【アフリカ大湖地域について考える】

(5)ワクチンがつくる世界史

大賀 敏子

 ◆ ワクチン・アパルトヘイト

 3月早々、ケニアに新型コロナウィルスのためのワクチンが100万本強届いた。5月初頭現在、90万回以上接種された[1]。ワクチンを届けたのはCOVAXだ。COVAXは地球規模のワクチン普及イニシアティブで、GAVI(The Vaccine Alliance)、CEPI(感染症流行対策イノベーション連合)とWHOのリードで、ユニセフが協力する。各国政府と民間団体あわせて50を超える団体が66億ドル超を拠出している(4月中旬現在、うち日本政府は2億ドル)[2]

 ケニアでは2020年を通じて感染者数、死者数ともに少なく、アフリカ人には欧米人にはない免疫力があるのではないかと考える西側専門家もいたほどだ。ところが3月末、PCR検査陽性率が20パーセント近くに跳ね上がった。移動や集会の制限、夜間外出禁止などの措置が改めて強化された[3][4]

 これを受けてイギリス政府は、いわゆる水際対策の対象国の一つにケニアを加えた。これに対しケニアは、イギリスからの渡航者にも類似の措置をとることを決めた。このときケニア外務省が発表した声明は、穏やかならぬ言葉に満ちていた。ワクチン分配の南北格差に言及し、イギリスを含む先進諸国に対して「ワクチン・アパルトヘイト」という非難を向けた[5]。この言葉自体はすでにメディアで散見されていたので、引用符がつきだが[6]
 アパルトヘイトは、南アフリカを長く縛ってきた人種隔離政策だが、90年代に終焉した。それが、コロナ禍のいま復活した。

 ◆ WHOが聞きたくないコメント

 南北格差と同時に、ケニア国内でも格差が進行していた。まず医療従事者、軍・警察、学校の教師、次いで高齢者、持病のある人という優先順位が発表された。ところが、実際はダブルスタンダードが横行しているといった情報が流れた[7]。これが「われも」「われも」と広がり、ワクチンがあると言われた病院には、早朝暗いうちから行列ができた。ワクチン懐疑論もあったが、あっというまにふっとんだ。なくなると言われると、自分だけは入手したいとついつい考えてしまうものだ。
 ケニア人がいつも他人を蹴落とそうとしているわけではない。ほとんどの人は、自分を抑えて弱い人を助けることを大事だと考え、実践している。しかし、このことと、みんなが政府の言うルールに従って、おとなしく待つかどうかは別のことだ。

 認可されたのは、インドで生産されたアストラゼネカ製のワクチンだった。それが入手できないなら、自前でロシア製、中国製ワクチンを輸入できないものかと考える人もいた[8]。病院が満床だから、自宅に機器とナースを派遣しますというICUビジネスも現れた。確かに、公的サービスをアテにするより、自費で自己防衛を図ろうとするのは、ケニアでは今に始まったことではない。ゴミ収集、防犯対策、医療保険、救急車などがその例だ。
 接種の順番、場所、予約などについてきちんとした指示があれば、混乱を避けられただろう。実際は、政府があえて混乱をまねき、それに乗じて私腹を肥やしているからだという意見もあった。「ケニア政府はクライシスがあれば必ず悪用する」とのこと[9]

 かくて、ワクチンの恩恵を受けた初めのグループの多くは、コネ、お金、権力のある豊かな人たちだった。一時期、接種済みがステータスでさえあった。とあるタクシー運転手は、毎日不特定多数の人を乗せるというリスクにさらされているが、こう言っていた。
 「ワクチン? どうせ金持ちのためだろ」
 WHOがいちばん聞きたくない発言だ。

 ◆ どの国も試行錯誤

 一緒に働いたり、助けてもらったりした経験から述べれば、ケニアの公務員は、いろいろ課題はあるにしても、一般に優秀だと思う。そのケニアにしてこれだけの混乱があったのだから、そのほかの国でも、それぞれ課題に直面していることだろう。政府でさえなかなか行けない紛争地域を抱えている国もある。以前書いたが、コンゴ民主共和国では、首都キンシャサから自国の東部地域に迅速に行く交通手段がない[10]。どうワクチンを届けるのだろう。アフリカ全体に3,700万回分のワクチンが届けられたが、半分くらいしか活用されていないとも伝えられる[11]

 自国民と同時に、難民のことも忘れずに接種しようという努力も、アフリカにかぎらず、難民を抱える多くの国で続けられている[12]。もっとも、難民に分類されていない人はどうなるのだろう。バンコクの教会の木の下で寝起きしていた、ある南アジアの青年のことを思い出す。祖国で宗教的迫害を受けてタイに逃れてきたが、観光ビザはとうに切れた。感染したくはないだろうが、ワクチンで不法滞在が発覚し、送還されたらもっと困る。
 昨年までタイに居住していた関係で、筆者のもとに、タイ政府が接種を希望するかどうか緊急のアンケートをとっているという情報が届いた。タイ保健省は、外国人の面倒もみるのか、それとも各自の自国で受けてもらうかどうかを検討していたが、前者の判断に至ったというのが直近の報道だ[13]

 ◆ 世界中が一生懸命

 COVAXは、世界じゅうで南北同時に、まんべんなくワクチンを普及させることを目指している。メーカーからまとめ買いし、参加国は人口規模と資力に応じて、そこから購入したり、無償でもらったり。いったん配ったものでも、より緊急な国のために融通することもできる、そのような仕組みだ。ワクチンは地球みんなの公共財(global public good)だというのが基本的スタンスだ[14]。共産主義のゴールに、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というのがあるが、掲げる理想はそれに似ている。

 実際は南北同時とはいかなかったが、2月末から40日ほど(4月8日現在)で、南北あわせて100あまりの国々にワクチンを届けた。このときユニセフのヘンリエッタ・フォア事務局長は、まだ喜ぶのは早い、「知的財産権における障壁を下げ、ワクチンの輸出を制限する直接的・間接的な措置を撤廃」することなどを一層促進しよう[15]と訴えた。WHOのテドロス事務局長は、「自分さえよければ」ではパンデミックがおさまらないと、ワクチンの南北格差とCOVAXをバイパスした取引を非難した[16]。自分の担当業務をまもろうとするのは仕事のうちだろうが、学校の教師のように道徳を説くのがどれほど有効だろうか。

 インドには世界最大のワクチン製造能力がある。昨今の窮状を伝える報道の陰であまり知られていないかもしれないが、インドはワクチンの南南協力に熱心で、実はケニアにも10万回分を無償で提供した[17]。COVAXの枠外だ。COVAXは有効だが、それだけが国際協力の方法ではない。

 人類はこれまでもいろいろなワクチンを開発しては普及してきた。ノウハウがないわけではない。しかし、できたてホヤホヤのワクチンを、自転車操業で作りながら大急ぎで地球全体にひろげようとする経験はない。「みんなが安全にならないかぎり、誰も安全ではない」という大きなビジョンでは一致していても、国、集団ごとにアプローチは異なる。国際社会はアナキーだ。
 南の国は北の国を批判し、人々は政府を批判する。国際機関は国際社会に矛先を向け、政府を避ける人は、ますます逃げ回る。世界中の人々がそれぞれ目先の障害を相手にするのに忙しい。

 ◆ いまが歴史

 ビアフラ内戦、エチオピア革命など、アフリカを報道し続けた故伊藤正孝氏(元朝日新聞)は、アフリカで仕事をする喜びは、「歴史の中に生きているという実感」であると言った。命の保証がない動乱の現場で、人間の欲とずるさとともに、人々の親切と人生の知恵に出会うのは、日本国内を担当するのでは味わえない醍醐味であるといった趣旨だ[18]。これに、あらためてインスピレーションをもらっている。

 ケニア保健省と情報を回してくれた人のおかげで、筆者は一回目の接種を受けることができた。ところが、二回目の予約は延期になってしまった。インドの生産・輸出能力がネックだとの理由だ。ならば仕方ないとするのか、あくまで自分を守らねばと策を練るのか、周囲の人々の動きを見ながら考えざるをえない。

 およそ一年前、在ケニア日本大使館は日本人の一時帰国を勧めた。先進諸国のチャーター便について情報を回したり、独自にチャーター便をアレンジしたりもした。大使館がはっきり邦人に帰国を勧めたのは、筆者の知るかぎりでは初めてのことだ。世界中が未曾有の危機にあるとき、ケニアにいたら、日本なら想像もつかないような大混乱がありうべしという考えだろう。冷静に判断して帰国した人もいるし、あくまでとどまった人もいる。それぞれの事情でわざわざケニアへ渡航した人もいる(筆者はこのうちの一人)。

 コロナ禍ばかりは世界のどこにいても安全ではない。しかし、もし筆者が日本にいたら、公的機関からのお知らせをおとなしく待つだけで、世界の動きには傍観を決め込んでいたように思う。コロナは世界史の大事件だ。たまたまこの時代に生きあわせてしまった者として、ゆるされるかぎり、このアフリカから歴史を実感し続けたい。

 (ナイロビ在住・元国連職員)

[1]Ministry of Health, Government of Kenya
[2]GAVI, 16 April 2021, Key Outcomes-COVAX AMC 2021
[3]Ministry of Health, Government of Kenya
[4]後に一部緩和された。
[5]Ministry of Foreign Affairs, 3 April 2021“Press statement on the decision by UK to‘Red list’Kenya”
[6]The Independent, 6 February 2021“World is on course for a coronavirus vaccine‘apartheid’, experts warn”
[7]The Washington Post, 3 April 2021 “They have another door: Kenya’s vaccine rollout exposes rich-poor divide”
[8]Daily Nation, 1 April 2021 “Commercial vaccines now our messiah”
[9]The Aljazeera, 3 April 2021 “What is going on with Kenya’s COVID-19 vaccine drive?”
[10]オルタ広場第33号(2021年1月20日号)
[11]Daily Nation, 7 May 2021 “WHO warns of new Covid wave in Africa”
[12]The New Humanitarian, 9 April 2021 “Tracking the coronavirus pandemic and vaccine rollouts”
[13]The Bangkok Post, 7 May 2021 “Foreigners to get ‘equal access’ to vaccine”
[14]WHO SAGE values framework for allocation and prioritization of COVID-19 vaccination, 14 September 2020
[15]UNICEF Press Release, 8 April 2021 “COVAX reaches over 100 economies, 42 days after first international delivery”
[16]UN News, 18 January 2021 “WHO chief warns against ‘catastrophic moral failure’ in COVID-19 vaccine access”
[17]The Star, 15 March 2021 “Why India is donating Covid-19 vaccines to Kenya”
[18]朝日文庫『アフリカ33景―歴史はきょうの出来事』
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