したものという。
 それはそれとしても、当時は「所得倍増計画」を掲げた池田内閣が経済成長をひたすら追求している最中であり、秋にはアジアで初めてのオリンピック東京大会が控えていた。そんな時代にこのフレーズは大きな反響を呼んだ。そこに孔子流の思想がこの国にもあることを感じる。

 もう一方の管子流は探すのに苦労はない。
 「腹がへっては戦(いくさ)ができぬ」があるし、「ひもじさと 寒さと恋を 比ぶれば はずかしながら ひもじさがさき」などというのもある。

 孔子流か、管子流か、どちらが真実だろうか……。
 飢えはもちろん御免こうむりたい、さりながら食うことがすべて、とも言い切れんなぁ……。

 決めきれないのも当たり前の話である。
 孔子のいう「食」と「徳」・「道」とでは基本的に性質が異なっており、どちらかを選ぶという問題ではなかろう。食は生理的に生命維持にかかわり、生命はあらゆることの前提条件となる。孔子だって命あってこそ道も説けるし、世の中の変革に向けて進んでもいける。
 生命を保つに足る食があり、その上で、何をどう価値づけしていくか、それが人としての見識であり、それぞれの個性というものであろう。

 (「随想を書く会」メンバー)

                          (2021.07.20)
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