■人と思想  
昭和の危機を救った友情

-後藤文夫・田沢義鋪、二・二六事件余話-   富田 昌宏

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                             富田昌宏
 明治神宮外苑に在る地上九階、地下三階の日本青年館。その正面玄関を入った
突き当たりに、二基の胸像が立っている。日本青年館の生みの親であり、わが国
青年団の育ての親でもある後藤文夫と田沢義鋪(敬称略)である。
 ここでは二人の大先輩の事蹟を事々して紹介するのはやめて、二人の友情がい
つ、どこで生まれ、どういうふうに育てられ、そこが二・二六事件などの困難に
際し、どう生かされたかを、事実に即して書いてみたい。
 政・官・財はいうに及ばず、日本全体に拝金主義、せつ那主義が充満し、人び
とが利害得失によって行動しているかに見える昨今、われわれは友情の尊さ、大
切さをこの二人に学んでよいのではないか。いや、学ぶべきだと思う。
 本文を理解いただくために煩わしさを承知で二人の略歴を簡単に紹介しておく。

●後藤文夫(1884~1980)
 日本青年館の四代及び第十三代理事長。昭和5年、貴族院議員に勅選。新官僚
の中心として経済厚生運動をすすめ、斎藤内閣の農林大臣、岡田内閣の内務大臣
として活躍。二・二六事件で首相臨時代理。戦時下、大政翼賛会副総理をつとめ
る。戦後は参議院議員。

●田沢義鋪(1885~1944)
 日本青年館第五代理事長。25歳で静岡県阿部郡長、青年団にかかわる。大正
14年、日本青年館の開館式に「道の国日本の完成」と題する記念講演を行った。
昭和8年貴族院議員に。11年広田内閣に内相として入閣を求められたが辞退し、
12年選挙粛正中央連盟理事長になる。19年、四国の善通寺における講演で日
本の敗戦を予告し、倒れる。その年11月没。

■五高退学事件

 後藤と田沢は明治34年、第五高等学校(熊本)に入学した。当時、五高では
その年の入学生から禁酒の宣誓を行わせた。校長の桜井房記は学生の飲酒にから
まる不祥事件の連発を憂い、校風刷新に乗り出していた。ただ全生徒を対象にす
ると騒ぎが大きくなりかねないと判断し、三年後の浄化を目指して取り締まりを
一年生にしぼった。このため上級生は禁酒の誓いから外され、対象外であり、そ
の結果はむしろ飲酒の自由を奨めているかにみえる皮肉な現象を生んだ。
 田沢は入学してまもなくボート部に入部。中学時代の経験もあって一年生で正
選手に抜擢された。そして猛特訓の末に各部対抗のボートレース競技で、田沢の
属する第一部が優勝、祝賀会となった。上級生の再三のすすめもあって、ついつ
い茶目っ気気分で騒ぎだし、酒を飲んでしまったのである。
 
 このことはたちまち学校当局の知るところとなり、容赦なく退学処分というこ
とになった。当時後藤はクラスを牛耳っていた。そこで先頭に立って学校当局に
処分取り消しを陳情した。が、当局は頑としてこれに応じなかった。田沢はつい
にあきらめて郷土の鹿島(佐賀県)に帰り、やがて福岡の姉のもとに引き取られ
た。この時期は彼の生涯で最も暗い歳月であった。
 後藤らの処分撤回運動はその後もねばり強く続けられ、「新年度から復学を許
す」という通知が出た。田沢はこのことがあって以来、後藤の友情を心に深く刻
み、終生忘れることがなかった。二人のきずなは日本青年館の建設や大日本連合
青年団の結成に大きな力となった。以下に述べる二・二六事件では、二人の協力
が事件拡大を阻止する原動力となったのである。

■二・二六事件をめぐって

 満州事件後、国際情勢が悪化するとともに、国内では五・一五事件、血盟団事
件、相沢事件など、右翼的な思想背景による不祥事がつぎつぎ起こった。後藤や
田沢は大正末期から昭和初頭にかけての過激な左翼運動以上に右翼の行動を憂
うべき事件として捉えていた。『次郎物語』の著者で、田沢を第一級の人物とし
て尊敬していた下村湖人は、田沢の伝記の中で次のように記している。 「左翼
運動はそのすべてが必ずしも危険であるとはいえない。それが純粋な経済生活に
関する運動である限り、そうした運動を危険視することこそ危険なのである。し
かるに、右翼運動の多くは、表面はともあれ、実際は少数者の秘密結社による運
動で、その目的とするところはほとんど例外なく立憲政治の否◎→ 認であり、
暴力革命である。しかも国体擁護を為(←?)として事を起こすのだから、民衆
はだまされやすい。その点で左翼運動よりも危険性が大きいといわなければなら
ない」。
 
 当時の多くの指導者は口を開けば青年の歴史的使命を説き、明治維新や欧州各
国の革命の事例をひいて、国家革新のための決起を促すのを常とした。後藤、田
沢が青年に求めたものは、激情よりも思慮であり、天下国家を論ずるよりも家庭
や郷土をよりよくすることによって福祉国家の基盤を固めようとするものであ
った。田沢が青年たちに繰り返し繰り返し諭したのは「青年の純情は尊いが、無
反省な純情は常に野心家に利用される危険がある」ということだった。 この心
配は的中した。昭和11年2月26日、いわゆる『二・二六事件』が勃発するに
至ったのである。
 
 この日の早朝、第一師団麻生歩兵一連隊と三連隊の青年将校は部下の兵士を引
率して、首相官邸をはじめ、政府の要人の私邸や警視庁、朝日新聞社などを次々
と襲撃し、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監らを暗殺した。動員された
兵士は1400人にのぼったといわれる。
 この日の朝、田沢はいち早く事件のあらましの状況をさぐり、皇居をはじめ警
視庁その他の重要官庁が反乱軍によって固められ、一歩も近づくことができない
状態にあることを知ると、まず第一に後藤文夫と、後藤の秘書の橋本清之助と連
絡をとることに努めた。後藤はこの時、治安の最高責任者である内務大臣の要職
にあった。当然、大臣官邸も襲撃を受けたが後藤は私邸にいて難をのがれ、やが
て人目をさけて日本青年館の一室に入り、田沢、橋本と落ち合った。

■難を逃れて日本青年館へ

 三人にとって最大の関心は、事件が地方に波及しないよう治安工作に全力をあ
げることだった。可能な限り手を打った。各地の警察に指示を与え、また襲われ
る危険性のある要人の身辺警護には所轄の警察に依頼した。午後三時にはおおむ
ね治安工作に自信をもちうるまでに至った。
 治安工作の処置が終わると、三人は直ちに自動車に同乗して皇居に向かった。
田沢が同乗したのは反乱軍の目をくらませ、まさかの場合には後藤の弾除けにな
る腹だった。自動車は無事坂下門を通過、田沢は後藤の参内を見届けるとすぐに
日本青年館に引き返し、理事長室に入り、何事もなかったように執務をはじめた
のであった。
 
 この事件について後藤や田沢の見解は”反乱”の二字に尽きていた。動機が何
であろうと、大命なくして国軍を動かした以上、これはまさしく”反乱”以外の
なにものでもない。
 後藤の参内後、まもなく閣議が開かれた。岡田首相の生存を後藤はすでに確認
していたが、事件の拡大を防ぐため閣僚にもこのことを秘し、首相不在の閣議と
なった。最上級閣僚ということで一番若かった後藤が内閣総理大臣臨時代理に就
いた。石原莞爾をはじめ二、三の陸軍将校が宮中の閣議室に入り込み、直ちに戒
厳令を布くことを要求し、閣僚の大半も同調の動きをみせた。川嶋陸軍大臣、大
角海軍大臣も閣議でこの意見を強く主張した。しかし、後藤は総理大臣臨時代理
の立場からこの要望を拒否したのである。戒厳令を布けば治安の全権が戒厳司令
官の手にわたり、この軍事革命は成功すると考えたからである。もちろんそれは
口に出せないので、「一般国民は何ら動揺していないし、治安も維持されている。

問題は陸軍内部のことであり、陸軍自体が収拾すればよいことだから戒厳令の必
要はない」として承知しなかった。また、大角海相の主張する総辞職、後継内閣
による事件処理も軍部内閣擁立の陰謀として反撃した。かくして軍部政権誕生の
芽はつみとられたが、やがて日本は軍国主義への道を歩みはじめる。軍部の憎し
みをかった後藤はその後長らく政治の表面に顔を出さなかった。

 「二・二六事件」を記録した文献や論文、小説類は多い。それらの資料は、後
藤の参内がおくれたことを批判する意見が大半で、卑怯者扱いをした記述もある。
このことに関し後藤は長い間弁解も説明もしなかった。重い口を開いて真相を語
ったのは、橋本清之助、後藤隆之助、森有義など、苦楽を共にした側近が「後藤
の元気なうちに出来るだけ多くの事を語らせたい」と懇談の場を企画し、数回に
わたって資料の整理や録音の作業を行ったからである。後藤はすでに90歳を越
えていた。こうした記録をもとに、昭和54年に伝記『青年と◎→歩む後藤文夫』
が出版された。執筆は、長年後藤の秘書をつとめ、半価(←?)審議会委員など
もつとめられた森有義。私は後藤の長男、後藤正夫(大分大学学長、参議員議員、
法務大臣など歴任)と森の依頼で、この伝記の中の「青年運動と後藤」の章を執
筆した。この伝記には二・二六事件をはじめ、これまで知られていない昭和史の
かくされた部分が記載されている。

■爆撃下で田沢を埋葬

 二・二六事件以降、日中戦争、太平洋戦争へと戦争の輪が拡大する。緒戦の連
戦連勝もやがてミッドウェイ海戦に惨敗をし、17年8月にはガダルカナルに敵
の上陸をゆるすに至ったが、当時は国民に戦争の真相を秘し、その漏洩を防ぐた
めに無法な圧力が加えられていた。
 この頃、大政翼賛会でも従来の形式的、全体主義的指導のゆきづまりが自覚さ
れ、部落会、町内会への呼びかけなど小地域活動の重要性が言われるようになっ
た。もはや叱た激励以外に何の能力もない指導者ではどうにもならないというこ
とで、田沢も指導委員に委嘱されるようになる。彼は全国各地を回って地方指導
者との話し合いを持つようになった。
 
 田沢は19年の2月から3月にかけて、この任務を帯びて関西各地を回り、そ
の足で四国に渡った。そして、3月6日に名さつ善通寺で開催された「地方指導
者講習協議会」に臨んだ。このときの講演の中で、彼は当時何人も口にし得なか
った日本の敗戦を公言し、敗戦後の日本の再建に触れたが、折りも折り、そこで
声がもつれ、倒れてしまった。脳出血だった。夫人とともにかけつけた二男河野
義克(参議院事務総長、国立国会図書館長、東京都公安委員長など歴任)に示し
た辞世の狂歌は、
 <一生をしゃべり通せしその末路、口より先にあの世へぞ行く>だった。そし
てその年の11月24日、東京の土を踏むことなく旅先で不帰の客となったので
ある。まだ59歳だった。12月3日、青山斎場で告別式が行われた。後藤文夫
が葬儀委員長だった。まれにみる盛儀だったが、軍人の参加者は少なく、さらに
名士の告別式によくみられる花柳界からの参列者は一人もいなかったという。多
摩墓地での埋葬式の最中に、B29の編隊初空襲に遭った。そのすさまじい騒音
の中で後藤委員長はなんと鉄甲を被って親友の墓標に筆をとったのである。
 
 翌20年8月、日本は無条件降伏をして戦争が終結。その年の11月、田沢を
偲んで追悼会が開かれ、『よしはる会』が発足した。この会は、27年に財団法
人の認可をうけ今日に至っている。会の目的は<田沢義鋪ののこした民主的平和
的な社会教育上の精神及び業績の顕揚及び実現につとめ、もって社会文化の向上
並びに道義国家の建設に寄与する>ことである。
 後藤文夫は昭和31年から20余年間、『田沢義鋪記念会』の理事長として、
田沢精神の継承を訴えつづけてきた。高校時代の後藤-田沢の友情はこうして田
沢の死後も続いたのである。
 
 私は、後藤文夫、後藤正夫、河野義克などの指導をうけ、20年間この会の理
事をつとめ、後半10年間は常務理事として働かせてもらった。そこで学んだも
のの一つが、国を愛し、郷土を愛し、人間を愛するもの同士の”友情”のすばら
しさであった。
 以上、後藤-田沢の友情の一端を「二・二六事件余話」の形で書いてみた。そ
こには今の世の中が忘れかけている”なにか”があると思う。
 読者のご批評とご教示を乞いたい。
 (とみたまさひろ、法務省人権擁護委員、俳句結社『渋柿』代表同人) 
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