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≪連載≫
■ 宗教・民族から見た同時代世界 荒木 重雄
タイの民衆はなぜ熱心に僧の托鉢に応えるのか
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前号に続いてタイの上座部仏教についてみよう。
タイ仏教は異なる原理をもった二つの信仰者集団からなるといわれる。ひとつ
は解脱を求めて家を捨てサンガ(教団、僧院)に入った出家者であり、もうひと
つは在家の一般大衆である。 出家者の仏教が、戒律を守って身を清浄に処し、
精神統一の瞑想によって、人生の苦からの離脱をめざすことは前号で述べた。で
は在家者の仏教はいかなるものだろうか。
タイ研究の第一人者であった石井米雄氏は、タイ民衆の仏教理解に幾つかの特
徴を指摘している。それは、ブン(功徳、善行)の観念を軸とした因果応報、善
行と悪行のバランスシート、輪廻転生、ブンの「転送」などである。これらのキ
ーワードに沿って在家者の仏教をみていこう。
◇◇民衆の信仰は因果応報
タイの在家仏教の基本思想は「タムディ・ダイディ、タムチュア・ダイチュア
」(「善行をなして善果を得、悪行をなして悪果を得る」)の一言で示される因
果応報観にある。この、善行の結果として得られ善果をもたらす因子を「ブン」
(功徳)といい、反対に悪行の結果として悪果をもたらす因子が「バープ」(罪
障)である。
人は日々の行為でブンかバープのどちらかを積む。だから、人はそれぞれ自分
のブンとバープとのバランスシート(貸借対照表)をもって生きることになる。
そのバランスシートの帳尻が、その人の現世と来世の運命を決めるのである。
タイでは、裕福な者や社会的地位の高い者は「ブンが多い」、不幸で運の悪い
者は「ブンが少ない」といわれる。人に貧富や地位の差や、能力の差、運・不運
があるのは、その個人が幾世代にもわたる前世とこの現世で積んできたブンの総
量によるとされるのである。来世の運命も同様に、地獄(ナロック)か天国(サ
ワン)か、再びこの世か、前世と現世で積んだブンとバープの収支決算で決まる。、
タイの人々は一般に、地獄の苦しみは避けたいが、喜怒哀楽を超えた寂静の世
界の天国にも魅力を感じない。この世で生きること、それもできるだけ幸せな暮
らしが望ましい。 かくして、ブンを積むこと(タンブン)は、タイの人々に
とって人生の重要課題となり、日々、ブンを積むことを心掛けるのである。
ではどうしたらブンを積めるのか。
◇◇ブン(功徳)の積み方いろいろ
タンブン(功徳を得る、徳を積む)にはさまざまな行為があるが、寺院を建て
、土地を寄進することが最高のものである。これはかつて王侯貴族が盛んにおこ
ない、現在は富豪にのみできることだが、村の祠堂の修繕や新築に少額の寄付を
寄せ合ったり労力を提供することは、庶民も日頃おこなうところである。
毎朝、托鉢僧に食物を捧げることや、折にふれて僧に衣や日用品を供与するこ
とは、庶民に一般的なタンブンである。 僧の方からは托鉢を、「衆生を喜ばせ
る行」とよんでいる。在家者にタンブンの機会を与えるために僧がわざわざ出向
いていくという発想である。
自身の出家・一時出家も価値の高いタンブンである。息子を出家させることは
女性にとっては最高のタンブンとされる。また出家する僧の後見人になって費用
いっさいの面倒をみるのも大きなタンブンになる。 寺に詣でて五戒や八戒を守
るのもタンブンであり、道端の乞食に小銭を施すのもタンブンである。寺の前で
籠やポリ袋に入れて売られている小鳥や魚を買い取って放してやるのもタンブン
である。
ところで、これらのタンブンをおこなった人はよく「サバーイ・チャイ」(「
心が洗われた」)という言葉を口にする。先に述べたように現世や来世での幸福
追求の手段としての功利的な意味合いが強いタンブンではあるが、それだけでな
く、この言葉に象徴されるような、精神の浄化、さらには、小さきもの弱きもの
への共感や、他者との共生や相互扶助への意志が込められていることも忘れては
ならないだろう。
なお、こうして積まれたブンは他界した父母の供養に「転送」することができ
る。その典型は、故人の葬儀に子や孫が短期間の出家をすることである。
◇◇出家と在家の宗教の共存
さて、冒頭で、タイの上座部仏教は、現実を苦と感じ、苦からの脱却をめざす
冷徹な出家者(僧)およびその共同体であるサンガと、現世の幸福を追求する民
衆の、二重構造からなることを述べた。ではその両者はどのように交わるのだろ
うか。
タイの、とりわけ村落社会で、僧は、「教師」であり「医者」であり「調停者
」であり「相談役」である。また、冠婚葬祭や吉事・凶事に際して、霊力のある
護呪(パリット)を唱えたり聖なる糸(サーイシン)を巡らして結界を結んだり
して、民衆の呪術的欲求に応える存在である。 こうして僧が権威者であり神秘
的な力の保持者であるのは、僧が民衆とは隔絶した別世界に住まうとされるがゆ
えである。そこには巧みな仕掛けもある。
たとえば、僧が唱える経は、その内容はなんであれ、パーリ語という民衆には
意味を理解できない言語が用いられることによって、有難い力があると民衆に期
待させるものとなる。護符に書かれる言葉では、パーリ語をわざわざ、タイ人に
は読めないカンボジア文字で書くのである。理解できないことこそが神秘性の支
えである。
上座部仏教では、出家者の共同体サンガこそが尊い仏陀の教えを保存し伝承す
る聖域とされる。ここはまた深遠な哲理と厳格な戒律が支配する、みだりに犯す
べからざる超俗の世界とされる。超俗の世界ゆえにこそ、サンガは民衆にとって
宗教的理想の源泉であり、そこに属する僧の呪文に威力を信ずるのである。
一方で、超俗の世界ゆえに僧とサンガには自活する力はない。そこで僧とサン
ガを物質的に支え奉仕することが民衆に最大の善果を約束するタンブンになる。
かくして、出家者の宗教と在家者の宗教の共生関係が完成するのである。
(筆者は社会環境学会理事長)
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