■宗教・民族から見た同時代世界        荒木 重雄 

  ~寺院遺跡をめぐるタイ、カンボジアの対立からみえるもの~
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 「民主化運動」に揺れるリビアはじめ中東・北アフリカの動向は予断を許さな
いが、前号で榎彰氏が包括的に論じておられるのでそちらに譲って、ひとまずア
ジアに視線を戻そう。

 世界遺産となったプレアビヒア寺院の領有権をめぐってタイとカンボジアがし
ばしば争い、この2月にも両国軍の銃撃戦で少なくとも9人が死亡したという、こ
れはどうしたことだろう、ともに仏教徒の国だというのに。と、訝しく思われた
方がいる。

 この疑問を解く鍵の一つは仏教とヒンドゥー教の関係にある。
  「寺院」というから紛らわしいが、プレアビヒア寺院は、仏教寺院ではなく、
ヴィシュヌ神を主神とするヒンドゥー教寺院(神殿)である。カンボジアとタイ
の国境を画すダンレック山頂に、自然の地形に沿った850メートルに及ぶ参道と
楼門、塔堂、祠堂や本殿を配したクメール様式の建築で、同じカンボジアにある
有名なアンコール・ワットより約3百年も古く、9世紀末にクメール朝のヤショヴ
ァルマン一世により創建されたとされている。

 もう一つの鍵はカンボジアとタイの関係である。
  カンボジアでプレアビヒア寺院とよばれているこの寺院がタイではカオプラヴ
ィハーン寺院とよばれているように、かつてはカンボジアの人たちにもタイの人
たちにも信仰されていた寺院であった。

 1904年、カンボジアを保護国にしていたフランスとタイの国境条約でこの寺院
遺跡は仏領カンボジアに帰属することになったが、第2次大戦の日本軍仏印進駐
とともにタイが占領。以来、両国間の係争地となり、53年にはカンボジア軍とタ
イ軍が衝突、58年には国交断絶にまで至ってハーグの国際司法裁判所に提訴、62
年、同裁判所はカンボジアの領有権を認める裁定を下した。

 こうして一旦は決着した領有問題だが、2008年の寺院の世界遺産登録に際して
タイ国内のナショナリスト・グループが反発、それに引きずられるかたちでタイ
政府が介入したのが、同年から繰り返されている紛争である。


◇◇重層するヒンドゥー教と仏教


  だが、上に述べた二つの事柄のさらに背後まで視野を広げると、東南アジアの
社会や文化の成り立ちが立ち現われてくる。

 先に述べたプレアビヒア寺院の創建者ヤショヴァルマン一世は、また、アンコ
ール・ワットやアンコール・トムで有名なクメール古代王国、アンコール朝(9
世紀~15世紀)の創始者でもある。

 アンコールとはクメール語で「都城」すなわち城郭を巡らした都市を意味する
が、ヤショヴァルマン一世はカンボジア平野の一画に、一辺が約4キロの正方形
に城郭を巡らした都市を建造し、ヤショダラプラと称した。この都城(アンコー
ル)を首都に発展した王国がアンコール朝であり、アンコール・ワットやアンコ
ール・トムはのちにこのヤショダラプラが包含する地域内に造営されている。
 
  アンコール朝は一時、現在のタイからラオス、ベトナムに及ぶ大帝国を建設す
るが、その最盛期を画した王が二人いる。一人が12世紀前半のスールヤヴァルマ
ン二世で、彼はヒンドゥー教のヴィシュヌ神を篤く信仰し、自らをヴィシュヌ神
になぞらえてその偉業を称え、また〈ヴィシュヌの崇高なる地に向かった王〉の
諡号をもつ自分の死後の霊廟として建立したのがアンコール・ワットである。
  もう一人は12世紀末から13世紀初めにかけてのジャヤヴァルマン七世で、〈偉
大なる至高の仏教徒〉を諡号とする彼は大乗仏教を奉じ、自らを仏陀の化身とし
て祀ったのが、彼が再築した城郭都市アンコール・トムの中央に聳える寺院バイ
ヨンである。

 この二人の王にかぎらず、アンコール朝の約6百年は一面、各王統の権力闘争
の歴史でもあり、その盛衰にともなってそれぞれの王統が奉じるヒンドゥー教と
大乗仏教が支配宗教の地位をめまぐるしく入れ替わり、また入り混じる時代でも
あった。


◇◇葛藤するクメール族とタイ族


  カンボジア人とタイ人は、かたやモン・クメール語族、かたやタイ・カダイ語
族に言語学的にも分類される異なる民族である。 クメール族のアンコール朝が
インドシナ半島に帝国の版図を広げはじめたころ中国の雲南地方から南下してき
たタイ族は、以来、長い間、クメール族の支配下にあまんじることとなった。

 ジャヤヴァルマン七世が没しアンコール朝に陰りがみえてきた13世紀前半、タ
イ族は、クメール族太守支配下のスコータイを攻略し、ここにタイ族最初の国家
スコータイ朝を建設した。
  その第3代王ラーマカムヘンはマレー半島北部のちにビルマを経由してスリラ
ンカから上座部仏教を導入して国家宗教とし、併せてクメール文字を改良してタ
イ文字をつくり、仏像彫刻や寺院建築にも彼の治世下で独自のタイ様式が確立さ
れた。

 スコータイを吸収してさらに強大となったタイ族の王国アユタヤ朝は14世紀に
入るとカンボジアに侵攻を繰り返すようになり、クメール族は首都をヤショダラ
プラを放棄してプノンペンに移し、さしもの栄華を誇ったアンコール朝も終わり
を告げるのである。

 アンコール朝の終焉とともにヒンドゥー教、大乗仏教も衰退し、やがてカンボ
ジアにタイが導入した大寺派上座部仏教が広がっていく。タイでは上座部仏教
は、在来のマハーニカイ派と並んで、現王家ラタナコーシン朝の第4代王モン
トック(19世紀半ば)が厳格な持戒の復興をめざして創設したタマユット派があ
るが、これらがカンボジアでもそのままモハーニカイ派、トアンマユット派の名
でおこなわれている。

 プレアビヒア寺院周辺の国境をめぐるカンボジアとタイ両軍の銃撃戦という事
件の背後にも、このような民族と宗教の複雑で遥かな歴史が広がっているのであ
る。

      (筆者は社会環境学会会長・元桜美林大学教授)

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