■ 海外論潮短評(14)

高齢化する世界人口         初岡 昌一郎

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  ロンドンの『エコノミスト』8月2日号が、国際的な人口高齢化と人生終末時
のケア(人間味のある介護)という、これからますます深刻化する問題を取り上
げた二本の記事を掲載している。これらを掻い摘んで紹介してみよう。

◇高齢化する世界人口―人生は長くなり、ゆっくりと死んでゆく

 いかなる素人未来予測家でも、豊かな諸国の人口が急速に高齢化することを見
通せる。2050年までに、先進世界の四分の一以上の人口が65歳以上となる
。富裕な諸国では現在、この年齢層は人口の六分の一を占めており、その25%
が80歳以上である。2050年には、この65歳以上人口の40%が80歳以
上となる。

 豊かな諸国のグレイ化がかなり以前から予期されてきたが、対策はあまり進行
してはいない。それほどよく認識されていないことは、高齢化が現在の先進国だ
けの問題でないことだ。

 タイやジャマイカなど現在貧しい国で生まれている子どもたちも、70歳以上
生きると予測される。インド人や中国人も貧困から抜け出すにつれ、その寿命は
長くなる。2050年までには、インド人口のうち80歳以上のものが今日の5
倍に、中国では6倍になる。

 こうした変化は、2つの主な理由から生じている。その一つは、保健衛生の改
善で寿命が延びること、二つめは、医療が若年死を少なくする。エイズ治療がす
すみ、マラリアが克服できれば、平均寿命はさらに延びる。2050年には、死
亡の80%近くが60歳以上であろう。

 60歳以下の死のかなりの部分は、ドラマティックな原因によるものであろう
が、60の坂を越えてからの死は、次の三つのいずれかによる確立率が高い。第
一は癌で、それによる死は65歳までがピークである。治療法の進歩にとって癌
の治癒率が高まると、他の二つの原因が全面にでる。その一つは臓器類の疾患で
あり、もう一つは老衰である。

 慢性疾患は、たいていは心臓病や肺気腫であるが、深刻な症状を繰り返しなが
ら心不全や呼吸停止をもたらす。老衰や痴呆は長期かつ質の低下した人生の終末
につながる。節制した生活による長命化の終わりが、スローかつ悲惨な死という
のではあまりにも報いが乏しい。

 アルツハイマーなどの老人病の安価で、効果的な治療や、鎮痛と信頼できるケ
アに対するニーズは、これまでは決して高いいものではなかった。

◇人生終末期のケア―サンセットに向けて

 終末期の病気には、手術的な治療処置よりも、鎮痛と人間的なケアが必要とい
う考え方が広がっている。しかし、無病でただ歳を重ねてゆく人にはどうしたら
よいのだろうか。

 「ほとんどのことは予想通りにならないが、これだけはなる」と詩人のフィリ
ップ・ラーキンが、イギリスで40年前に始まったホスピス運動の思想的出発点
として人生の終末を書いている。この運動は、その後世界各地で様々な形で影響
力を拡大した。

 地上における時間が早晩終わらざるを得ないものであるとするならば、苦痛な
存在を少し引き延ばすよりも、末期もまともな人生で終わりを迎えるほうがよい
。そこでは手術よりも優しいケアと鎮痛が優先される。

 1967年に最初のホスピスがこのような考え方から創設されたとき、医学界
は敵意を持ってこれを迎えた。しかし、この考えは今日広く受け入れられている
。その変化の一つの兆候は、治療よりもケアを目的としたホスピスが多数設立さ
れていることだ。もう一つは、ホスピス以外でも医師、看護師、患者が、この運
動の考え方を広く受け入れていることだ。

 アメリカ最初のホスピスは1974年に作られ、それ以後その思想が急速に広
がった。全アメリカ人の半数が人生のある時点でホスピスを利用しており、アメ
リカでの死の75%は、医術の介入を断るという、明確な意思決定の後に発生し
ている。

 ヨーロッパでも、人生の終末を迎える人にとってのケアに対する態度が革命的
に変化した。20年前には、死にたいする態度を論じようとするドイツ人はいな
かったが、今はこのテーマはロータリークラブの講演でも取り上げられる。

 しかしながらその成功にもかかわらず、最も富裕な国においてさえ、ホスピス
運動はケアに現在振り向けられている資源からみて、それをはるかに上回る挑戦
に直面している。

 ホスピスが一般的にはガン患者向けなのは、余命が短く、死期がかなり予測さ
れうるからだ。ところが、余命を全うさせるためや、死期にある人を介護すると
いう現在の慣行は、心臓や肺の慢性的疾患を抱えている人や、ゆっくり進行する
老衰期にある人には向かない。

 富裕な国ですでに大きくなっている重要なカテゴリーは、病んでいる高齢層で
、決して回復はしないが、死期のわからない人々である。単純な答えはなく、病
院、介護施設、家族によるケアなどの方法がある。

 老人の面倒を見ることは複雑な難問を伴う。いくつかの病気を抱える老人は、
家庭医から健康アドバイザーに、さらに専門医へとまわされる。各国における医
療条件と政治文化の相違によって、この問題のとりくみには差がある。

 医療が多様化している民間主導のアメリカよりも、統一された公的制度を持つ
ヨーロッパのほうが、大きな人口構成の変化に計画的に対処することが容易であ
ると思われる。しかし、最も社会的基盤の確立している国でも、ホスピスはたい
てい民営であり、慈善団体が関係している。だが、政府の公共政策によって大き
な差があり、スペインのカタロニア地方では、ホスピスが政府によってトップダ
ウンで設立されている。

 ヨーロッパ各国は独自のアプローチをとっている。ベルギーは全家庭医に苦痛
軽減ケアの訓練を施しているが、ケア専門家のチームはほとんど存在しない。オ
ランダでは、病院よりも、介護施設に2-4床の小規模のホスピス部門がある。
ノルウェーでは、六ヶ所の主要医師養成機関と多くの地方医療施設に苦痛緩和ケ
アセンターが置かれている。

 人生の末期を迎えた人を認定する制度では、イギリスが最も発達している。こ
うした人にはその症状とニーズを評価するアドバイザーが手配され、本人の希望
を聞きながらその将来を設計するのを手伝う。

 アメリカでは大きな負担が個人に掛かるので、賢明な資金計画を作り、どのよ
うな延命措置を拒否するかについて遺言を書いておく。アメリカの法律はこうし
た遺言を実行するのを妨げない。

◇家庭こそが安住の場

 すべての富裕国において、病弱者と高齢者がますます多く家庭で面倒をみても
らうようになっている。多くの場合、娘や義理の娘が仕事を辞めなければならな
い。ヨーロッパの多くの国においては、こうした私的ケア提供者には公的な支援
が与えられる。対照的に今のアメリカでは、離職した家族介護者は医療保険と社
会保障を奪われる。しかし、家族介護者が増加し、その政治的な声が高くなると
、政治家は改革を迫られるだろう。

 家族のケアに過度に依存することには弱点がある。現在、両親のケアに取り組
んでいるベビーブーム世代(団塊世代)には子どもが少ない。自分の番になると
、誰がケアを提供できるだろうか。

 老人ホームが一つの答だが、ケア労働者はこれらの施設がどの程度慢性疾患者
の面倒を見うるかを懸念している。過去20年間に改善されたものの、すべての
老人介護施設が苦痛緩和的なケアを原則的に容認しているのではなく、それには
まだまだ抵抗が強い。老人介護施設には麻薬性鎮痛剤の投与が認められていない
し、可能な治療を怠ったとして遺族から訴えられるリスクもある。老人向け施設
には、末期ケアについて考えの違う様々な人が関与している。

 先進国でも未だ道は遠い。苦痛緩和ケア専門家は、慢性疾患者が送られてこず
、癌患者ばかりだと嘆いている。心配の一つは労務費の高騰だ。苦痛緩和ケアは
高価な技術に依存しない反面、清掃衛生、食事、洗濯などに人手が要る。ヨーロ
ッパではこのような労働が貧しい東欧諸国からの労働者によって、アメリカでは
スペイン語系の移民によって提供されている。だが、このような労働の希望者は
無限に続かない。

 死という現実に人が向き合うのを助けることが、ホスピス運動の最大の功績の
一つである。この面でも、未だなされるべきことがある。死について語ることは
タブーでなくなったものの、老衰や痴呆について話すのは容易でない。

 世界中のケア関係者は相互間で掘り下げた議論をしている。来る40年間に運
動が成果を収めるためには、一般国民に対してもっと語りかけてゆかなければな
らない。

◇コメント

 生と死の問題は神の領分に属する、と長い間考えられてきた。啓蒙主義は人間
の自己決定力を強調してきたが、死そのものを自己決定の問題としてはまり考え
てこなかった。これまでいかに生きるかはいろいろと論じられてきたものの、い
かに人間らしく死んでゆくかが正面から取り上げられようになってから日は浅い
。誕生は自分の意思の外にあるとしても、死の問題は自分である程度自主的に決
定しうる範囲内にあることを認識すべきだろう

 私の非常に親しかった、あるスイス人から自分の母の死に方を聞いて、ショッ
クを受けたことがある。一人住まいを長い間続けてきた母親が高齢になり、ある
日「自分は十分生きた」と宣言して、絶食によって自らの命を絶つ道を選んだと
いう。肉親もそれを容認し、静かに彼女を見送った。このことが尊厳死について
私が考える契機となった。

 いたずらに延命を図ることは尊厳死につながらない。今の日本では、高齢者が
尊厳死の道を選ぶのは困難だろう。家族が自分の肉親の死を早める措置を認める
ことは、非人道的との非難を浴びかねない。

 病院は高齢者の延命措置を積極的にとる場合が多いし、高齢者が延命のためと
して手術を勧められることもしばしばだ。そのような手術が体力を消耗させ、仮
に成功しても、健康な生活を維持できなくする可能性が高い場合でも、医者が手
術を行なうケースは多い。手術は医師にとって自分の技能を高める機会であり、
病院にも高収入をもたらす。日本のように、医者が患者に絶大な権威を行使し、
患者が唯々諾々と従う国においてはこうした医療の乱用がはばをきかせる。

 高齢者医療が医師の裁量内で野放しになっている限り、医療保険制度の危機は
続き、緩和ケアによる尊厳死の道は遠い。不評の高齢者医療制度のように、財政
面の理由からのみで制度の設計を考えるのは本末顛倒もいいところだ。

 先日、老人ホームについて、自ら家族ケアの経験のある女性コンサルタントか
ら話を聞く機会があった。現在、ある程度のケアが保障される基準を満たしてい
るとして認定されている施設は40万人分にすぎず、すでに満杯になっている。
それだけではなく、40万人がウエイティングリストに載っており、今から申し
込んでも見通しは立たないという。彼女に持ちかけられる相談の多くは、ケア付
と宣伝、販売されている高齢者用民間マンションのトラブルであるという。

 このようなマンンションを広告だけみて購入する人があとを立たず、社会問題
となっているという。こうしたマンションは高額の月間サービス料を取っている
が、それに見合う給付はほとんどなく、解約しようとすると高価な入居料がただ
同然になるならまだましで、多額の違約金を採られるケースもあるという。しか
も、このようなマンションには流通マーケットがなく、相続でもしようものなら
、放棄もできず、利用していなくとも毎月月多額な利用料を契約通り払い続けな
ければならなくなる悲劇が待っている。まったく、詐欺まがいの金もうけの横行
が看過されている。

 自宅を終の棲家にすることを希望するのは、普通の人にとって当たり前のこと
だろう。この前提に立って、安らかで苦痛の少ない終末期を迎えるケアが保障さ
れる介護医療制度を求めて、もっと議論を拡げることが急務のように思われる。

                (筆者はソーシアル・アジア研究会代表)