1.海外論調短評(61)                  初岡 昌一郎

アジアの福祉国家 ― 民主主義による次なる革命

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 イギリスの代表的週刊誌『エコノミスト』9月8日号が、目覚ましい経済発展
を遂げたアジア諸国において、次の課題となりつつあるのが福祉国家の実現だと
論じている。同誌はまず社説でこの問題を概括し、次いで記事冒頭の「ブリーフ
ィング」欄でより詳細に解説している。ブリーフィングは無署名であるが、デリ
ー、香港、ジャカルタ発の報告をもとに書かれている。これらを要約して紹介す
る。
 
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■貧困から抜け出し、揺りかごから墓場までの福祉を
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 アジア諸国は、そのダイナミズムによって世界をうならせてきた。目覚ましい
成長のお蔭で、現代アジアは歴史上前代未聞の速度で貧困状態から脱け出した。
しかし、裕福になるにつれ、この地域の市民は政府により多くのことを要求し始
めた。

 韓国や台湾のような富める国はさらに進んでいる。韓国は国民基礎年金及び保
健制度を導入し、高齢者に長期的なケアを提供している。12月の大統領選挙は
福祉実現の公約競争と化している。これまで「松葉杖で支えられた経済」に反対
してきたシンガポールでさえも、低所得層に対する税金還付と住宅費補助を始め
た。

 この大陸全体を通じ、公的年金、国民健康保険、失業給付などを求める声が高
まっている。その結果、世界で最も活気のある諸国の経済は、単なる富の蓄積か
ら福祉国家を目指す方向にギアを切り替えつつある。

 昨年10月、インドネシア政府は、2014年までに国民皆保険を実現すると
公約した。それは世界最大の単一国民健康保険制度を政府の一部門として創設し、
保険料と給付を一元化しようとするものである。中国は、2億4000万人の農
村人口に年金制度を拡張した。2、3年前までは80%の農村住民が健康保険の
対象となっていなかったが、今はほとんどの人がカバーされている。インドでは、
4000万世帯が最低賃金で年間100日の仕事を提供する公的制度の恩恵を受
けている。また、各州が約1億1000万人に健康保険を拡大適用している。
 
 1880年代のドイツによる年金の導入を社会保障制度の出発とし、イギリス
による1948年の国民健康保険制度の開始を頂点と考えれば、ヨーロッパにお
ける福祉国家の建設は半世紀以上の年月を要している。いくつかのアジア国家は、
それを一世代で成し遂げようとしている。

 もしこれらの国が持続不可能な公約によって誤った方向に進むならば、世界で
最もダイナミックな経済を破壊する危険がある。しかし、持続可能なセーフティ
ネットの創出を図るならば、国民生活の改善に資するだけではなく、世界におけ
る新たな役割モデルを提供すことになるだろう。人口老齢化と財政赤字削減に対
処するように、国家の再設計を富める西欧諸国が怠っている現在、福祉国家はア
ジアが追い付き、追い越すもう一つの分野となるかもしれない。

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■ビスマルクとベバレッジを超えて
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 アジアが回避すべき教訓を歴史は多く与えている。
 ヨーロッパの福祉国家は、基礎的なセーフティネットとして始まった。ところ
が年月がたつにつれて、それがクッションとなっている。戦争と恐慌を主な理由
の一つとして、ヨーロッパの社会は配分優先となった。また、社会保障給付受給
者が強力な利益集団となっている。そして、政府は支出に見合う税収を十分徴収
できなくなっている。

 アメリカは社会保障費を出し惜しみ、そのうえ普遍性のない、資格と権利に基
づく制度を作る過ちを犯している。その維持困難な年金と保健制度は雇用に基礎
をおいている。

 新興世界、特にラテンアメリカにおける実績はさらに芳しくない。政府は税収
不足に悩み、社会的保護は不正を助長していることがよくある。年金や保健制度
は都市の恵まれた労働者のもので、貧窮者を対象としていない。ブラジルはこの
ところ信頼に足る政府に恵まれているが、パブリック・サービスの水準は第3世
界並みにすぎない。

 アジア諸国は経済開発を重視して、これまで生産第一主義をとってきた。社会
保障が完全に無視されてきたわけではないが、福祉給付制度は社会的必要性に基
づくものではなく、もっとも生産的な産業の労働者のためのものであった。これ
らの相対的に恵まれた労働者にとっても福祉は権利ではなく、人的資源に対する
投資であった。

 福祉の貧困が出生率の急落を生んだ。韓国女性の平均出生率は1.39、シン
ガポールでは1.37、香港ではわずか1.14にすぎない。かつて、福祉は政府
が負担するものではなく、絆の強い家族が引き受けていた。しかし、今日では都
市化と大家族制の崩壊によって、福祉を公的に提供するニーズとその要求が高ま
っている。奇跡的な成長が中断し、抑圧的な統治が緩んでくると、ますますその
傾向が強まるだろう。

 経済の発展によって公的福祉を負担する能力が増しているものの、アジア諸国
には落とし穴もある。一つは人口増の鈍化と高齢化である。インドなど少数の国
では依然として人口構成がまだ若いが、かなりの国で世界的に見ても急速な高齢
化が進行している。今日の中国では若者5人に対して高齢者は1人であるが、2
035年には2人に増える。

 もう一つは規模の大きさで、これが普遍的な社会保障制度創設を困難にしてい
る。中国、インド、インドネシアという巨大国は、それぞれの地域によって大き
な格差と相違を抱えている。それらの国において福祉国家を建設することは、E
Uにおける単一制度の創設にも匹敵する。これに対するシンプルかつ画一的な処
方箋はない。

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■「アジア的価値」と福祉
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 福祉の公約は与野党いずれにとっても選挙の票になる。全国的な得票の必要が
ない中国においてさえも、指導者は経済成長だけではなく「調和社会」を約束し
ている。福祉国家を建設できる財力を持つすべての国は、その実現のためにます
ます国民から圧力を受けるようになっている。

 アメリカが画期的な社会保障法を制定したのは1935年のことであるが、今
日のインドネシアはほぼそのレベルの発展に到達している。現代中国は、194
8年にイギリスが国民健康保健制度を発足させた時よりも豊かになっている。

 西欧の水準からみれば、アジアの福祉はいまだに低い。OECD諸国の平均公
的医療支出がGDPの7%であるのに比較して、アジア諸国はわずか2.5%に
すぎない。アジア諸国が成熟するにつれて変化するだろうが、負担比率の高さ
(韓国)、低額な病院医療費(タイ)、医療施設の不足(インドネシアその他全
般)が、コストを今のところ抑制している。

 域内諸国の福祉国家度をアジア開銀の社会保護指標が簡潔に要約している。
 各国の社会的支出を受益対象者数で割り、その結果を1人当たりGDPの割合
で表している。日本の受益者が比率で一番高く、1人当たりGDPの13%を受
け取っている。第2位の韓国は、20年間の民主主義の後でさえ7.1%にすぎ
ない。フィリピン、インドネシア、パキスタンは2%以下である。

 アジア諸国は、福祉を薄く広げる傾向にある。韓国の年金は高齢者の70%を
カバーしているが、平均賃金の5%程度の給付にすぎない。インドネシアの医療
補助制度は所得最下位層30%の全員を対象にすることを想定しているが、この
カード保有資格者の80%がその給付内容を承知していない。

 アジアで福祉給付対象者が少ないことには、いくつかの明白な理由がある。比
較的に富裕な国においても、西欧先進国の水準に比較して、非正規労働者が大き
な割合を占めていることである。先進国では彼らも同じように福祉給付の対象と
なっているが、アジアにおいては除外されている。タイで大企業従業員以外のも
のを任意的な保険制度に加入させようとした時、病人は加入したもの、健常者は
ほとんど加入しようとしなかったので、国民の大半は未加入にとどまった。

 パブリック・サービスが未発達の国では、納付金の徴収が困難であるし、受給
資格者の認定も危うい。多くのアジア諸国は受給対象者を貧困者に限定しようと
しているが、それを判定することは容易ではない。

 インドネシアの健康保健補助カードは所得下位30%の貧困層を対象とするも
のであるが、実際にカードを保有しているのは対象外の所得の高い人々だといわ
れている。インドネシアは貧困対策としてガソリン価格を補助しているが、貧困
者は車を持っていない。昨年のガソリン代補助金は、保健補助支出の9倍に上っ
ている。

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■後発のメリット ― キャッチアップだけでなく
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 アジア諸国は新しい挑戦に直面している。シンガポール、韓国、香港は世界の
他のいかなる国よりも急速に高齢化している。2040年までに、就働可能年齢
層にある2人が65歳以上の高齢者1人を養うことになる。この負担を軽減し、
高齢者をアクティブに維持する方法を考案しなければならない。西欧では福祉国
家が高齢者を困窮から救済した。アジアでは高齢者を無為から救済しなければな
らない。
 
 韓国はすでに高齢者雇用に補助金を出している。そして、高齢者ケアの負担を
社会化し始めている。2008年に包括的な長期ケアのための保険を発足させた。
 シンガポールは高齢者にこれまでの住居を売却させ、政府が用意する小規模ア
パートに移住させるために、奨励金を出している。
 
 2030年には、アジアは世界の高齢者の半数以上を抱えることになり、ガン
や糖尿病など非伝染性疾病の負担の半分を背負うことになる。アジアの福祉給付
が拡大、深化を続けるならば、世界の年金生活者と病人の過半数を抱えることに
なる。アジアはもはや独特の福祉モデルを自慢することができなくなり、世界の
福祉はますますアジア型になるだろう。
 
 だが、そうなる前にアジア諸国政府は3つの広義の原則に留意しておかなけれ
ばならない。第1は、福祉公約の長期的な財政的持続可能性に注意を払うことで
ある。アジアの年金額は小さいが、受給資格が早めに設定されている。例えば、
中国では女性の退職年令は55歳、タイでは定年は60歳だが、55歳から年金
受給資格が生まれる。アジア全体で、寿命に応じて年金受給資格を引き上げざる
を得ない。
 
 第2に、アジア政府は社会的支出のターゲットをより慎重に設定すべきである。
ずばりと言えば、社会的給付の目的を貧困者に焦点を絞るべきであり、富裕者に
対する補助金とすべきではない。あまりにも多くのアジア政府が公的支出を逆進
的に浪費している。アジアの政治家たちが福祉を公約するのであれば、このよう
な金持優遇と浪費を止めさせなければならない。

 第3に、福祉の成果は、経済力によるだけでなく、政治力によって決定される
ことである。福祉は政治家の資質に左右される。
 アジアの市民が将来を意欲的に設計し、より長期に働き、将来の世代にツケを
回さない覚悟を示すことによって、はじめて福祉国家を成功的に実現できること
を西欧の教訓から学びうる。
 


●●コメント●●


 アジアにおける福祉国家が、単なる将来の課題ではなく、既に現在実現を図る
べき主要な要求になっていることをこの論文によってあらためて認識した。主要
なアジア諸国の経済的発展段階は、すでに西欧諸国が社会保障制度を発足させた
時期のレベルを超えている。この認識は、一般的に共有されていないので本論の
指摘は貴重だ。
 
 民主主義が福祉の充実と切り離せないことは歴史の示すところであり、よく理
解されている。現在多くのアジア諸国で民主主義政治が成長しており、韓国やイ
ンドネシアの選挙で福祉が一番の争点になっていることは興味深い。民主主義国
家でなくとも、公平な所得配分や福祉の充実を求める声は高まる。それは、独裁
国家でも情報統制は昔日のようにはゆかず、国際的に情報と知識が広く共有され
るようになっているからである。
 
 この論文では触れられていないが、福祉国家は公正な所得再分配を担保する、
累進的で公正な税制と、効果的な徴税を可能とする、腐敗のないパブリック・サ
ービスと公務員を必要とする。多くのアジア諸国では、この面での飛躍的な改善
が不可欠である。軍事支出や軍事力では大きな国家であっても、公共業務の提供
では小さな国家が一般的だ。この状態を放置して、福祉国家の創設はあり得ない。
 
 福祉国家の実現は国民生活と人心を安定させるだけでなく、対外的な平和にも
貢献する。国民の不満を煽る排外主義は福祉国家においては育たない。今後予想
される低成長と福祉国家を両立させるためには、過度の競争と格差を抑制する政
策とそれを実現できる国家機能が必要だ。福祉は、経済の発展レベルと同様に、
むしろそれ以上に、政治と政治家の質に左右されるという結論には同感である。

 (筆者はソシアルアジア研究会代表)

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