【コラム】八十路の影法師

黄檗宗こぼれだね

竹本 泰則

 毎月のように参加している集まりの席で話をする番が巡ってきた。話といっても、会員の親睦を深めようという趣旨のものなので、趣味の話でも雑談的なものでも許される。特段深い考えもなく、日本の禅宗の一派である黄檗宗をテーマにしてまとめてみようと思い立った。
 住まいがある調布市に隣接する三鷹市に禅林寺という黄檗宗の寺院がある。ここは森林太郎(鷗外)と太宰治の墓があることでも知られており、それぞれの忌日には今でもファンの人たちが詣でている(太宰の忌日は「桜桃忌」の名でよばれている)。さほど遠い場所ではないので二、三度訪れたこともある。
 黄檗宗のお寺は希少といえる。東京都にはおおよそ3千ケ寺くらいの寺院があるというものの、そのうち黄檗宗寺院は13ケ寺しかない。そんな黄檗宗と二人の有名な作家がどのようにつながるのか、そのことへの興味もあって、手探りを試みた。
 
 森鷗外の墓の事情については比較的単純であった。
 森家は石見国津和野藩の典医の家系。鷗外は十歳のときに父親とともに上京するが、そのときに住んでいたのが東向島。近くには弘福寺という黄檗宗の寺がある。この寺は鳥取藩主池田家の菩提寺であり、津和野藩の関係者の墓も多いらしい。大正11年(1922年)7月に逝去した鷗外も同寺に埋葬されていた。ところが翌年の関東大震災で寺は全焼する。震災後の復興計画では、地震に伴う火災に対して公園緑地や広場がもつ延焼防止機能が重要視されて、三大公園(浜町公園、隅田公園、錦糸公園)の設置が決まる。これに伴う隅田公園の拡張計画によって森家の墓地はその用地に入れられてしまう。このため、昭和2(1927)年に同じ宗派の禅林寺に墓を移したという。

 一方、太宰の場合はいささか複雑。その生家である津軽の津島家の宗旨は真宗大谷派。太宰はまだ大学生であったときに、青森の芸妓を東京に呼び寄せ結婚すると言い出す。これを諫めるために惣領である長兄が上京したが説得は不調に終わり、太宰は、分家除籍を言い渡されたのだそうだ。そんな事情からすれば東京に墓があるのはおかしくはない。それにしても黄檗宗となると不自然の感がある。
 
 太宰に「花吹雪」という小説があり、その一部に次のような段がある。
 
 (上略)すぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鷗外の墓がある。どういうわけで、鷗外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない(下略)
 
 フィクションなので本心であるかどうかわからない。しかし、なんとなく真実味もただよう。
 太宰は、芸妓との離別を経てのち、井伏鱒二の仲介による縁談で地質学者・津島初太郎の四女・美知子さんと結婚している。この方は東京高等女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)を出られたという才媛。井伏鱒二の自宅で昭和14(1939)年に結婚式を挙げた太宰夫婦は、それから半年余り美知子さんの実家がある山梨県の甲府市で借家住まいをしている。同年に現在の三鷹市下連雀の地に転居しているが、この家が太宰の終の棲家となる。太宰が「花吹雪」を書いたのは三鷹市に住んで4年半、死去の3年半前くらいのころだろうと思われる。

 妻・美知子さんの著書『回想の太宰治』には、太宰が没した後についての記述がある。
 彼女は、できれば生家の菩提寺である南台寺に眠らせたいという気持ちから、先ず郷里の長兄に相談している。その返事は、「故郷に帰るに及ばず、東京で葬るように」であった。美知子さんは真宗にこだわり、東京の真宗の寺に当たるも思わしい墓地は得られなかった。そこで、生前の太宰と一緒に鷗外の墓に詣でたゆかりもあって、地元の禅林寺の住職(現住職の先代)にお願いをしたところ、快諾が得られて森家の墓地の斜前の一廓をゆずってもらったという。太宰を埋葬することには、檀家総代からのクレームも強かったようだが、先代住職が抑え、一周忌に間に合わせて墓が立てられたそうだ。太宰治の墓の横には、気持ち小ぶりながら津島家の墓があり、美知子さんはここに眠っている。
 
 黄檗宗については、江戸時代初期に隠元禅師という中国(明末)から渡来の僧によって開かれた禅宗というくらいの認識しかなく、その宗風については全くと言っていいほど知識はなかった。手掛かりを探してあれこれ当たっているうちに、黄檗宗の一つの大きな特徴は誦経にあることがわかった。太鼓や銅鑼などを使って独特の節回しで経を読む。
 インターネット上に公開されている動画を再生してみると、経文にルビをつけてくれるものがあった。その漢字の読み方は、慣れ親しんだ読み方とは大いに違う。般若心経では、「般若(はんにゃ)」は「ポゼ」、「色即是空」は「スェ チ ス クン」といった具合。
 この漢字音は、わが国の漢字音の種類としては唐音というグループに入るようだ(宗派内では「とういん」とも呼ばれているらしい)。唐音は中世唐音と近世唐音とに分かれる。平安時代初期の遣唐使の廃止によって国レベルでの中国との交流は途絶えたが、その後も私貿易を含めて両国間の交流は続いている。その中で、主に中国禅宗の僧や民間貿易の商人たちになどよって持ち込まれた漢字音を唐音といっている。そのオリジナルである中国音は使われていた時代も土地もさまざまであり、既存の呉音・漢音のようにすべての字にわたるような体系はなく、物の名前など特定の語として入ってきた音だという。
 中世唐音は鎌倉時代の臨済宗・曹洞宗で仏典読誦などに用いられた音が主となっており、近世唐音は江戸時代の黄檗宗を中心とする仏典読誦などに用いた音や長崎通事(長崎に配置されていた通訳)や漢学者が学んだ音といわれているようだ。
 1万3千5百語あまりの漢語を収録する辞書・『言海』で唐音語とされる言葉は96語しかなく、その中で現代人になじみのあるものはおおむね中世唐音だという。
 
 近世唐音の実態は、素人にとって手がかりとなる情報が乏しい。たまたま数詞、十干十二支を表す語については字音が紹介されていた。数詞はこんな具合だ。
 一(イー)、二(ルー)、三(サン)、四(スー)、五(ウー)、六(リュー)、七(チー)、八(パー)、九(チュー)、十(シィー)、百(ペイ)、千(チェン)、万(ワン)……。
 若いころから麻雀にうつつを抜かしていた身なので、麻雀用語との類似性に驚く。麻雀では二には「両」を当て「リャン」というが、これを除けば十まではみな同じ。「万」をワンと読むのも同じなのだ。
 一方、十二支のはじまりの字である「子」は「ツ」と発音するとあった。この字は一般に漢音、呉音とも「シ」、唐音として採用されているのは中世唐音の「ス」だけだと思う。椅子、扇子などは「ス」で読む。
 しかし、現代日本語にも「子」を「ツ」で読む単語がある。体面、面目などを意味する「面子」がそれ。麻雀でもこの言葉は大いに使う。ゲームの対戦相手も「メンツ」という。
 辞書によれば「面子」という熟語は「メンシ」と読み、古くから使われている熟語のようだ。10世紀末に著わされた『旧唐書』)に体面の意味で使われているという。その読み「メンシ」が「メンツ」に変わっていったのは、素人の想像に過ぎないが、黄檗宗による近世唐音ではなく麻雀用語の影響ではなかろうか。
 黄檗宗の開祖・隠元の来日は1654年、本山である黄檗山萬福寺が開山するのが1661年。一方、麻雀という競技がわが国に入ってきたのは20世紀なってからのこと。麻雀用語は黄檗宗における漢字音との類似性は大きいとはいえ、それを近世唐音とするのは無理のようです。

(2024.9.20)
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