【コラム】技術者の視点(14)

AIは人間を超えるか?

荒川 文生


◆ 1.囲碁や将棋の世界

 コンピューターを日本語では「電子計算機」と翻訳しましたが、中国語では「電脳」と言います。どちらが事の本質を捉えているか、今や、歴然としています。囲碁や将棋の世界では、棋士たちが勝負の在り方を考え直さなくては為らなくなりました。国際的には、チェスの世界も同様です。ここで問題が二つあります。ひとつは、勝負は勝てばよいのかと言う事です。ふたつには、コンピューターが勝つ為のソフトは、SEと言う人間が造っていると言う事です。

 宮本武蔵を持ち出すまでも無く、人間の勝負には「武士道」という美学が有りますが、コンピューターに美学は在るのでしょうか? つまり、SEが造るソフトに美しさが在るのでしょうか? 数学の方程式に美しさを観る数学者がいると言う事と考え合わせると、この質問には興味深いものが在ります。
 人間の脳が造っている社会に「電脳」が参画して来たとき、両者はどの様に折り合いを付けるのでしょうか?

◆ 2.インターネットの社会

 「電脳」が造り上げる組織としてインターネットの社会があります。これが既存の人間社会に深刻な影響を及ぼしています。具体的には、情報検索における図書館の機能が Wikipedia に置き換えられつつあります。また、ジャーナリズムの機能も変質を迫られています。

 ウィキペディアは、ウィキメディア財団が運営しているインターネット百科事典で、コピーレフトなライセンスのもと、サイトにアクセス可能な誰もが無料で自由に編集に参加できるように為っています。これまで図書館で調べ物をしていた人たちは、その情報の根拠を明確に認識できました。これに比べウィキペディアは、極めて手早く情報を検索できますが、その根拠は必ずしも明確では無く、サイトにアクセス可能な誰かが提供した情報であって、「自由な編集」によって修正が為されることが期待されています。前者が伝統的な権威ある賢者による謂わば演繹的な情報であるのに対し、後者は大衆的な一般が納得する謂わば帰納的な情報とも言えましょう。また、前者は理論的合理性を持ち、後者は実践的合理性を持っているとも言えます。

 こうして伝統的な権威の地位が低下する一方で、大衆的な一般が納得するかどうかによって情報の「価値」が評価される様になると、既存のジャーナリズムもその機能が変質せざるを得なくなります。具体的には、一般大衆がその情報に対価を払うかどうか、つまり「売れるか」如何かでジャーナリズムの存在価値が問われかねないのです。この間の状況は、欧米と日本とで対比的に異なります。ジャーナリズムの主要な機能として、権力の過ちを正すことが伝統的権威として確立している欧米では、その機能を担う媒体としてのマスメディアが金融資本の支配下にあります。日本ではその伝統的権威が未熟であるいっぽう、新聞社とその中の一組織と為っているテレビ会社は、不動産や興行による収入が組織を支えている面が少なくありません。しかし、何れにしてもジャーナリズムとメディアとは、インターネットの齎す影響を強く受けています。特に現在、時の権力がインターネットの機能と資本によるメディアへの影響力を用いて、一般大衆を扇動し支配しようとする危険性が増しています。ジャーナリズムとメディアとは、これにどの様に対抗できるでしょうか?

◆ 3.近代科学との相剋

 科学技術の所産であるコンピューターが現代社会に齎した文化的あるいは科学的影響は、近代科学との相剋と捉える事が出来ます。

 近代科学は、人間の歴史や自然の法則が示す事実に基づき、それらの因果関係を合理的に判断した結果を提示して、演繹的な本質として真理を追及するものです。それに対し、コンピューターが提示する結果は、例えば、蒐集した膨大な情報(ビッグデータ)の相関関係を人工知能(AI)を用いて比較衡量した、帰納的な実態と言えます。ここには、Computer Science が近代科学を批判ないしは駆逐しかねない Computer Science と近代科学との相剋が見られます。インターネットの社会では、伝統的な権威ある賢者による演繹的な情報に対し、大衆的な一般が納得する帰納的な情報が、より大きな説得力を持ち始めたかの様に見えます。果たして真理は何れに在るのでしょうか?

 これまでの伝統的社会においては、権威ある賢者の言説を背景として、或いは自らを権威ある賢者であるかのごとく振る舞って、権力者が大衆を支配しようとしてきました。しかし、インターネット社会では、これまで「衆愚」と見做されてきた一般大衆の知恵が「衆知」として、より大きな説得力を持ち、ポピュリズムと嘲られていたものこそが民主主義の基本を為すものではないかとの見方が、例えば、世界各国の首長選挙の結果に対する批判として、善くも悪しくも語られるようになったことの意味が検討されるべきかも知れません。つまり、精神に異常を来した独裁者を戴くよりは、多少の過ちを含みながらも「衆知」に依存する方がましだという訳です。チャーチルが、「民主主義は最悪の政治体制である。過去に試みられたそれ以外の政治体系を除けばの事だが」と言ったそうですが、「民主主義とは、社会をより悪くしないための制度」なのかも知れません。

◆ 4.神様の微笑

 Computer Science と近代科学との相剋は、社会システムに於けるもののみならず、技術と社会とを媒介するイノヴェーションという問題にも観られます。イノヴェーションを齎すものとして、科学者や技術者の脳裏に閃くもの(セレンディピティ)が有り、これは「神様の微笑」として大切にされてきました。果たして、神様はコンピューターにも微笑まれるのでしょうか? 独断と偏見ですが、この答えは先に述べたようにコンピューターを動かすソフトを生み出すSEの脳裏に閃くものなのでしょう。

 ただ、シュムペーターの議論をよく読むと、イノヴェーションを齎すものと「神様の微笑」との間には距離が有ります。イノヴェーションは、決して科学的発明や発見を意味するのではなく、それらを契機として齎される社会的あるいは経済的な変革を意味するものだからです。ここにコンピューターが果たす重要かつ効果的な機能があります。インターネットの社会を人類の発展と幸福のために機能するものとする事です。伝統的な権威ある賢者による演繹的な情報と大衆的な一般が納得する帰納的な情報とが、コンピューターのなかに程よい折り合いで組み込まれ、正しく清く美しい社会が実現されるのでなければ、神様が微笑まれるどころか、私どもは嘲り笑われることに為るでしょう。

  入道雲衆愚も賢者も嘲笑い  (青史)

 (地球技術研究所 代表)

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