【コラム】槿と桜(99)

高齢者無料乗車制度の行方

延 恩株

 韓国では、65歳以上の高齢者は老人福祉法によりソウルを始め全国の地下鉄や都市鉄道を無料で利用できます。そのほか障害者、国家有功者も乗車料金無料で乗れますが、高齢者の利用がいちばん多くなっています。現役を退いて収入減となっている高齢者にとってはありがたい制度です。
 日本では、交通料金を思うと、出かけるのを控えがちになって、行動範囲が狭まってしまう、と高齢者から聞いたことがあります。日本では自治体によってそれぞれ交通機関(主にバス)の無料パスを発行していますが、多くが一定の金額を納入しなければならない仕組みを取っています。日本でも高齢者の交通機関の無料制度が取り入れられた当初は、利用者側からの負担はなかったところがほとんどだったようです。しかし、次第に利用者側への負担を求めるようになり、現在では、それが当然視されています。
 このような日本の事情に比べますと、韓国の高齢者は恵まれています。

 韓国でこのような制度が導入されたのは、1980年5月8日の「어버이날」(オボイナル 父母の日)を記念して、当時の崔圭夏(최규하 チェ・ギュハ)大統領が70歳以上の高齢者に対して地下鉄料金を半額負担としたことに始まります。そして、1981年に全斗煥(전두환チョン・ドゥファン)大統領に代わると、老人福祉法が制定され(日本は1963年に制定)、「高齢者」の定義が変わり、70歳から65歳に年齢が引き下げられました。
 こうして、1984年からは65歳以上の高齢者に対して地下鉄利用などが無料となり(その後、障害者、国家有功者も加えられた)、現在では全国の鉄道でこの制度が実施されています。

 ところで、統計庁が2022年9月29日に「2022年高齢者統計」を公表しました。7月1日現在、韓国内の65歳以上の高齢者人口は901万8000人で、昨年比5.2%(44万7000人)増となり、高齢者人口が900万人を突破したそうです。
 ちなみに2018年当時では、全人口5163万5000人に対して65歳以上の高齢者人口は738万1000人でしたから、わずか4年間で163万7000人も増加したことになります。
 高齢者比率も2018年では総人口比14.3%から2022年では17.5%となっています。世界保健機関(WHO)などの定義では、人口に占める65歳以上の高齢化率が7%超で「高齢化社会」、14%超で「高齢社会」、21%超が「超高齢社会」とされています。韓国の高齢化のスピードが速いことを考えると、2018年に「高齢社会」となっている韓国ですが、「趙高齢社会」になるのも時間の問題と言えそうです。事実、統計庁は、今から3年後の2025年には高齢者の割合が20.6%になると予測しています。
 ちなみに日本は、2022年6月14日に内閣府が公表した2022年版「高齢社会白書」によりますと、65歳以上の人口は3,621万人で、総人口に占める高齢化率は28.9%でした。日本では2007年にすでに高齢化率が21%を超えて「超高齢社会」となっていて、65歳以上人口は増加傾向が続いていますが、2042年以降は減少に転じると推計されています。

 上述しましたように、韓国で高齢者に対して地下鉄などの乗車料金を半額とする制度が始まったのは1980年のことでした。当時、65歳以上の高齢者は全人口比率では3.8%に過ぎませんでした(韓国統計庁「2010 高齢者統計」より)。その4年後に高齢者の乗車料金を無料とする政策へ転換しても人口比率からすれば少なく、社会的にも歓迎され、軍事政権だった全斗煥大統領の不人気を多少なりとも挽回する政策としては有効でした。
 しかし、今や韓国社会の状況がすっかり変わってしまいました。すでに見てきたとおり、高齢社会から超高齢社会への突入スピードは日本のそれを上回ってしまっています。

 この急速な老人国家化が韓国の優れた福祉政策の一つであるはずの高齢者乗車料金無料制度が鉄道企業には大きな脅威となってきています。
 このような事態になることは人口動態などの統計を通して予測はできていたはずですが、この制度が高齢者からは歓迎されているだけに、政府としても明確な方針が出せずに今日まで来てしまっています。
 一方、ソウル市の地下鉄運営機関は2013年にすでに高齢者の無料乗車年齢を「70歳以上」に引き上げるよう老人福祉法の改正を求め、さらに無料乗車による損失額補填等の建議案を国土交通部、保健福祉部などに提出していました(『中央日報』2013年11月9日)。
 鉄道を運営する企業側からすれば、福祉政策の一環であることは十分理解できても、経営上からは、圧迫要因を避けたいはずですから、このような要望を9年前にすでに政府に出していたのでしょう。ただ当時は、現在ほどの赤字経営に追い込まれる認識はまだ薄かったのかもしれません。
 しかし、今や深刻度が増し、非常に強い「要求」に変わりつつあるように見受けられます。
 全国の都市鉄道機関が高齢者などの運賃無料制度によって生じている損失分を政府が支援するよう要求するようになったのは、『中央日報』が2013年にすでに記事にしていますから、それ以前からあったことがわかります。
 企業側は赤字を解消するために、現在ではたびたび運賃の値上げと人員削減をセットとして出してきていますが、高齢者の運賃無料制度も必ず問題化されるようになっています。
 2022年11月30日には、ソウルの地下鉄を運営するソウル交通公社の労働組合が人員削減を大きな争点としてストライキに入りました(1日で労使が合意し妥結)が、高齢者の運賃有料化も取り上げられていました。

 急速な人口高齢化のなかで、優れた福祉政策の一つとされている高齢者の運賃無料制度の見直しに目が注がれ始めているのはまちがいありません。超高齢社会が迫っていて、高齢者の乗車率はますます上り、鉄道企業側の赤字は確実に増加するばかりだからです。
 そのためこれまでもさまざまな対応策が言われてきていました
 ・健康な高齢者が増えているので、運賃無料年齢を70歳以上に引き上げる。
 ・朝夕の通勤時間帯を除いた利用時間帯の設定。
 ・高齢者用の料金設定
 ・政府が支援する
 しかし、高齢者側からすれば、鉄道企業の経営悪化は高齢者の乗車料金無料化だけが要因ではないだろうと思うはずです。
 また、国レベルでも高齢者の乗車料金無料が社会的な問題となっていることは認識していても、国費投入による赤字分支援となると、財源に限りがあるだけに、動きは鈍いと言わざるを得ません。しかも、かりに高齢者の乗車料金無料年齢を70歳に引き上げたり、一部負担といった制度にしたりしますと、〝弱者切り捨て〟の声が上がってくるのは目に見えています。
韓国の場合、高齢者の生活は厳しく、自分(あるいは配偶者も含む)の年金でなんとか生活費をやりくりすることはほとんどできないという現状があります。公的年金である国民年金は1988年になってようやく制度として始まったばかりで、当初は加入者が限定され、その後、加入対象の範囲が段階的に拡大されましたが、国民皆年金になったのは1999年でした。しかも、年金は40年間加入して満額支給されますから、創設当初から公的年金に加入していた人でも、現時点では満額を受け取ることができません。
 こうして韓国の高齢者の相対貧困率(簡単に言うと、所得が中央値の半分を下回っている人の割合)は、2020年度で40.4%(シンクタンク韓国経済研究院の資料)で、具体的には65歳以上で、年収約1500万ウォン(約160万円程度)に満たない人が10人のうち4人存在していることになります。この数字は経済協力開発機構(OECD)加盟の38カ国中、最悪となっています。ちなみに日本は高齢者の貧困率は20%で、アメリカは23%、イギリスは15.5%という数字になっています。
 年金が当てにできないのであれば、子供に頼るか、健康なら自分で働くしかありません。そのような状況は数字に現れていて、1年前の統計ですが、2021年7月27日に公表した韓国統計庁の「経済活動人口調査 高齢層付加調査」では、65~79歳の高齢者の就業率が42.4%でした。高齢者の就業率が高めなのが必ずしも悪いとは言えませんが、韓国の場合は、生活費を得るために仕方なく働いている人が多いのは、やはり問題でしょう。
 実際、高齢者が就いている職業では単純労働業務がいちばん多く、次いで農林漁業業務、サービス・販売業務の順で、多くは単純作業です。
 しかも、非正規労働者として雇われている高齢者がほとんどで、身分的には不安定で、賃金も低水準です。

 生活ができないから働かざるを得ない高齢者が多い状況を見れば、高齢者乗車無料制度の見直しがいかに大きな問題であるかがわかると思います。もし、この制度を改正するとなりますと、高齢者には〝改悪〟と映るはずです。
 10年以上も高齢者乗車無料制度改正問題がくすぶり続けながら、いまだに手が付けられてこなかったのは、国の福祉行政が十分ではないこととも大きく絡んでいます。
 とはいえ、高齢者の貧困率が高いという現状があるものの、乗車無料制度をこのまま維持していくのも限界に近づきつつあるようです。いずれ制度見直しが本格的に論議され始めるのではないでしょう。
 
 韓国にはお年寄りを敬い、大切にする気風があります。その民族の精神的美点を忘れず、尹錫悅(윤석열 ユン・ソギョル)大統領には、お年寄りも納得できる解決方法をなんとか見つけ出して欲しいものです。

大妻女子大学准教授

(2022.12.20)
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