【アフリカ大湖地域について考える】

(9)アフリカへ亡命

大賀 敏子

 ◆ 泥壁に住むヨーロッパ人グループ

 19世紀末ころから、東アフリカの人々がヨーロッパ人の姿をちらほら見るようになった。風変わりな服装にカエルのような色の肌[注1]をして、しきりに行ったり来たりする旅人たちだった。魔法の杖を持ち、それがときどき火を吹くのが気になったが、これといった危害をもたらすわけではなかった。さすらう気の毒な人たちで、旅の疲れがいやされればやがて立ち去るだろうと、水や食料を分け与えた。まさかずっと居座るつもりで来たとは知らず、頼まれるままに宿営の場所も与えた。これが実は、ヨーロッパ人専用の指定地域(いわゆるホワイト・ハイランド)の始まりだった。この旅人たちは、アフリカ人が「鉄の蛇」と思ったもの(つまり、鉄道)を敷き、本格的な植民地経営を始めた。

 こうしてアフリカ人とヨーロッパ人の間には、ものものしい塀、火を吹く武器、明らかな生活レベルの格差など、いつもはっきりした隔たりがあった。ところが1940年代、風貌はヨーロッパ人であるにもかかわらず、アフリカ人と同じような造りの住居に住み、水汲みと農作業に汗を流す一団が現れた。それがポーランドからの亡命者たちだ(写真)。

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  (Twitterから転写)

[注1]当地で見かけるカエルは一般に茶色か薄茶色である。

 ◆ 第二次世界大戦とアフリカ

 第二次世界大戦でアフリカは大きな役割を果たした。日本が東南アジアへ進攻するのに伴い、モンバサ港は後方海軍基地として重要な位置を占めるようになった。東アフリカの植民者農園が、戦争遂行のための食糧増産の役割を担うとともに、インドに代わって紅茶、コーヒー、マニラ麻(サイザル麻)などの産出地となった。東、西、南部アフリカのイギリス植民地からおよそ100万人が連合軍に駆り出された。ビルマで日本軍に深い傷を与えたイギリス軍の主力は、東アフリカ出身だった。
 18,000人ほどのポーランド人が、当時のイギリス領、いまのタンザニアとウガンダにあたる数ヶ所のキャンプで10年ほど亡命生活を送ったのも、戦時下の史実だ(一部は、南北ローデシア、南アへ渡った)。

 ◆ ポーランド政府の記録

 在タンザニアのポーランド大使館が「第二次世界大戦中のポーランド人亡命者」という記録を公表している。それによると、概ね次のような出来事だった(地図)。

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  (在ダルエスサラーム、ポーランド大使館ホームページから転写)

 1939年9月、ドイツとソ連がそれぞれ侵攻したことに伴い、数十万のポーランド人が国を追われた。彼らはまずソ連のシベリアへ、次いでイランへ逃れた後、ポーランドとイギリス両政府の連携のもとで、アフリカ行きの船に乗った。1942年7月から1944年末の間に13,364人[注2]が到着し、いくつかに分かれたキャンプで生活を始めた。

 キャンプのなかで最大規模だったのは、5,000人ほどが暮らしたタンザニアのテンゲルだ。亡命者たちは組織だって生活を整えた。学校、病院、教会などを建てるとともに、農具を手に取り、ニワトリを飼い、自分たちの口に合う食物をつくった。新聞が発行され、ナイロビに基地を置いたラジオ放送も始められた。キャンプ運営にかかる費用はイギリス政府が持ち、ポーランド政府の負債となった。

 戦争が終わり人々はアフリカを離れた。多くの人がソ連の同盟国となったポーランドより、アメリカ、アルゼンチン、カナダ、フランス、オーストラリアを選んだ。1946年、国連がいったん運営を引き継いだ後、1952年、キャンプは正式に閉鎖された。数百名がアフリカに残った。最も長生きした男性一人が2015年にテンゲルで亡くなった。タンザニアで永眠するのは、あわせて151人である。

[注2]イギリスの資料では、12,500人となっている。

 ◆ 緑したたる楽園

 テンゲルはタンザニア北部、メルー山(4,562メートル)のふもとの村で、一番近い都市であるアリューシャへは13キロほどだ。いまのアリューシャには国際空港があり、アフリカ最高峰キリマンジャロ山(5,895メートル)や、ユネスコ世界遺産に指定されているセレンゲティ国立公園といった、世界有数の観光地への玄関口である。一年を通じて気候が良く、雨がよく降り地味も豊かで、文字どおり滴るほどの深い緑に恵まれている。

 もっとも亡命者たちは、そんな楽園だからと喜んで渡ったわけではない。20世紀初頭、ユダヤ民族国家づくりの候補地として東アフリカ植民地が提示された(「ウガンダ計画」)[注3]が、それが見送られた理由の一つは、獰猛な野獣、未開文明の原住民、マラリアなど恐ろしい病気ばかりの僻地だという情報のためだった。ポーランド人亡命者全員がユダヤ人だったわけではないが、みなこれを知っていただろう。
 イギリス総督があらかじめ用意していた住居は、泥壁に草葺、いわば小屋だった。イギリス側の資料では、暑さのなかで涼しく、寒くなっても保温が効く快適な家屋だと自画自賛しているが、亡命者にとってはカルチャーショックだったのではないか。

 一方、現地のアフリカ人はどうだっただろう。あらかじめ相談を受けたわけでもなく、命じられるままに駆り出されて一定の区画を拓いたら、ある日ヨーロッパ人の集団が現れ、すぐ隣で生活を始めた。火を吹く魔法の杖を振り回す、いつものグループとは異なる、着の身着のままの人たちだ。それも半分近くは子供だ。やはり相当なカルチャーショックだっただろう。
 そんなときもっとも素早い適応能力を示すのは、古今東西いつも子供たちだ。ちょっと距離を置きながらも、お互いに興味津々で、そっと手を振ったり「やぁ」と声をかけあったり。目をくりくりさせた子供たちの様子が目に浮かぶようだ。

[注3]『オルタ広場』第40号の拙稿を参照されたい。(https://www.alter-magazine.jp/index.php?go=3n5LKh)

 ◆ アフガニスタン報道から

 これを書くいま(2021年8月末)、アフガニスタン情勢が連日報道されている。NGOペシャワール会で人道支援に携わり、2019年にアフガニスタンで銃撃されて亡くなった中村哲医師のことを思い出す。同氏は、2008年、別の日本人仲間がやはり現場で命を落としたとき、このような弔辞を述べた。
 「いったい、イスラム教徒であることが罪悪でしょうか。アフガン人が自らの掟に従って生きることが悪いことでしょうか。私はキリスト教徒であります。しかし、だからとて、ただの一度としてアフガン人から偏見を持たれたことはありません。良い事は誰にとっても良いことで、悪い事は誰にとっても悪い事であります。……アフガン人も日本人も、親として、人としての悲しみに、国境はありません。命の尊さに国境はありません」

 2001年、コフィー・アナン氏は国連を代表してノーベル平和賞を受賞した。このときの受賞講演もアフガニスタンへの言及で始まった。
 「今日、アフガニスタンで1人の女の子が⽣まれるでしょう。母親は、世界中のどの母親もそうするように、赤ちゃんを抱き、乳を与え、彼女をあやし、そして世話をします。このような、人間の本質の最も基本的な行為に関しては、人々の間に何の格差もありません。しかし、現代のアフガニスタンに女の子として生まれたことは、人類のごく⼀部だけが達成した繁栄から何世紀も遅れた人生をスタートすることを意味します」

 20世紀のひと時、ポーランド人亡命者とタンザニアの村人が地球上のとある場所で共存した。前者は戦火に追われてきた寄留者、後者はヨーロッパ人進出に翻弄される被支配者だ。敵対関係にあったわけではないし、経済的・社会的交流も全然なかったわけではないが、そもそも仲良く協力しあう目的で同じ場所に置かれたわけでもない。そんな両者が同じ川の水を汲み、同じ雨を待ち、同じ陽を浴びて生活を送った。人間の本質的なところはみなに共通である、良いことは誰にとっても良いこと、悪いことは誰にとっても悪いことだという、まさにこれを具現するようなひとときだったのではないか。

 ◆ 歴史を師として

 人と人、集団と集団のかかわりあいには、その時点の当事者には想像もできない顛末がついてくる。ところが人間には来年、来週どころか、次の瞬間のこともわからない。ならば、過去を師として学ぶしかない。
 筆者はかつてタンザニアで、ロシア語なまりの英語を話す、元亡命ポーランド人夫妻とごくわずかな出会いを持ったことがある。もっと話を聞いておけば良かったのにと思う。

 わざわざアフリカを持ち出すまでもなく、日本人にとって第二次世界大戦は重大事件だ。多くの人が戦争について様々な角度から研究し、議論を交わし、学び続けている。それとまさに同じように、アフリカへ渡ったポーランド人亡命者についても、歴史家たちはいまさかんに証言を集め、記録を整理し、分析を深めつつあるとのことである。
 いまのテンゲルの墓地は、よく手入れされた樹々に囲まれている。ポーランドの若者たちが祖国と祖先のルーツを探りにたまに訪れ、これを専属の現地人ガイドが案内しているという。

 (ナイロビ在住・元国連職員)

[参考文献]
・Jomo Kenyatta “Facing Mount Kenya The Traditional Life of the Gikuyu”, first published in 1938 by Martin Secker & Warburg Ltd, reprinted in 1978 by Heinemann Educational Books
・BBC “Africa’s forgotten soldiers in WWII”, 11 September 2009
・Polish exiles during World War II - Poland in Tanzania - Gov.pl website (www.gov.pl)
・Polish Refugees in East Africa, 1942-1946 (K 5839) (nationalarchives.gov.uk)
・Jamii Forums “Memories of WWII refugees live on in Tanzania”
・The East African “How East Africa became home for Polish exiles”, 14 October 2016
・The East African “How a displaced Polish family found itself as refugees in Tanzania”, 19 June 2015
・The East African “Tengeru: A Long lost Polish history”, 13 December 2013
・吉田昌夫「アフリカ現代史II」山川出版社
・ペシャワール会現地代表中村哲 弔辞、2008年9月9日、ペシャワール会(peshawar-pms.com)
・国際連合広報センター「コフィ―・アナン国連事務総長・ノーベル平和賞受賞講演」

(2021.09.20)
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