農業は死の床か。再生の時か。 濱田 幸生
私がグローバリズムと戦おうと思ったわけ(第1回 有機JASの大罪)
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□私の作った団体の私的総括から□
私がグローバリズムと戦おうと決心してから何年かたっています。それまで意
識的にグローバリズムを考えたことはありませんでした。今回は、それを考える
きっかけをお話しすることから、現実に資本グローバリロムはどのような形をと
って農業現場に現れるのか、そしてどのような爪痕を残していったのかについて
考えてみたいと思います。
さて、今でもそうですが、有機農業は生産量も少なく、おまけに各地の「村の
変人」ばかりでしたので、それが手をつなぎ、いわばひとつの舟を作っていこう
という指向自体が存在しませんでした。有機農業が社会的に孤立しており、市民
権がなかったように、個々の有機農業者もまた孤立した存在だったのです。
自らの農場にこもる傾向のある私たち有機農業の仲間たちに、共同の産直事業
体を作り、ネットワークのウイングを伸ばしていこうというのが、私たちが当時
発した呼びかけでした。その呼びかけに応えた数少ない団体を結び合わせ、県境
を意識的に超えていく試みがなされました。
私はこのグループに、長崎浩さんの本で読んだ「異なった立場で、様々な生物
種が自らの生態系を守りあう協同体をギルドと呼ぶ」という言葉に希望を託して
「有機農法ギルド」と名を付けました。農協のように一本である必要はない、か
といって、今までのよう孤立してはいけない、ゆるやかにモノのやりとりでつな
がろうじゃないか、という気持です。
戦争と革命、農業の工業化の世紀であった20世紀の最後の年1999年、今から
ちょうど10年前のことです。
このギルド・システムは各地の有機農業グループを運送デリバリーと情報と人
的ネットで結びつけ、各団体の代表者によって理事会を作るものです。理事会で
方針や作付けを合議し、その元の事務局で受発注を行うという方式が、うまく作
動するのか、だれにも分からなかったのです。
多くのトライアル&エラーが続きました。まさに膨大な時間と労力を要してい
ます。このようなシステムは類例がなく、モデルがないためにすべてが手探りだ
ったからです。
元来、自分に頼むものが強く、反骨精神の塊のような有機農業者の連中ですか
ら、作付けや方針を巡る利害対立は日常茶飯事で、常に分解の危機をはらんでの
運営でした。まがいなりとも、一個のまとまった経済団体にまで仕立てていくま
でに丸々3年間を要しています。
この努力の結果、有機農産物の流通量の絶対量は飛躍的に増えました。ピーク
時には、茨城、千葉、栃木にまたがる100町歩を超えるJAS有機認証圃場と、7
0名を超える生産者を擁する関東地方で随一の有機農産物の団体でした。またそ
れに応じて、社会的な認知も受け、売り上げも順調に伸びていくかに思えました。
私がこのギルド・システムの成功を信じかけ始めた時、あるところでこの成長
は急停止したのです。理由はなんだとお思いでしょうか?
生産量が需要に追いつかないのです。私たちの産直の相手だったパル・システ
ムは、当時50万人の先を目指す組織拡大路線に入っていました。仮にその消費者
のわずか1%しか有機農産物を望まないとしても、その数は実に5千人にものぼ
ります。
もっと生産量を上げてほしいという要求が矢のように来ても対応が出来ません。
むしろ続く天候不順の中で、現在の供給量不足すら起きていたのですから。
私たちのグループが突き当たった大きな壁、それが有機農業の生産量の少なさ
から来る供給量不足の壁だったのです。既存の有機農業の団体を網羅し、生産者
をネットし終わると、地域の有機農業の生産量の底が見え出してきました。
もちろん言うまでもなく、直営農場の規模拡大、新規生産者作りなどといった
ことは徹底的になされたのですが、大きく状況を変えることには到りませんでし
た。なにがボトルネックだったのでしょうか。多くのネックはありました。有機
農法の技術的な難しさ、変動しやすい気象条件、作付け計画の疎漏、生育確認の
遅れ・・・、それらは予想しえたことでした。
しかし何よりJAS有機認証制度という大きな壁が、有機農業生産への参入を
拒んでしまっていたのです。
□有機JASはグローバリズムのトロイの木馬だった
わが団体のパックセンターを見ると、「農林規格JAS有機認証取得」という
大きな看板がかかっています。今ながめると、なんとも言えないほろ苦さがわい
てきます。そう、そうだったな、あれを掲げた2001年の秋の時には、無条件に
嬉しかったっけ。
今はもはや引きずり降ろしたいような看板ですが、当時は村内への宣言のよう
な気分でした。幕末のある人が書いた手紙にあるように「「もし疑わしく候わば、
われらの所業を眼を開けて見よ」とでもいうところでしょうか。このたった一
枚の看板の背後には、それまでなにかと言えば陰で、「隠れて農薬さ振ってんだ
っぺ」というような疑いの視線を、宣言することで「どうぞ、いつでも見て下さ
い。私たちには隠すものはなにひとつない」、という覚悟とも気負いともつかな
い強い感情が流れていたのです。
1997年頃から有機認証に対しての私たちの研究は続けられてきました。で
は当時から、積極的にJAS有機認証を取得するという意志があったかといえは、
かならずしもそうではありませんでした。むしろ、世界情勢としてもはやコー
デックスがステップ7まで来てしまっている以上、有機認証制度から逃げること
はもはや不可能だろうと観念した、というのがほんとうのところでした。
ただし一方で、当時の有機農産物を巡る風景がありました。当時は 農水省が
定めた農産物表示ガイドラインの時代水準だったのですが、これがどんな杜撰な
ものかは、私たちは身の回りで見てきました。
生産者が農家の親父さん、確認者がその女房殿、はたまた取り引き流通の担当
者。これで「無農薬栽培」を堂々とうたえてしまうのですから、もの凄まじい時
代でした。また、「有機」も「無農薬」もいちおうは定めはあるのですが、まぁ
そんなものは一種のフィーリングのようなもの。
量販店の担当に「どっちがいいすかね、有機じゃわかんねえしょ。無農薬にし
て下さいよ」と言われた人もいるくらいです。こんな、まっとうな有機農産物を
作っている者が馬鹿を見るようなジャングル状態の「有機」に私たちはうんざり
していました。ほとんどが、紛い物。社会面ネタで「有機栽培」のシールが束で
売っている太田市場市場が報道されても、懲りることなく悪貨か良貨を駆逐して
いるのが当時のご時世でした。
確かに有機農産物の信頼を取り戻すためには、新しい表示法が必要であったこ
とは事実なのです。では、どのようにして、誰が、となると、そもそも農水省は
「日本の風土の中で有機農業はありえない」と公言していた時代ですから、神輿
が動くはずもない。では、民間かといえば、われらが「民間」の有機農業界とき
たら、まさにバラバラを絵で描いたようなものでした。
まずは、日本でもっとも暖簾の古さを誇る日本有機農業研究会(日有研)は、
意識の先鋭な小規模農家と、消費者や学者で構成されていました。そこにおいて
は「提携」方式という個人産直や小規模グループ産直が主流で、それ以外を「商
売」として切って捨てる傾向が濃厚でした。
小農-個人産直という従来の提携運動の流れの中では、一定規模以上の流通団
体とは組めません。そしてあまりにバラバラで、規格もなく、農法も拡散してお
り、そしてなにより、余りに小規模でした。
この流れは、有機農業が出来た時からある伝統的な方法でしたが、極少派から
抜け出せず、というより、抜け出すことを意識的に否定する考えを持っていたた
めに、早晩行き詰まることは目に見えていました。
そしてそのような時代に、海の向こうからJAS有機認証がやってきたのです。
客観的でシビアな、公正な基準、そしてそれを立証する認証システム、私はこ
れを、「時代だからしかたがない」と受動的に受けとめるのではなく、積極的に
打って出て、新しい有機農業の展開する軸にしたいと考え始めました。
そしてこのJAS有機認証を、新しいグループの統合軸に作られたのが、私た
ち「有機農法ギルド」でした。まさに有機認証制度の申し子とでもいえるでしょ
う。私たちはこのJAS有機認証を、今までの個々バラバラであった生産基準の
統一のモノサシにしようとしたのです。私はためらいもなく皆に宣言したもので
す。
「今まで考えている自分の有機農業の生産基準は忘れてくれ。以後、私たちと
一緒に進みたい人はこのJAS有機認証一本で出荷してもらいます」
私たちが茨城、千葉、栃木という三県をまたぐ広域法人として、有機農産物を
流通させる時に、JAS有機認証を用いたのは偶然ではありませんでした。まさ
に、広域に農産物を流通させることこそが、有機認証制度の本質だったのです。
そして、広域で有機農産物が行き交うトレードは、私たちの当時の視線をはる
かに超えて外国からの農産物を自由に受け入れるツールでもあったのです。つま
り、それがグローバリズムだったのです。
そのように考えたとき、愕然とすることには、皮肉にも私たちはグローバリズ
ムを導き入れるトロイの木馬の役目を果たしてしまったことになります。
□有機JASはアメリカの農産物輸出のために作られたのか?!
JAS有機認証(以後「有機JAS」と表記)という法律は、さりげなく農林
規格(JAS)という実に地味な法律の枠内に納まっています。改正JAS法で、
2001年4月実施の有機農産物が入りました。このJAS法というのは、油の特級が
どうしたの、スパゲティの太さがどうしたのという、まぁ今やあってもなく
てもいいと言うとなんですが、古色蒼然とした法律です。
ところがこの一見地味な有機JASは、とんでもない食わせ者でした。とい
うは、普通、JAS法は国内法であると思われるでしょう。ところがそうではな
いのです。有機JASは、なんと青い眼をした「出身欧米、現住所日本」という
ヤツだったのです。
有機農産物、オーガニックだけは、実に変わった輸出入における性格を持って
います。輸出した先で「有機農産物」と商品名をつけるにはその当該国の有機認
証法をクリアせねばなりません。そして、出す方の国も同様な有機認証制度を持
つ必要があります。
ですから、アメリカの有機農産物を日本に輸出したい場合、名無しならどうで
もいいのですが、「有機農産物」(オーガニック)と商品を名乗りたいのならば、
アメリカで同等の有機農産物の表示法があり、かつ、日本の有機認証を受けて
パスせねばなりません。
これがWTOが定めた有機農産物貿易のルールです。そのため、欧米、ことに
アメリカにとって日本市場にオーガニック農産物を輸出するためには、是非この
有機認証制度を日本で作らせる必要があったのです。
こうした外国の、ありていに言えば、アメリカの利害によって作ることを命ぜ
られた法律、これが有機JASです。
私が有機JASは日本の有機農業のために生れたのではなく、アメリカの利害
のために生れたグローバリズムの法律だと言っているのは、そのためです。
ですから、初めに出てきた有機JASの素案にあった生産基準の文言などは、
まさに横文字の羅列化、判じ物のような直訳ばかりでした。訳している農水官僚
が、有機農業など学んだことも、見たことすらないのですから、宇宙人から頂戴
した手紙といった塩梅。
法律が施行されるまでに大分ましになりましたが、そもそも日本で出来たもの
ではなく、日本の有機農業などどうでもいいと思っている農水省が押しつけてき
た有機JASの生産基準は腰を抜かすような文言に溢れていました。
たとえば、有機圃場(畑のこと)と圃場の距離は20m開けろと出てきた時に
は、怒るよりも爆笑の渦でした。そんなところが言うも愚かですが、日本のどこ
にあるというのすか。これだけの距離がないと農薬の飛散を防げないと言う。や
がて、言っている農水省の役人も苦笑し始めます。これも後に、どうやらアメリ
カ大陸の道路の幅員が根拠だと分かってきました。
あるいは、慣行農法(通常の化学農法)の畑で使用したトラクターは、完全に
洗浄しなければ、有機圃場で使用できない。その洗った記録を残すこと。はいは
い、あんたら現場を知ってるのかねぇ・・・。
はたまた、同じ作物を慣行と有機で並行して作る場合は、農薬飛散の可能性が
あるため、収穫時に慣行との境界の有機を4mを慣行として出荷しろ。つまり、
せっかく作った有機農産物を、隣に慣行の畑があったら災難、有機としては捨て
ねばならぬってことですな。
土壌資材として一切の化学処理されたものは禁じる。これの打撃は大きかった
ですね。原料が天然素材であったとしても、その工程の中でたとえばひとつでも
硫酸などが使われていたら、もうその資材は使えなくなります。これによって、
リン系や苦土石灰系の資材が軒並み使用不能になりました。
別に危険だからウンヌンではなく、ただ化学資材が微量使われていたというだ
けで、今まで堆肥を作る上で不可欠だった安価な過リン酸石灰や苦土石灰などが
使用不能となり、わざわざバカ高いグアノというフィリピンの孤島で採れる水鳥
の糞を使わざるをえないというお笑いです。
また、培土や種子にいたるまで一切の薬品の使用が禁じられました。培土はと
もかくとして、種子は種屋から購入する以上、既に保護薬がコーティングされて
いました。市販品には存在しないのです。種がなくて、農業をやれとでも?これ
はさすがに多くの有機農業団体が抗議したために、猶予期間が認められましたが。
このような今までの日本で培ってきた農業現場での経験や伝統、そして技術を
一切無視して突然に日本に降って湧いたのが、この有機JASだったのです。
このような実情を無視した有機JASのために、日本の市場には外国産の有機
農産物が溢れる一方、有機農業は拡がるどころか、多くの日本農民にとって無意
味に狭き門と化していきます。
□一度、外国農産物に門戸を開けてしまったら
ここまでお読みになって、有機農業関係者が雁首を揃えてJAS有機に批判的
だとお思いにならないでください。このことについては、微妙に意見が分かれて
いる、というのが実際のところでしょう。
「有機農産物や食品の信頼を担保して、その市場拡大、発展に欠くことの出来
ない法律・制度」、といったあたりが一般的な見解でしょう。
しかし、私は有機JASの大罪は、三つあると思っています。
まず一つめは、日本の農業の現場を無視した外国基準を丸呑みしたような直訳
的あてはめが、日本の有機農業者の経験や蓄積といった農業「現場」を混乱させ、
時には破壊すらしました。これはJAS有機の認定を捨てていく農家が増えて
いることでもわかります。
次に二つめには、有機農業推進法ができる2006年12月まで、実に5年間
もかかったことです。これでは順番が逆です。「育てる前に規制した」ことによ
り、芽ばえかけた有機農業への参入の道を潰してしまいました。今やJAS有機
を取得しようとする新規農家はほとんどいない有様です。
これら二点については別な回でくわしくお話します。
そして三つめは、輸入有機農産物を激増させたことです
今回はこの三点めをお話します。
■[以下引用]■
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□有機農産物の生産の5倍が有機輸入農産物
―01年度の有機農産物生産・輸入実績―
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農水省は10月30日、01年度の有機農産物と有機農産物加工食品の格付実績
(生産量と輸入量)を発表した。
それによると、有機農産物の国内格付量(生産量)は3万3,700トンで、野菜が
1万9,700トン、果樹が1,400トン、コメが7,800トン、麦が700トン、大豆が1,100
トン、緑茶(荒茶)が900トン、その他農産物が2,100トン。
国内生産量に占めるこの有機農産物の割合は約0.1%で、品目別には野菜が0.13%、
果樹が0.04%、コメが0.09%、麦が0.08%、大豆が0.43%、緑茶が1.10%であった。
これに対し、海外で有機認定されわが国に輸入された有機農産物は国内産の5
倍の15万4,600トン。最も多いのは大豆で6万1,000トンで、次いでその他農産物
(アーモンド、緑豆、紅茶など)が5万8,500トン、野菜が2万6,200トン、コメが
2,672トンなどとなっている。
(2002/11/15「全国農業新聞」))
■[引用終了]■
この数字はJAS有機を始めてわずか1年半しかたっていない極初期の数字で
あるにもかかわらず、一挙に堰を切ったような輸入がはじまったことを示してい
ます。
野菜が国産有機が2万t弱であるのに対して、輸入有機野菜は2万6千tと、
軽く国産有機を上回ってしまいました。大豆などは比較にもなりません。国産が
約1千tであることに対して、その60倍もの約6万tがなだれ込んできました。
今試に、スーパーで「有機しょうゆ」と表示されている商品を買ってみましょ
う。手元にはたまたまキッコーマン「有機しょうゆ」がありますが、有機大豆は
アメリカ産です。また認証団体はEcocert-QAIとありますが、これはアメリカと
フランスの合弁会社です。なんのことはない、日本の?油という伝統食の原料は、
原料もアメリカ、認証団体もアメリカというわけです。国産は工場と有機JA
S法だけだというわけです。
味噌や納豆などで「有機」と表示されているものの、特に国産有機と表示され
ていない限りほぼすべてが外国産です。また野菜ジュースなどの原料としても多
くの果汁原料が輸入されており、国産はほとんどない状況でしょう。
輸入農産物は、1961年に6千億円だったものが、1998年に4兆円を超
え、現在も増加し続けています。特に食品業務用としては圧倒的なシェアを有す
るようになりました。
この輸入農産物の新たな市場拡大の要求として、日本の有機農産物市場が狙わ
れていたのです。そしてその目論見のために有機JASが外国の圧力によって「
作らされた」というわけです。
私は自分の経験からも、農産物がいったんグローバリズムに門戸を開放するや
いなや、たちまちにして輸入農産物に国内市場を洪水の如く制圧されると思って
います。 (このシリーズ続く)
(筆者は茨城県在住・農業者)
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