【沖縄の地鳴り】

首里城炎上

平良 知二

 絶句、愕然、ぼう然。そして喪失感。燃え落ちる首里城に、多くの県民が驚きの感情を露わにし、涙した。テレビ、新聞に嘆く声が溢れた。

 その朝(10月31日)、スマホを見た娘が2階から慌てて降りて来た。「首里城が火事!」。
 ボヤで煙が上がっているのだろう、首里城ならボヤでも大きなニュースになる、とテレビのチャンネルを入れた。愕然とした。本殿全体が猛火に包まれている。ものすごい火の勢いだ。本殿の屋根、柱が崩れ落ちた。北殿、南殿も燃えている。言葉を失った。涙がにじんだ。

 『日本書紀』天智九年の条、法隆寺の火災の一文を思い起こした。「夏四月…夜半の後、法隆寺に災いあり、一屋余すなし」
 法隆寺は火事に見舞われ、その後再建されたという『日本書紀』に基づく再建論と、その記述は信用できないという非再建論が戦前にあり、結局、戦後の若草伽藍の発掘で再建論が正しかったことになるのだが、その一文の「一屋余すなし」がずっと筆者の心の底に残っていた。すべてが焼け落ち無に帰す、そういう表現である。
 不謹慎ながら、首里城炎上を見て、その簡明な一文を実感せざるを得なかった。

 衝撃と悲しみの中から、再建への動きは活発化している。玉城デニー知事は炎上のニュースでその日のうちに韓国から急きょ帰り、翌日(11月1日)東京に飛び、菅義偉官房長官に早期再建への支援、協力を求めた。
 再建計画の策定を急ぐため、県庁に「首里城復興戦略チーム」を新設し、民間とも協力して「首里城復旧・復興県民会議(仮称)」も発足させることを表明している。
 那覇市が呼びかける復興のための寄付金は1週間で4億円に達し、早々と目標額(1億円)を軽く突破した。沖縄タイムス、琉球新報、琉球放送、NHK沖縄放送局など地元のメディア8社も共同で募金活動を開始した。8社の共同行動は初めてである。

 有識者も再建に向けて声を上げ、県民も再建されることを強く願っている。沖縄全体が悲しみを超えて目標とすべき一点を定め、早くも歩み始めた。
 首里城が沖縄のシンボルとしていかに県民の心に根付き、親しまれていたか、失って初めて存在の大きさが分かったという動きである。

 30年以上も前、首里城の再建について、反対の意見が少なからずあった。琉球王府は民衆からの収奪と権力で首里城を建てたのであり、そのような城の復元はやるべきではない…という論である。また、かつての姿そのままに蘇らせることが復元であり、安易な復元はやる必要がないという意見も出た。
 が、経済関係者などが主体となり、本土復帰20周年事業として復元工事は始まった。政府の事業として予算化され、国営の位置づけで復帰20年の1992年に完成した(管理はことし沖縄県に移管された)。
 周知のように観光客のメッカとして連日にぎわい、「沖縄といえば首里城」と、いまや沖縄の代名詞となった。炎上のニュースに全国から惜しむ声が寄せられたのは、首里城を訪れた人が多かったからだろう。

 余談だが、首里城正殿を見ていない(正殿の中に入っていない)県民は意外と少なくはない。筆者の周りにもいる。先日7、8人の集まりで「実は正殿には一度も入ったことがない」と打ち明けたのが2人もいた。ほかにもそれらしき人がいた。
 正殿前の御庭(うなー)からは有料区域であり、当初のころは入場料としてやや高いという印象であった。それが躊躇の一因だったかも知れない。いまは「御内原(おうちばら)」など整備され、見ごたえのある姿になり、料金が高い印象は薄らいでいた。
 なにより、いつでも見れるという安心感があったはずだ。しかし全くの想定外。安心感など吹っ飛んでしまった。打ち明けた2人は黙り込むしかなかった。

 安倍首相、菅官房長官の対応は早かった。再建に向けて全面支援を打ち上げている。「辺野古新基地」問題でぎくしゃくしている沖縄との関係を、この機会に政府ペースにしたいという狙いもあろう。それだけに「政府に頼るのではなく、沖縄の独自性を発揮して取り組むべきだ」という声も強い。
 出火原因の確定、大火災になった要因の追究、そして失われた文化財の確認、“廃墟”の処理問題。再建論議に入る前に解決しなければならないことは多い。県民の注視は欠かせない。         

 (元沖縄タイムス記者)

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