【アフリカ大湖地域について考える】

(8)歴史が紡ぐ世界

大賀 敏子

 ◆ 背に腹は代えられない

 東京オリンピックのウガンダ選手団の一人(ジュリアス・セキトレコ選手、20歳)が、宿舎から姿を消して話題になった。ほどなく見つけられ帰国したが、日本に残って働きたいとのことだった。国際的スポーツ競技会で渡航した選手や関係者が、帰国を望まないという事例は、これまでもときどきあった。

 ウガンダでは働き盛りの国外脱出が後を絶たない。サウジアラビア、アラブ首長国連邦などの中東諸国を行先とする人だけを見ても、毎年少なくとも一万人以上(最近10年の平均)になり、そのほとんどは非熟練労働に就いている。それ以外の行先も加えれば、祖国を出て働こうとする人の数はもっと多いことだろう。ウガンダのムセベニ大統領は、国にとどまって国の発展に尽くしてほしいと国民に呼びかけているが、背に腹は代えられない、なにしろ先立つものがなければ。

 ◆ 17世紀の王国

 ウガンダは東アフリカの内陸国で、24.1万平方キロメートルに4,400万人が暮らす。1962年イギリスから独立した。ムセベニ現大統領は、1986年からの長期政権を維持している。コーヒーなどの農産物と金を輸出し、1980年代後半以降は着実な発展をしてきているが、いまのところ世銀の分類では低所得国だ。

画像の説明
  ウガンダ 地図

 ケニア、タンザニアとビクトリア湖をはさむ。エジプト古代文明を支えたナイル川は同湖を起点にする。国土北部には5,110メートルのスタンレー山を擁する。コンゴ民主共和国、ルワンダ、南スーダンとも国境を接し、これらの国などから逃れてきた難民の数は150万人にもなる。この人数は巨大都市の規模だ。国家運営にいかほどの負担をもたらしているか、想像に難くない。

 ビクトリア湖の北岸から西岸にわたる半月型の地域は、潤沢な降雨(年間2,000ミリ近く)と肥沃な地味に恵まれている。早くも17世紀には中央集権的制度を整えた王国(ブガンダ王国)が栄え、18-19世紀にはインド洋沿岸の民族と活発な交易をしていた。象牙などと引き換えに、陶器、綿布、銅などを買いつけた。ヨーロッパの絶対王政、日本の徳川幕府時代とほぼ同じころ、すでに内政が整っていて、かつ海外通商で潤っていたのだから、これを豊かと言わずになんと言おう。もっとも19世紀中盤以降は、ウガンダもヨーロッパ人探検家と宣教師の来訪、植民地化の道筋をたどった。イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、ウガンダの豊かさを指して、「アフリカの真珠」と呼んだと伝えられる。

 なおウガンダは、東アフリカでもっとも伝統ある最高学府を擁することでも知られる。カンパラのマケレレ大学、ソロティのパイロット養成校は、それぞれ国際的な人材を多数輩出してきた。

 ◆ ウガンダ計画

 豊かな場所、いいところは、海外の強者が放ってはおかない。一例が「ウガンダ計画」だ。1903年、ときのイギリス政府は、シオニスト(代表テオドール・ヘルツル)に対し、イギリス保護領東アフリカにユダヤ民族の国家をつくったらどうかと提案した。
 ユダヤ民族は、1900年もの間世界に離散し、民族国家の建設を望んでいた。これに対しなぜイギリスが自分の保護領、つまり領土の一部を提供しようとしたのか。ユダヤ民族を、どこか僻地に押し込めてしまおうというものではけっしてない。

 旧約聖書は、ユダヤ民族は神の祝福を全人類に届けるという、神からの特別の使命を預かっていると示している。このため、誰でもユダヤ民族を助ければ、それはユダヤ民族のためであるばかりでなく、神の意志が実現するのをお手伝いするという意味になる。1948年の中東にいまのイスラエル国が誕生するまで、このウガンダのほか、アルゼンチン案、満州案などもあった。

 ◆ 槍を持った先住民

 このウガンダ計画で候補地とされた15,500平方キロメートルは、いまの地図ではケニア領にあたる。しかし、呼称はケニア計画ではない。インド洋岸のモンバサからナイロビを通って内陸へつながる鉄道は、イギリスが世紀をまたがって建設したものだが、これもウガンダ鉄道と呼ばれケニア鉄道ではない。つまりイギリスがそう呼びたかっただけのことだろう。そもそもケニアとウガンダの国境線は、1926年、イギリスが便宜上引いたものにすぎず、あたりは民族も文化も重なりあい、人々が自由に行き来していた。

 シオニスト会議は現地に調査隊を送り真剣に検討したが、結局、計画は日の目を見なかった。これだけが否決の理由ではないものの、ライオンなど猛獣がいて、槍を持った先住民が非協力的で、ほとんど文明化されていない場所だといった記録もある。提案、命名、見合わせ、いずれの場面でも、アフリカ人側の都合はまったく勘案されなかったようだ。未開の地どころか、実は肥沃な土地と秩序だった人間社会が営まれる楽園だったのだと、世界が知るのはもう少し先に延ばされた。

 ◆ エンテベ空港ハイジャック事件

 イスラエルとの関連で、ウガンダが世界の注目を浴びた別の事例は、1976年のエンテベ空港事件だ。同空港は、ビクトリア湖岸、首都カンパラに直結する、空の玄関口だ。

 1976年6月27日、テルアビブ発パリ行きのエールフランス機が、パレスチナ人ら4人のチームにハイジャックされ、途中リビアで給油してからエンテベ空港に降りた。事件発生から一週間後の7月4日、イスラエル軍が着陸し、30分強の滞在時間で、空港ビルに監禁されていた100人ほどの人質(イスラエル人、ユダヤ人、エアライン・クルー)を救出して、飛び去った。イスラエル軍・人質とウガンダ軍に、それぞれ3人、20人強の犠牲者を出した。

 当時ウガンダは、専制で知られるイディ・アミン治政下にあった。70年代、国際電話も雑音のかなたにかろうじて聞こえる程度のころだが、世界はすでにグローバル化へと進んでいた。事件の結果、イスラエルは自信を強め、その一方、アミン政権の崩壊を早めたが、世界史へのインパクトはそれだけではなかった。

 ◆ とばっちり

 このときケニアは、イスラエル軍がナイロビ国際空港に降りることを認め、給油、けが人手当てなどで協力した。軍事作戦への協力は、おいそれと安易に引き受けられるものではないが、国家元首クラスの政治的決断が即座に下されたのだろう。
 コストは安いものではなかった。ケニアとウガンダの関係が悪化したばかりか、数百人の在ウガンダのケニア人が、報復として殺害された。先述したように、あたりの人々は民族も文化も大差はない。世界には、理屈では説明できないとばっちりがおきることがある。

 ケニアでは、1980年ナイロビのノーフォーク・ホテル爆破、1998年ナイロビのアメリカ大使館爆破、2002年モンバサのパラダイス・ホテル爆破、2013年ナイロビのウエストゲート・ショッピングモール襲撃、2019年ナイロビのデュシット・タニ・ホテル襲撃とテロが発生した。いずれもイスラエルか、あるいは親イスラエル国が関係する施設が標的になったのは、偶然ではないだろう。

 ◆ 国連のすること

 国連安全保障理事会は、1976年7月、エンテベ空港事件の翌週、夏休みもそこそこにして、4日間集中して話し合った。「アミン政権がハイジャック行為を積極的に支援していたという背景があることなどから、安全保障理事会は最終的にこの問題に対するいかなる決議をも下すことを拒絶した」(ウィキペディア)と、一般に理解されている。結果的にはそういうことだろうが、より正確には、次のような感じだったのではないか。

 冷戦中なにごとにつけ西側に批判的立場を示したソ連のほか、アジアとアフリカの途上国が一般にウガンダに同情的だった。ウガンダの国家主権が侵害され、これは国連憲章への重大な挑戦であり、危険な先例となってしまう、と。これに対しアメリカ、イギリスなどは、国家主権侵害に関することより、国際的ハイジャックを非難し、防止しようとすることに議論の焦点を当てようとした。
 こうして、かみ合わない話し合いで時間が費やされた。最後には安保理15ヶ国のうち7ヶ国が欠席し、決議案は過半数を得ることができず、採択には至らなかった。

 ニューヨークのウガンダ国連代表者は、なにしろ大統領からの下命だ、同情的な国々の賛同を取りつけ、団結を死に物狂いになって模索したにちがいない。それでも成功しなかったのは、アミン政権への慇懃なる不承認だけではないだろう。根が深い国際政治の本質的課題を目の前にして、明確な態度を示すより、有力国ににらまれかねないことは、ひとまず避けたいと考えた国もあったのではないだろうか。

 1994年のルワンダのジェノサイドに対して、国連安保理が有効な対策をとらなかったと批判されている(オルタ広場第35号の拙稿を参照されたい)。国連という機関が、ことがらの白黒をはっきりさせるより、政治バランスの所在を示すものであることが、18年も前のこの事例からもよく分かる。

 ◆ 70年代のアフリカ

 70年代のアフリカ大陸では何が起きていたか。大湖地域だけを見ても、1972年ブルンジでフツ人15万人虐殺、1973年ルワンダでクーデター、ハビャリマナ政権成立、1974年エチオピアでクーデター、ハイレ・セラシエ皇帝廃位、1975年モザンビーク、アンゴラ独立、つづいて内戦勃発、1976年、ブルンジでクーデター、バガザ政権成立……。エンテベ空港事件はちょうどこの真ん中に起きた。

 もっとも、ケニアはおなじころ、国連本部(UNEP本部)の誘致が決まり、「アフリカの優等生」とも呼ばれていた。しかしそれも「アフリカなのにもかかわらず立派だ」「アフリカの中では珍しく立派だ」と言われることさえあれ、「立派なのはさすがにアフリカだ」とは言われなかった。

 これを書くいまもアフリカでは紛争と流血事件がたえない。「またアフリカで紛争」「どうせアフリカは貧しくて荒れた場所だから」と、あまり驚きもしない、そんなマインドセットが醸成されたのはこのころ、たかだか50年前のことではないだろうか。
 先述したように、3~400年前さかのぼれば、そこにはすでに繫栄した王国あった。パレスチナ問題は2000年の経緯を今日も引きずっている。

 ◆ 無駄なことは一つもない

 冒頭のウガンダの選手の後日談だが、「ウガンダの恥だ」とか、逆に「若気の至りだ、反省してやり直してもらえばいい」とか、盛んに意見が交わされたが、それも数日のことだった。「ウガンダは貧しいから」と片付けて、ついつい関心から消えてしまう。

 歴史が紡ぐ世界は、いつも一つの系だ。かつてどこかの誰かに起きたことは、何一つ無駄に葬り去られることはない。必ず、後の世界のどこかの誰かに影響を及ぼす。このウガンダの若者はウガンダの歴史を思い起こさせ、そのことを通じて、改めて歴史の真理を指し示しているように思えてならない。

 (ナイロビ在住・元国連職員)

<参考文献>
・CNN “Missing Ugandan Olympic hopeful left note saying he wants to work in Japan”, 18 July 2021
・Daily Monitor “Ugandan weightlifter Julius Ssekitoleko returns from Tokyo”, 23 July 2021
・Daily Monitor “12,000 Ugandans leave for Middle East every year in search of job”, 28 June 2021
・The Observer “Deported Ssekitoleko to be punished for attempting to disappear in Japan”, 23 July 2021
・The New York Times “Ugandan Weight Lifter Missing in Japan Amid Olympic Lockdown”, 16 July 2021
・CIA, The World Factbook: Uganda
・外務省、ウガンダ基礎データ
・吉田昌夫「アフリカ現代史II」山川出版社
・Kabiza.com “Why Is Uganda Called the Pearl of Africa?”
・Journal of Eastern African Studies, Peter Wafula Wekesa “Old issues and new challenges: the Migingo Island controversy and the Kenya-Uganda borderland”
・The Diplomat “Uganda: North Korea’s African Ally: A decades-long relationship continues to flourish, despite increasing pressure from UN sanctions”, 30 October 2019
・International Fellowship of Christians and Jews “The Uganda Scheme”, 12 December 2019
・Haaretz “This Day in Jewish History; 1903: Herzl proposes Kenya (Not Uganda) as a Safe Haven for the Jews”, 26 August 2015
・The New York Times “East African Zionist Project”, 14 February 1904
・The New York Times “Britain’s Offer to the Jews – London Times Doubts the Wisdom of Ugandan Colonization Plan”, 7 September 1903
・BBC “On This Day: 4 July 1976: Israelis rescue Entebbe hostages”
・BBC “Entebbe raid sparked joy and anger”, 3 July 2006
・United Nations Security Council, report on its 1939th-1943rd meetings, held on 9-14 July 1976 on the Complaint by the Prime Minister of Mauritius, Current Chairman of OAU, of the “Act of Aggression” by Israel against the Republic of Uganda
・NSIPS Special Report “The UN Security Council Debate On The Israeli Raid Into Uganda”, July 1976
・The Guardian “Israelis jubilant as Amin laments”, 4 July 1976
・The Palestinow “The Ethnic Cleansing of Palestine”, 26 June 2018
・Maariv “Israel planned the abduction in Entebbe”, 1 June 2007
・The New York Times “Mexican Leader Criticized for Views on Uganda Raid”, 16 July 1976
・Wikipedia “Operation Entebbe”
・ウィキペディア「エンテベ空港奇襲作戦」

(2021.08.20)
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