■海外論潮短評(30) 初岡 昌一郎
-1989年以後の世界 ― ベルリンの壁崩壊から20年-
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1989年11月にベルリンの壁が壊されてから20年。共産主義世界の事実
上の消滅がもたらした革命的な変化の影響は、ソ連・東欧圏に留まらず、全世界
に及んだ。これを境に冷戦が消滅し、グローバリゼーションが全面的に展開した。
ロンドンの『エコノミスト』2009年11月7日号が特集を組んでいるので、
その記事を掻い摘んで紹介する。論文ではないので系統的な掘り下げは不足し
ており、かなりジャーナリスティックな論調に流れているが、興味ある指摘が含
まれている。この特集は、論説と6本の独立した記事から構成されている。署名
入りではないので筆者は特定できないが、それぞれが異なる記者によるものであ
ろう。
■多くを得て、多くを失う(論説)
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は驚くほど偶発的なものであった。
ハンガリーがその国境を開放するという決定を受け、20万人の東ドイツ国民が
西に既に逃げていた。冷戦の原因であったドイツの東西分割と東欧国民の移動制
限がドラマティックに解体したことは、ほとんどの人にとって一生に一度の大事
件であった。
その後の20年間、経済的自由が政治的自由よりも先行した。平和的新世界秩
序が期待された、20年前のこうした議論は姿を消した。ナショナリズム、宗教
、"隣人恐怖"から新しい対立が生まれた。民主主義を発展させ、不動のものとす
るよりも、旧ワルシャワ条約諸国の大半、ほとんどのアラブ諸国および中国を含
む、多くの国が抑圧的な恥ずべき専制的政権を継続している。
対照的に、モノ、カネ、ヒト、思想の自由な移動を意味する、グローバリゼー
ションという奇妙な言葉が、通商においては支配的な原則になっている。それさ
えも普遍的に受け入れられているのではないことは、ドーハ包括貿易交渉の行き
詰まりが物語っている。
政治的自由が足踏みしたまま、経済的自由だけがかけ離れて先行することはあ
りえまい。そのギャップは、政治が経済の自由を拘束することによって解消され
る可能性も否定できない。また、腐った共産主義に対する西側資本主義の勝利は
有権者を長期にひきつける担保とはならなかった。
19世紀にグローバリゼーションが大きく進展した時期、比較優位のマジック
は損なわれやすく、残酷なものだとカール・マルクスが指摘した。敗者は集団的
に取り残されるが、勝者はばらばらとなる。そして、豊かなものはより豊かにな
る。グローバル化した市場でのジャックポット(大当たり)は、国内市場におけ
るよりもはるかにに大きい。
政治は経済の統合にマッチせず、あらゆる政治は徹底的に国内中心だ。現在の
システムのグローバルな保証人はアメリカであるが、その相対的なパワーは継続
的に失われている。
人間の判断において、傷ついたプライドと排外主義が経済的理性を凌ぐことが
よくある。なぜロシアがそのガスの顧客を脅迫するのか、なぜイギリス人はEU
を悪魔視するのか。理性的に見れば、中国は反日感情を煽らないし、サウジアラ
ビアは海外のイスラム過激派を支援しないだろう。
グローバリゼーションの政治的欠陥を認識して、是正する方策を講じなければ
ならない。そのためには、何事をも当たり前として受容しないことだ。
■心の中の壁 ― 過去と未来の葛藤(特集記事)
1989年以後、ほとんどの中欧旧共産主義国は比較的上手くやってきたが、
貧しく、問題を起こす国というイメージをまだ拭いきっていない。西欧はその革
命を歓迎したが、東からの無知な大衆が押し寄せるのを恐れている。国外の中東
欧人は屈辱的な処遇を味わっている。彼らの貯蓄は水泡に帰した。西欧人はコー
ヒー代を料金も見ずに払うが、東欧人は倹約のためサンドウィッチを作って出か
ける。
過去の幽霊はいたるところに見られる。なかには歓迎すべきものもある。長ら
く禁止されていた古い歌がまた放送されているし、公式プロパガンダで悪者扱い
されていた英雄が祝福されている。
だが、他のゴーストはもっと邪悪なものだ。共産主義以前の中東欧はパラダイ
スではなかった。過去が解凍されると何がこの地域からでてくるだろうか。ハン
ガリーは現在の国境で満足するだろうか。戦後シュレジアとズーデテンから強制
送還されたドイツ人が復権を要求したらどうなるか。この地域はユダヤ人にとっ
て安全となるか、あるいはより危険なところとなるだろうか。
1989年の窓から中東欧を覗いてみれば、現在は輝く夢物語のようだろう。
自由で法による支配に基づく社会で新しい世代が育っている。経済的破滅と政治
的混乱という心配は根拠がなかった。10ヶ国が険しい断崖をよじ登り、EUに
加盟した。そのほかに、クロアチアとアルバニアがNATOに入った。
大きな例外がユーゴスラビアである。1989年には、多人種主義と多元性の
一模範と見られており、中央主権的計画化社会主義と厳しい競争の資本主義世界
の中間に位置していた。この10年間、人種主義的民族主義的な武装民兵が古い
恨みを血の報復に転化させ、悪逆非道の限りを尽くしたのを外部世界は阻止でき
なかった。専制的な政治家たちが邪魔とみなした者たちを非人間的に粛清し、ボ
スニア、クロアチアおよびコソボで14万人が死んだ。ナチ時代の悪夢はそれを
上回っていたが、戦前の中東欧で見られたいかなる紛争よりもはるかに酷いもの
であった。
経済的成果は驚嘆すべきものである。1989年末、この地域が向こう数十年
は貧困に沈んだままだと予測するのは容易であった。市場経済を知っていたのは
60歳以上の人だけであった。何十年にもわたる公式プロパガンダは資本主義を
人間共食いのようなものと攻撃してきた。産業は国営で、党の配置した人によっ
て握られていた。経営とはコストや顧客、競争を無視して、資源を漁り、それを
隠匿することであった。ポーランドの自由選挙で選ばれた初代大統領、レフ・ワ
レサが述べたように、水槽の魚でスープを作るのは容易だが、その逆はうまく行
かないと見られた。
自由な価格、自由な交換レート、自由な貿易、自由な労働市場、民営化が大成
功を収めた。貧弱な電話網、ガタガタな道路、気難しい役人に当初は妨げられて
いた外国投資家が次第に拍車をかけて、経営上技術上の移転を大掛かりに行なっ
た。EU加盟が改革を条件としたので、改革と近代化のために巨額なユーロが注
ぎ込まれた。かつては地雷によって封鎖されていた国境は地図の上の線に過ぎな
くなり、いまはバルト海から地中海までパスポートを見せることなく自動車を運
転できる。1989年よりも水と空気はきれいになり、運輸交通は迅速かつ安全
になった。
最大の失望は、旧体制エリートが権力と富を引き続き握っていることだ。自分
が説いてきた社会主義よりも、嘲ってきた資本主義をより上手く運営する能力を
彼らは立証した。党幹部と秘密警察の取り巻きはドサクサに紛れて簒奪した資金
を海外に持ち出すのに成功し、1990年代の混乱期に資産を安価に購入するの
に利用した。
■ゴルバチョフと壁の崩壊 ― 自分の目を信じた男
ベルリンの壁撤去はロシアでは大ニュースでも、サプライズでもなかった。ミ
ハイル・ゴルバチョフが1985年に権力を掌握した時に始まったプロセスの論
理的帰結であった。1989年には、ペレストロイカが絶頂期にあった。禁止さ
れていた映画や書物が知的空間に溢れ、物理的空間も開放されて、ロシア人が西
欧に旅行し始めた。
東欧のビロード革命を阻止するために戦車を派遣することは想定外であった。
1985年に早くもゴルバチョフは、内政に干渉しないと東欧の指導者に告げて
いた。ソ連の兵隊と援助がなくなると彼らの運命も尽きることを知っていたので、
東欧の幹部たちはこれを国民には知らせなかった。
南部ロシアの農村におけるゴルバチョフの戦前の子ども時代が彼の感受性を培
った。彼の祖父は二人ともスターリンの粛清の犠牲者であった。一人は集団化を
拒否して、1934年にシベリアに送られた。もう一人は新農業政策を受け入れ
たが、1937年に"人民の敵"として逮捕された。彼は釈放されたが、拷問の記
憶とロシアの最も肥沃な地帯で集団化によって惹起された飢饉についての家族の
物語は、ゴルバチョフの一生を左右した。
彼の祖父の家では、スターリン・レーニンの著作や肖像とロシア正教のイコン
が平和的に共存していた。独裁者が死ぬまで、彼はスターリンの役割に疑問を抱
かなかった。ゴルバチョフの政治的キャリアは、1956年のニキータ・フルシ
チョフによるスターリン個人崇拝批判と非スターリン化と共に始まった。
多くの面で彼のペレストロイカは、1968年の未完に終わった"プラハの春"
の遅まきの達成であった。彼の功績は偉大な知的貢献というよりも、モスクワの
庶民の台所で語られてきたことを公然と発声したことである。つまり、西側の人
たちはソ連よりもよい生活をしていること、ソ連の経済は行き詰まり、このまま
では持たないことを認めた。これは常識であったが、公然と述べることは現状打
破に他ならなかった。
ゴルバチョフは異端分子でも、革命家でもなかった。ソ連の解体は彼の意図し
たところではなかった。彼は民主主義と社会主義は相互補完的だと考えており、
その改革は革新による体制擁護を図ろうとするものであった。東欧を解放したの
は、彼の社会主義、人間的の本性および体制の正当性についての信念であった。
このことは彼にとって価値観の問題であり、今日のロシアの指導者が考ええて
いるような地政学的政治からくる判断ではなかった。彼は国外からの脅威という
脅迫観念に取り付かれておらず、ベルリンの壁の背後に隠れる必要がなかった。
しかし、現在ロシアの学校で教えられているのは今日の指導者の見方で、ゴルバ
チョフはなんらの見かえりなしにロシアの「安全保障地帯」を放棄した。彼らは
"同じ誤り"を繰り返さない決意だ。
■ソ連崩壊後 ― 塗り替えられた世界秩序
プーチン首相(過去の、そしておそらく将来の大統領)にとって、ベルリン
の壁崩壊2年後にくるソ連の解体は、20世紀"最大の地政学的破滅"であっ
た。ポストソ連初期の壊滅的インフレと通貨変動によってロシア人は酷い犠牲
を払った。しかし、ロシア国外では20世紀最後の帝国消滅を嘆いたものはほ
とんどいなかった。
ロシア人はそれよりも過酷な時代を生きてきた。第一次世界大戦がボルシェビ
キに権力を獲得させたが、その後のスターリン時代には何百万人もが餓死した。
それに比較すると、冷戦の終結はそれほど破滅的なものではなかった。
1945年以降のソ連と西側の核の手詰まりは危険な安定をもたらしたが、朝
鮮とベトナムからアンゴラ、中米、アフガニスタンにいたる代理戦争を生み出し
た。体制に依存していたものを除き、ソ連崩壊を悼む声はほとんどなかった。そ
れにしても、なぜあのように崩壊が急激に進行したのだろうか。
その功績をレーガンの"スター・ウオー"という夢の計画に求め、ソ連が経済的
に疲弊して軍拡競争に敗れたからとみるものもいる。だが、ソ連はロケットを増
産するだけでそれに対抗できたし、何よりもそのような防衛システムは建設され
なかった。多くの面からみて、アメリカが冷戦に勝ったというよりも、ソ連が自
分で躓き負けたのだ。
軍事力をさておくと、他のあらゆる面でソ連の力量は空洞化していた。中央集
権的計画化は、鉄鋼やセメント、あるいはタンクやロケットの生産量で測る限り
うまくいっていた。しかし、インセンティブが作用しないので、誰もがほしいと
思わない商品を消費者向けに製造していた。無駄な製品に資源を浪費することを
永続できなかった。他方で,品不足が犯罪的な闇市場を繁栄させ、それは実態経
済の30%以上にも上ると推定されていた。
冷戦後、唯一の超大国として残ったアメリカは、単独の覇権国として生き残っ
たのだろうか。1990年代以後の歴代米政権による、ソマリア、ルワンダ、北
朝鮮、イラク、アルカイダなどにたいする政策の右往左往振りを見ると、新世界
秩序ではなく、混乱と無秩序が目立つ。後知恵だが、混乱の多極化は当時から既
に始まっていたのだ。
■共産主義崩壊にたいする中国の対応
― 鄧小平はいかに最悪の事態を乗り切ったか
1989年10月当時、人民日報は「東ドイツ人民は党の指導下に今や団結を
固めている」と伝えていた。その後一ヶ月足らずでベルリンの壁が崩れた。その
年の6月に、中国は天安門広場で青年学生の民主化要求を武力で封じたばかりだ
った。その後のソ連圏崩壊にはほとんど積極的に発言せず、中国の公式メディア
はこのテーマをほとんど取り上げなかった。
しかし、中国共産党は東欧とソ連における共産主義崩壊の原因を究明するのに
精力を注いだ。当初のショックが過ぎると、党は東欧の新生民主主義諸国と迅速
に絆を回復しただけでなく、前者の轍を踏まない戦略を追及した。中国の指導者
達に嵐を乗り切る舵をとらせたのは、冷静な判断を訴えた85歳の鄧小平であっ
た。1989年9月、彼は「冷静に、冷静に、また冷静に」と述べ、経済改革に
専念することを命じた。中国がイデオロギー論争に巻き込まれず、経済建設に邁
進したことが党を救った。
共産主義崩壊の原因として、教条的なドグマを持ち化石化した政党国家、随所
に根を張ったエリートの権益、眠り込んだ党組織、停滞した経済が崩壊のシナリ
オを用意した、と中国は総括したようだ。
今日の中国では、万里の長城に代わる"ファイア・ウオール"によって情報がブ
ロックされているといわれる。しかし、中国のメディア統制はベルリンの壁時代
のように厳しいものではない。今年10月30日付け『南方週末』は、ベルリン
の壁を記念する19ページの特集を組み、「自由を愛するものは、相互交流を妨
げ、制限する壁を壊さずにはいられない」と書いている。他の論文では、ドイツ
が今日直面している困難が如何に大きくとも「ベルリンの壁崩壊以前の時代に帰
ることを希望するものはほとんどいない」とのべている。
■コメント
回想すると、20年前の1989年は、事件に満ち満ちた年であった。日本で
は年明けに昭和天皇がなくなり、平成に年号が変わった。
評者はその年の4月から大学で授業を始めたのだが、その前からのILOにお
ける仕事をまだ続けており、6月にはILO総会に出ていた。その月初めには天
安門事件が起き、ジュネーブでの総会に出席中の中国代表団に動揺が走り、欧米
の代表団が激しく反応する渦中にいた。旬日を置かずして、ポーランドでは連帯
が総選挙で勝利し、政権に就くことが確実になった。ILO総会に出席していた
各国代表団、特に労働グループの興奮は記憶にはっきりと残っている。
長年、ILOで激しい論争の的となっていたソ連東欧圏における結社の自由問
題が事実上の決着を見た年であった。いつもは、結社の自由をブルジョア的な価
値として批判し、労働者の団結を壊すために西側がおしつけようとする道具であ
ると攻撃してきたソ連政府代表が、「国際法を国内法の上に置く」と国際批判を
間接的に受容した発言をしたことが記憶に鮮明に残っている。
国際労動運動の面から見ると、それ以前に既に共産系の世界労連から中国は除
籍されていたし、イタリア労働総同盟は自ら脱退していた。イタリアの先鞭に続
き、西欧の共産系労働組合は続々と欧州労連に入り、国際的には過去において敵
対していた国際自由労連に接近した。世界労連が20世紀末までには事実上消滅
していたので、国際労動組合の大同団結によって国際労連(IFTU)が3年前
に結成された。ロシア革命以後組織的に分裂してきた国際労動運動が、ソ連の消
滅によってイデオロギー的な対立を解消し、統一の道が開けた。新国際労動組合
組織には、ヨーロッパの組合はもとより、アメリカAFL・CIOや連合も入っ
ているが、ずば抜けて最大の加盟組合がロシア労組評議会であるのを見ると隔世
の感を抱かざるを得ない。この枠組みの外にある唯一の大組織は、中華全国総工
会である。
国際労働運動の形式的組織的統一にもかかわらず、あらゆる国の政府と同じよ
うに、労働組合がいまだに国内中心の組織であることに基本的な変化は無い。未
来の姿が、未来を先導する組織(企業を含め)のなかに現れるとすれば、それを
よりよく体現するのは、政労使のいずれか、あるいは市民社会なのであろうか。
グローバルなガバナンスの無いグローバリゼーションがまだまだ続く世界の展望
に慄然とせざるを得ない。
最後に付け加えておくと、12月10日の朝日新聞と日経新聞朝刊の報道によ
れば、批判的論調で知られる『南方週末』紙編集長が11月19日付けで解任さ
れていた。香港の『朗報』は、オバマ大統領との単独インタビューをその解任理
由として推測しているが、むしろここに紹介された記事が同紙に載った直後なの
で、べルリンの壁特集号の所為かも知れず、複合的な理由によるものかもしれな
い。中国で新聞雑誌の編集者が、このように解任されるのは稀なことではない。
しかし、それが逮捕や拘留にまで至ることは昨今稀で、彼らが他の言論報道機関
によって活動を再開することがしばしばあり、モグラたたき的な様相を呈してい
る。
(筆者はソシアルアジア研究会代表)
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