【アフリカ大湖地域の雑草たち】

(16)ナイロビの国連50年

―助けられたり助けたり―
大賀 敏子

 ◆ 逆転ゲーム

 劣勢だったチームが勝利をおさめたり、小柄な力士が大きな力士を倒したり。こんな、まさかの展開は、すかっとうれしくなる。
 いまからちょうど50年前、1972年12月、ニューヨークの国連総会は、満場一致で、国連環境計画(UNEP)本部をナイロビに置くことを決めた。先進国主導の国際秩序に対し、開発途上国がはっきりと声を上げた、その一つの具体的な表れだった。これは、スポーツ観戦ですかっとする、その感覚に似ていたかもしれない。

 ◆ ナイロビはニューヨークと同格

 国連の事務所、つまり、国連の看板を掲げて国連旗が立っている場所なら、世界のほとんどの国にある。しかし、ナイロビは単なる事務所ではなく、本部機能をもつ。本部機能とは、世界中の加盟国が常駐代表(いわゆる国連大使)を置くのを、ホスト国政府が受け入れる用意があるということだ。この意味で、ニューヨーク、ジュネーブ、ウィーンとナイロビは制度的には同格である。
 この四つとも、それぞれの土地柄を活かし、かつ、20世紀の人類史を思わせる趣向を凝らした施設だ。ただし、あふれんばかりの太陽の光、深い緑、冷涼な気候、広々としたキャンパス、どれをとっても、ナイロビ本部の美しさはとびきりである。

画像の説明
  左からニューヨーク、ウィーン、ジュネーブ、それぞれの国連本部~UNONホームページから転載

画像の説明
  ナイロビ国連本部~UNONホームページから転載

 ◆ 11の競争者

 1972年6月、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれ、UNEPという新しい機関を設置することが勧告された。おりしも、先進国で公害と自然破壊が大きな問題となったころ(たとえば、日本の環境庁設置はその前年の1971年)である。
 UNEP本部誘致に名乗りを上げたのは、オーストリア、キプロス、インド、ケニア、マルタ、メキシコ、モナコ、スペイン、ウガンダ、イギリスの10ヶ国であり、このほか、すでに国連の施設があった、ジュネーブ、ニューヨークも候補だった。
 国連総会(1972年9月開催の第27回総会)が、これについて話し合った。

 ◆ ナイロビは遠すぎる

 ナイロビ案は、北の先進諸国にはまったく常識外れだった。
 表向きの説明はこうだ。国連機構を膨張させることには慎重で、新設機関をつくるにしてもそれは「小さな事務局」であること、つまり、環境問題解決のために自ら乗り出していくのではなく、すでにある諸活動や既存の知見を活用、調整してまとめる役割を持たせること。となると、サイエンスと国際協力のメインストリームの近く、つまりヨーロッパに置くのが効率的で、「他の機関から遠すぎる場所に置くのは、ミステイクである」(イギリス代表)。

 費用も問題だ。立候補したどの国もそれぞれある程度の自己資金を出すつもりで、ケニアはこのとき40万米ドル用意できると申し出た。当時の経済規模と貨幣価値を考えるとたいへんな太っ腹だが、資金力で先進国と競争するのは、もともと勝ち目がない。そもそもジュネーブ、ニューヨークであれば、看板一つを新しく付け加えるだけで、はるかに安あがりだ。

 さらに、公式記録は見当たらないが、こんな感情もあったのではないか。おいおい、空港、道路はダイジョブか、オフィス機器はあるのか、秘書や補助スタッフの人材は確保できるのか、きちんとした病院や学校がなければ、誰も赴任したがらないぞ。

 ◆ はい、いかにも常識外れです

 これに対しケニアは、この常識外れを逆手にとった。
 「国連機関の本部はこれまでひとつも途上国に置かれてこなかった。だからこそ、これからは途上国に置く順番なのだ」(オデロ・ジョウィ国連大使)。
 このとき持ち出したのが、平等な地理的分配(equitable geographical distribution)という考え方だ。地理的バランスを保つという、このわかりにくい言葉は、国連の金科玉条の命題だ。国連憲章には、こうある。

 「……総会は、第⼀に国際の平和及び安全の維持とこの機構のその他の⽬的とに対する国際連合加盟国の貢献に、更に衡平な地理的分配に特に妥当な考慮を払って、安全保障理事会の非常任理事国となる他の10の国際連合加盟国を選挙する」第5章(安全保障理事会)第23条第1項 <太字筆者>

 「職員の雇用及び勤務条件の決定に当って最も考慮すべきことは、最高水準の能率、能力及び誠実を確保しなければならないことである。職員をなるべく広い地理的基礎に基いて採用することの重要性については、妥当な考慮を払わなければならない」第15章(事務局)第101条第3項 <太字筆者>

 分かりやすく言えば、国連旗の下には、黒い顔、白い顔、西洋的服装をする人、宗教的理由でベールや帽子を着ける人などが、まんべんなく顔を出すようにしましょうというイメージだ。たとえば最近の事務総長の顔ぶれも、コフィ・アナン、潘基文、アントニオ・グテーレス、つまりアフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人と、まんべんなくなっている。
 事務所の場所を決めるのに、世界地図のうえでまんべんなくバランスをとるべきだという規定は、憲章にはない。いわば、その精神を借りてきたものだ。

 ◆ 南の団結

 南の国々がケニアを助けた。
 「国連ができたばかりのころは、加盟国の大半が先進国で、大国が自分たちに有利になるようにコントロールしていた。しかし、いまや130ヶ国以上が加盟し、状況は変わったのだ」(スリランカ代表)。
 「ストックホルム会議が始まったときは、産業が発展した国の問題を解決するのが主目的だった。実際のところ、途上国も会議に呼ばれたのは、全世界のためという原則を尊重していますよ、という印象を与えるためにすぎなかった。しかし、いまや途上国も環境問題に熱心に取り組む決意をした。(本部誘致についての)この事案は、ケニアの格を上げるかどうかの問題ではない、人類全体の利益に資するものだ」(ガーナ代表)。
 インド、ウガンダのほか、いくつかの途上国が本部誘致に興味を示していた。しかし、南のなかで分裂するより、団結して北に対峙する、「小異を捨てて大同につく」のが得策だと選んだ。

 ◆ 東西が一致

 ストックホルム会議に、ソ連と東側諸国は参加しなかった。西ドイツが招聘されたのに対し、東ドイツが招聘されなかったという政治的理由だ。このため東側は「ストックホルムにいなかったのだから判断できない」と、UNEP設置を含む、政策的決議案には棄権票を投じた。ところがその東側も、ナイロビ案には賛成した。環境問題に取り組む途上国の決意を応援するためとのことだ。
 かくて国連総会は、UNEP本部の場所について次の二つの条項からなる決議を採択した。満場一致である。東も西も、南も北もみな賛成で、棄権もなかった。
 1.途上国に置く。
 2.ケニアのナイロビに置く。

 当時の報道によると、ストックホルム会議事務局長で初代UNEP事務局長のモーリス・ストロング(カナダ人)は、決定される前、「ヨーロッパが好ましい」という趣旨をもらしたとのことである。加盟国が決めれば、国連職員の意見は問題ではない。後述するが、これが国連の仕組みである。

 ◆ だからなんだというのだ

 国連の事務所ができるのは、受け入れ側には、一般論としてはいいことである。国連創設時1940年代のアメリカでも、ニューヨークに決まる前、いくつかの市が名乗りを上げて争ったとのことだ。ケニアは、1966年に設置されたUNIDOの本部誘致に立候補し、オーストリアのウィーンに敗れた経緯がある。

 ナイロビの国連付近には、ショッピングモール、高級ホテル、設備の整った医療施設、各国大使館、庭つき一戸建ての高級住宅街など、いわゆる「貧しい国」のイメージとは、およそ異なる景観がひろがる。経済刺激効果の一つの表れだ。
 また、国連職員や外交官のなかには、法的手続きをとってケニアの孤児を養子とし、育て、教育している人もいる。孤児院や貧しい人のためのクリニックに多額の出資をしてから、離任して行った人もいる。もう自分は戻ることはないだろうが、アフリカに夢を託したい、とのことだ。

 敷地はケニア政府が無償提供したものだが、建設と運営のほとんどは国連加盟国の分担金による。日本は長年アメリカに次ぐ第二位の分担金(2019年以降は第三位)を払ってきたので、形式的には、日本の納税者がこの美しい施設を支える柱となってきたとも言える(下図)。しかし、日本で話題になることはほとんどない。

画像の説明
  主要国の国連分担金の推移~出典は外務省

 それどころか、ケニアでも、こんな声が聞かれることがある。
 国連本部がある、だから何だと言うのだ。外国人が大勢来て、幸運な者だけ仕事を得たり、富を手にしたり、結果的には貧富の差が広がっただけではないか。

 ◆ 焦眉の課題

 「1972年のあのとき、ニューヨークで、ケニアは歴史の流れを大きく変えた」
 こう言うのはケニア人のドナルド・カニアルだ。当時、ニューヨークの若い外交官で、ナイロビを紹介する資料をつくったり、国連事務局が現地視察に来るのを段取りしたり、大きな役割を果たした。彼は後に国連職員となり、筆者の上役でもあった。
 彼は、ナイロビにUNEP本部ができたことを、単なる一つの出来事としてではなく、大きな歴史の流れのなかに位置づけてとらえている。

 1972年はどんなときだったか。9月の国連総会でのケニア外務大臣の一般演説を見ると、米ソのデタント、東西ドイツ、朝鮮半島、ベトナム和平に向けたパリ会談、中東情勢などへの言及がある。これらと並び、アフリカ人の視点からは、なんと言っても焦眉の課題は、南部アフリカの解放だった。
 南ローデシア(ジンバブエ)は白人マイノリティ政権下にあり、モザンビーク、アンゴラではポルトガルの統治が続き、南アフリカはアパルトヘイト体制にあり、南西アフリカ(ナミビア)は南アが支配していた。

 おりしもケニアは、1973~74年、安保理非常任理事国に選ばれた。独立後10年そこそこの若さである。ナイロビ国連本部を実現するのに南の国々に助けられた。だから南部アフリカについては、保守的な態度をとり続ける大国に立ち向かい、仲間たちを助ける番だった。

 ◆ 歴史のうねり

 この後、南部アフリカ諸国はそれぞれ独立を果たした。1990年、南アフリカではネルソン・マンデラが釈放され、1994年、アパルトヘイト廃止後初めての民主的選挙が、国連監視の中での実施された。これらの出来事ひとつひとつが、人類史への、けっして無視できない貢献だ。

 繰り返しになるが、ナイロビ国連本部は、南が団結して北の譲歩を勝ちとったうえ、さらにこれに東も西も合意して実現した。小さな者も力を合わせ、一致協力すれば大物を動かすことができるという証明だ。この一つの小さなサクセス・ストーリーは、南の強い団結と非同盟運動という歴史のうねりのなかに位置づけてみると、いちばんしっくりおさまる。そして、改めて、その珠玉の輝きを放つ(南部アフリカの解放については『オルタ広場』2021年7月号の拙稿でもふれたhttps://bit.ly/3rrRZr2)。

 ◆ 誰のサクセスなのか

 国連広報センターは「国連の最高の成功例の一つが、南アフリカのアパルトヘイトを廃止させたことである……国連はほぼその創設期からアパルトヘイトとの闘いに係ってきた」という。国連という名の主体があって、それが自発的意思で行動した、といった印象を受けるが、別の言い方をしてみよう。すなわち、アパルトヘイトの廃止は、加盟国が国連を上手に使った成功例の一つである。
 さらにもう少し言葉を足せば、こうなるだろう。国連という仕組みを使う、そのノウハウにたけ、意欲と情熱をもった人材が、当時の途上国に少なからずにいたこと。そしてその人たちが、助けられたり助けたりという、基本的だが忘れがちな人間関係の価値観を、仕事に当てはめて実践したということだ。

 南アで民主的選挙が実現した、そのまったく同じ1994年4月、ルワンダはジェノサイドを経験した。これに対し国連加盟国は、有効な対策をとったのか、今に至るも繰り返し問われている(『オルタ広場』2021年3月号の拙稿を参照されたいhttps://bit.ly/3rwXJjp)。2022年のウクライナ情勢では、当事国の一つが拒否権を持つ安保理常任理事国であり、国連の在り方が改めて議論されている。
 いったんは成功したが、その後どのような人生の軌跡をたどるかは、いつも、誰にとっても課題だ。50周年の今年、ケニアは大統領選挙を控えている。

 (元国連職員、ナイロビ在住)

<筆者追記>
 前号(2022年3月号https://bit.ly/3KQaGN4)で、ウクライナ情勢をめぐる国連総会決議につき、3月2日に投票が行われたが、12ヶ国がこれに参加しなかった旨述べた。このうち、ベネズエラについては、憲章第19条が適用されたためであることを追記したい(United Nations General Assembly, eleventh emergency special session, A/ES-11/3, “Letter dated 27 February 2022 from the Secretary-General addressed to the President of the General Assembly”, 27 February 2022)

「第19条 この機構に対する分担金の支払いが延滞している国際連合加盟国は、その延滞⾦の額がその時までの満2年間にその国から支払われるべきであった分担金の額に等しいか又はこれをこえるときは、総会で投票権を有しない。但し、総会は、支払いの不履⾏がこのような加盟国にとってやむを得ない事情によると認めるときは、その加盟国に投票を許すことができる。」

<参考文献>
・Report of the United Nations Conference on the Human Environment, Stockholm, 5-16 June 1972
・United Nations General Assembly, A/8783/Add.1 “Location of the proposed environment secretariat: Report by the Secretary-General”, 18 October 1972
・United Nations General Assembly, twenty-seventh session, 2039th plenary meeting, official records, 25 September 1972
・United Nations General Assembly, twenty-seventh session, 2112th plenary meeting, official records, 15 December 1972
・United Nations General Assembly, twenty-seventh session, Second committee, 1469th meeting, official records, 24 October 1972
・United Nations General Assembly, twenty-seventh session, Second committee, 1483rd meeting, official records, 6 November 1972
・United Nations General Assembly, twenty-seventh session, Second committee, 1487th meeting, official records, 10 November 1972
・Political Declaration of the Fourth Conference of Non-aligned Countries, Algiers, 5-9 September 1973
・The New York Times “KIKUYU PHYSICIAN ACHIEVES DREAM, Tribesman Who Came Here With 3 Cents Will Establish Hospital”, 12 October 1958
・The Observer “Kenya’s new settlers”, 26 November 1972
・The Guardian “Hope low of Soviet block joining environment talks”, 4 June 1972
・The New York Times “U.N. Agency Rejects East German Bid” 19 May 1972
・The New York Times “Letters to the Editor, Invite East Germany”, 4 March 1972
・The New York Times “Nonaligned Warn Major Countries: 76 Nations Demand a Role in World’s Decisions – Israel is Condemned”, 10 September 1973
・The New York Times “The Algiers Alignment”, 13 September 1973
・Economist “Expatonomics: How UN staff are reshaping African cities: Expensive lunch menus, high-end car washes and imported nibbles are some of the signs”, Middle East & Africa October 30 2021 edition
・Daily Nation “Kenya’s colourful but uncelebrated legacy at the UN Security Council”, 15 November 2020
・Stanley P. Johnson “UNEP, the first 40 years”, 2012 & 2022
・国連広報センター「アパルトヘイト」
・外務省

(2022.4.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧