【随想】
1冊の本(続き) 高沢 英子
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「台湾のいもっ子」を読了後、私は集英社に、著者の蔡徳本氏の住所を教えてほ
しいという旨の手紙を出した。編集者の細川剛氏が早速返事をくれ、蔡氏は今も
故郷の朴子に程近い台南市に住んでいられることが分かった。
私はすぐに蔡氏に手紙を書いた。無精者の私にしては珍しいことで、著者にじ
かに手紙を書くのは始めてだった。どんなことを書いたかは今も覚えている。と
にかく、私は黙っていられなかった。1995年の春のことである。
二週間ほどして蔡さんから思いがけず、分厚い返事が届いた。謙虚で篤実な性
格のにじみ出るような手紙で、私の感想を素直に喜ばれ、是非台湾に来てくださ
い、とあった。すぐにでも台湾へ行きたいと思ったが、事情があってなかなか行
けないまま、5年の歳月が過ぎた。その間私たちは頻繁に文通を続けた。蔡さん
からは、当時の台湾の状況を報道する日本の新聞雑誌の記事なども送られてきた。
日本に住んでいる日本人に対して、これは少し不思議に聞こえるかもしれないが、
当時も今も、日本人の大部分にとって、台湾の問題は関心外の出来事で、ごく一
部の報道機関や特定の思想傾向を持つ雑誌でしか詳細を報じたり、まして論じて
いる記事は皆無に等しかったからである。
私ははそのときまで、台湾の実情について、またその歴史的背景について、ほ
とんど何も知らなかった自分に驚き、内心恥ずかしく思った。以前、日本語学校
で、主にアジアの留学生たちに日本語や日本文学などを教えたことがあったので、
彼らとの交流を通じて、その故国の生活や、最近の国情などを断片的に聞いてい
たに過ぎなかった。
いろいろ調べているうちに、旧日本帝国の植民地政策の実態、特に台湾へのそ
れや、それが両国の民族に齎したさまざまな影響をおぼろげながら認識できるよ
うになった。とはいえ、政治的にはいまだになにもわかっていないに等しく、た
だ、かの地の人々の暮らしや考え方を聞いたときの理解の仕方が多少深くなった
というに過ぎないが、兎に角蔡徳本という友を得たのは、そんな私にとっては非
常に貴重な体験だった。
「台湾のいもっ子」は、国内外で大きな反響を呼び、間もなく中国語に翻訳され
た。当時はまだ蔡さんのように日本語を自由に読み書きできる世代が、台湾社会
の各層で活躍していたし、中国語訳は主としてより若い世代に、この歴史的事件
を知らせることに意義があったと思う。そしてさらに、かの国に今なお残る国民
党と民進党の対立と両者が主として拠っている内省人,外省人の立場を歴史的に
解明し、相互の積年の微妙な感情的ずれを説明する役割を、実に具体的に明証す
ることで、成し遂げたと私は確信している。
「蕃薯仔哀歌」という表題のこの本は台湾国内でも高い評価を受けた。当時の李
登輝大統領は,海外からの訪台者の誰彼を問わず、台湾を知るには是非この本を
読んでくださいと「台湾のいもっ子」を推挙したという。彼自身れっきとしたい
もっ子であった。
テレビ局のインタビューでは、一人の日本人読者として私の手紙が朗読された
りし,番組を見ることができなかった私のところに、蔡さんからビデオが送られ
て来た。私の手紙を朗読したのは、蔡さんの親友で、当時台湾で盛んだった台湾
万葉集グループのメンバーで、すぐれた歌人だった今は亡き蕭翔文さんである。
彼は戦時中、日本帝国の南方進出の野望を見抜けず、祖国愛の熱意に促され、
特別幹部候補生を志願したという経歴を持っていた。
愚かにも大東亜共栄圏の夢信じ祖国救うと「特幹」志願す
胴体に撃墜マークの燦として出撃を待つ「飛燕」の群は
航空兵として日本帝国の戦列に加わった若き日を回想し、その夢と挫折を赤
裸々に歌い上げた和歌を多く残し、この数年後世を去った。
私は出来るだけ知人にこの本を紹介し、機会あるごとに、台湾の実情について
コメントし、所属する同人誌などにもいろいろ書いたが、まったくなんの反応も
得られなかった。つくづく自分の非力を省み、ひたすら悔しいばかりで,蔡さん
やその友人の方たちに何一つ役に立つこと出来ないと思うと残念でただただ恥ず
かしかった。
蔡さんはその後国民文学賞、国家貢献栄誉賞など、数々の賞をを受賞した。英
語の翻訳も出された。翻訳したのはアメリカ在住の蔡さんの姪に当たる方である
が、英訳の表現も原書の持つニュアンスがよく生かされた優れた訳で,蔡さんも
満足されたという。この訳書もアメリカでひろく読まれたという。
私が念願を果たして、蔡さんとその友人のグループに始めて会ったのはその2
年後、日本の浜松においてであった。蔡さんと其の親しい友人家族のグループが
秋のツアーで來日され、ぜひ会いたいという連絡を受けて私は 一行の訪問地浜
松に出向き、秋の一日を共に過ごしたのである。ツアーの目的は柿狩であった。
台湾には柿ノ木がない。浜松市に在住する医師,間宮夫妻を通じて例年のように行
われていた次郎柿採りは、戦前の日本を知る台湾の人たちの大きな楽しみの一つ
であったことを私はそのとき知った。
秋晴れの爽やかな日で、台湾からはるばる訪れた十数組の家族のほとんどはす
でに還暦を過ぎた方たちであった。一行は、晴れ晴れと柿の実採りを楽しんだ。
次郎柿は今は栽培されることが少なくなり、このあたりが中心だと間宮氏は言っ
ておられた。温暖な浜松近郊のなだらかな山一面に植えられた柿の木には、豊か
に実った大きい次郎柿が鈴なりであった。歓声を上げて次々?ぎ取られた艶やか
な次郎柿は、忽ち籠一杯になっていく。そして、それが集められ、やがて箱詰め
されて、台湾の自宅や知人たちに送り出されるべく、山の作業場で、作業が進ん
でゆくさまを私はしみじみ眺めた。そこにあるのは古きよき日本の風景であり、
それを屈託無く楽しむかつての日本人たちであった。一行のなかには、作品に書
かれている悲しい犠牲者の肉親も多くいられた。今は日本で医師夫人として、二
児に恵まれ、充実した幸せの日々を送られる間宮夫人眞子さんもそのひとりであ
る、と聞いた。
その後、2000年2月、私はようやく蔡さんと交わした訪台の約束を果たす
ことが出来た。台湾では大統領選挙運動の真最中であった。そして、初めて民進
党の候補者がそれまで、多年台湾を支配してきた国民党に対抗して戦っていた。
2月17日、日本は冷たい小雨が降っていたが、夜の便で台湾に飛んだ。僅か
6日足らずのこのこの台南旅行で私は多くのことを学んだ。蔡さんが私のために
作ってくれた旅行プランはすばらしく充実したもので、およそ私が知っておくべ
きこと、知りたいことのすべてを網羅しており、かつ痒いところに手の届くよう
な行き届いた配慮に満ち、忘れがたい思い出である。必ず改めてじっくり書いて
おかねばと思っている。
帰国してまもなく、私は民進党の陳水扁氏の勝利を知った。これは長年耐えて
きた内省人にとって、どれほど待望されたことだろう。台湾はついに民主化の一
歩を踏み出したかに見えた。陳水扁氏は実は台北高校時代の蔡さんの教え子であ
った。 (筆者はエッセスト)
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